1-4.貧乏貴族庶子の師匠

「おいしかったです」


 皿をきれいにしたユリウスは、席を立つ。この世界には、食事を終える際の挨拶というものは特にないのだが、彼はいつしか、このフレーズを自然と口にするようになっていた。屋敷では基本的に一人で食べており、その時には声をひと言も出していなかったのだが。


「おう坊ちゃん、いつもうまそうに食うねえ。どうだ、この娘っコも、けっこううまそうに育ってるぜ、デザートに食っちまグヘッ」


「クソ親父、まったくいつもいつも。ホント、毎日ありがとね」


 にぎやかな店から、外に出る。


 自慢の看板娘が、領主様の子息と仲良くしているのを見れば、店主とすれば、そんな軽口を叩きたくもなるのだろう。看板娘は十六歳、この世界では立派な適齢期だから、いいお相手を見つけたくてうずうずしているとは思われる。それでも、九歳のユリウスとは、あまりにも年齢差が大きすぎる。彼がそういう視線で見ることはないし、誰も本気にはしていない。


「親密さを示そうとしているんだろうけど、二回に一回の割で言うことじゃないよね」


 食事はおいしいのに、接客があれじゃどうにも、と思うけど、そもそも、顔見知り以外、誰も出入りすることなどない。既存顧客に逃げられないよう注意することが第一だし、それなら、常連客を楽しませるような接客を心がける。なるほど、商売人としての姿勢としては正しいのだろう。


「変わらないことに依存した商売、か。万事これだと、あらゆるものが硬直化するんだろうな」


 人の生活が、良くも悪くも、動かない。それをどう評価するのかは、難しい。ある事象が望ましいものかどうかは、当事者はもちろん、観察者によっても多いに変動する。例え神の視点であっても、それは巨視的なものであるというに過ぎず、微視的には正解とは限らない。


 それでも、ユリウスには、この村の沈滞した空気は、物足りないものに思えて仕方なかった。


「うん、やっぱり、王都に行きたい」


 ここにいる人たちが幸せではないとは思わないし、そんなことは言わない。でも、僕はもうちょっとだけ、野心的になってもいいよね。彼は、そんな風に思う。


 ユリウスは、腹がくちたところで、彼にそのようなことを思わせるようになった人に、会いに行く。


「フランツ先生、こんにちは」


「おう、ユリウス君か、いらっしゃい」


 ユリウスが挨拶した相手は、三十代後半とおぼしき年齢の男性。背が低く体格もいいものではなく、したがってこの世界では、軽視されやすい外見といえる。しかし、先生という敬称を付している通り、ユリウスにとっては師にあたる人物だ。


 このゲルツ王国では、公的な教育機関が存在しないのはもちろん、聖職者や篤志家による私的な公共教育サービスなどというものも見当たらない。もちろん、初等教育に関するニーズが皆無というわけではないが、そういう向きは、一対一の個別指導サービスを受けている。具体的には、基礎教育に対する理解のある貴族や商人などは、その子女に対して家庭教師を充てる。貴族家であっても、基礎教育に対する理解など持ち合わせていないことなど珍しくないのは、フリードホーファー家を見れば一目瞭然だが。


 だからユリウスは、この村で文字の読み書きに長けている人を探し出して、教えを乞うて居たのだ。子供のみで謝金など用意できるはずもないので、こちらでも山で狩りをした成果を差し入れてはいるが、どう見ても割にあうものではない。


「今日はこのぐらいです。いつも少なくて、すいません」


「そんなことで遠慮しちゃだめだよ。君は、教えを受けて、自分で考えることで、さらに大きくなれるんだ。もし足りないと思うなら、研鑽を積んで、何かの形で他の人に恩返しをすれば、それでいいよ」


 それでいいのだろうか、ユリウスはいつも思う。


 このフランツなる男性、つかみ所がないものの、古典や文芸、作法や祭祀にも通じている。単なる在野の知識人などではなく、どこかの偉い人が、何らかの仕事をしているのだろう、ユリウスも子供ながらにうっすらそう感じている。一方で、僕みたいな子供が不審に思うほど、あからさまな存在感を見せて隠そうとしないことなんてあるのか、とも思う。そういった考えが顔に出ていた時。


「ユリウス君。知りたいと思うことは大事なことだ。でもね。それでわかることが大したものじゃないのに、知ろうとすることが危険を伴うってことも、あるんだよ。だから、特に人の正体や経歴に対して好奇心を向けるのは、慎重に慎重を重ねるべきなんだよ」


 迫力のある笑顔で釘を刺されたユリウスは、青い顔でうなずくしかなかったのは、言うまでもない。


「ところで、ユリウス君。近々、王都へ移って、お兄さんの仕事を手伝うそうだね」


「は……はい。あの、失礼ですが、どこでそれを」


「いろいろ話題になっているからね」


 どこで話題になっているのだろうか、それが気になったが、突っ込んで確認する気にはなれなかった。


「その仕事というのも、武ではない、いや、武が介在できない領域のものらしいね。うん、いいことだと思うよ。せっかくの機会だから、代言人や公証人の資格取得を目標にするといい。君なら、そうだね、後八年もあれば、国際資格を優に取れるだろう」


 代言人は、法廷で代理人になるなど法律事務を行うことができる資格で、現代日本の弁護士に相当する。公証人は、書類の形式および記述内容の双方について真正性と正当性を保証して効力を判定できる資格で、現代日本の公証人の他に公認会計士に近い権限も持つ。いずれも、国家横断的な国際資格で、どの国に所属していても通用するが、国際的なルールやその基本となる古典法体系の知識も求められるため、相当な難関試験になる。


 ゲルツ王国のように、裁判だの何だのまで上級武官の裁量に任されている国は他に例がなく、よほど文明程度の低い国を除けば、通常、法令に関する深い知識を備えた専門家が実務に当たっている。ゲルツ王国と友好的な関係にあるシュレーディヒ王国などは、司法関係者の人事権は当事者のみに帰し、最終審判決についても国王個人が異議を申し立てられるだけで、王国としてはそれを否定できないのだという。つまり、この国に限らず、強い力を持つらしい。


 試験は、各国の有資格者が、自分が属しない国で実施している。ゲルツ王国での有資格者はほとんどおらず、合格者もここ十年ほど皆無という。ちなみに、合格した有資格者は、職を求めて国外へ出てしまうそうな。


「でも、法というものは、あくまでも無形の秩序を体系化しただけですよね?」


 九歳児の質問ではないが、これがユリウスという男の子だ。天才というのではなく、やはりどこかに歪みがあるようではある。


 フランツは、その問いには答えずに。


「武が権威の支えになる国。法が権威の支えになる国。一長一短はあるけれど、ユリウス君が身を立てようとするなら、武で成り立つ国は、とても都合が悪いだろう。それに」


「それに?」


「間違いなく、君は、武が国権を左右することを、忌避している。理論的にではなく、直感的にね」


「それは」


「その直感の正否はさておき、君が望ましい国家体制というのは、君が大事に思うこと、大事に思うもの、そして、大事に思う人が、尊重される体制のはず。そして、君は、その体制をどのように正当化、いや、合理化していこうかと、悩んでいくことになるはずだ」


 ユリウスは、返答できない。


 彼にとって、大事に思うこと、大事に思うもの、大事に思う人、そういったものが、頭に浮かばないからだ。


 むやみにといっていいほど早熟なユリウスといえども、理想主義的な観念は持ち合わせている。いや、忌避すべき邪悪なものを排除する観念というべきかもしれない。しかしそこには、何かを守ろうという意識はなかった。それが、彼を当惑させる。


「尊重、ですか。理屈としてはわかりますが、感覚としてはよくわかりません」


「そうか。じゃあ、聞き方を変えよう。もし君に、好きな女の子、いや、気になる女の子がいるとしよう。そう、目の前に居たら、ぎゅっと抱きしめたくなるような女の子が」


「……」


 それだけで、耳まで真っ赤になるユリウス。この方面では、まだまだウブなのだ。


「そういう女の子が、君の目の前で、斬殺されたり、刺殺されたりしたら、どうする?」


「草の根を分けても犯人を捜し出して、同様の方法で殺します。そして、それを命じた者も、同様の目に合わせます」


「それじゃ、気になる女の子がさらわれて、そうだな、娼館でも売り飛ばされて客を取らされたりした上に殺されたら、どうする?」


 生々しい問いだが、ユリウスも、その手の知識はすでにある。あくまでも知識だけだが。


「やはり犯人を捜し出しますが、関係者が多いでしょうから、そいつら全員捕まえて、彼女と同じ目に合わせます、死ぬまで延々と」


「うん、つまり、報復しようと思うわけだ。その感情は、人間として当然だと思う」


 フランツはここで一拍置いてから、話を続ける。


「そういう報復というものは、行われた悪事、つまり、行為に対して行われるものだ。相手が悪人だから、人倫にもとる者だからという理由ではなく、行為という客観的な結果によって判断される。それこそ、法によって権力が行使されるというわけだ。もちろん、権力を行使するためには、力がなければ実行できないけどね」


「つまり、先生がおっしゃるのは、統治は法によって平準に執行されるべきであり、力はそれを実行させるために用いられるべきだ、と」


「うん。だって、考えてごらん。力ある者が世を治めるというのなら、その者が力を失った途端に、その世は乱れることになる。どんな人間だって、いつかは寿命がくる。それに、力ある者に、統治能力があるとは限らない以上、権力の移管も難しくなる。つまり、力そのものを統治の源泉にすれば、短期間ですぐに不安定になるんだよ、確実に。でも、力がなければ、その統治が簡単にひっくり返されるのもまた、一面の真実。だから、統治を成り立たせるための条件の一つではあるけれど、それがあるからといって統治が可能になるはずはないんだ」


「力は、支配に不可欠ではあっても、あくまでも構成要件の一つに過ぎない、ということですか」


「構成要件というより、維持条件とでもいったところかな。力なくして法秩序はあり得ないしね。そして、力があってこそ、法の下で行われる力の行使もまた、制約されるわけだ。感情による私的復讐行為の禁止も含めて、ね」


「……それでは……」


「うん?」


「復讐という、極端なまでに感情が向けられる行為でさえ、法で制約されるとなれば、その主体である人間は、法の奴隷になるともいえますよね」


「奴隷、ね。確かに、法というものが、反論を許さない絶対服従を要求するものであるなら、その表現は正しいだろう。そしてまた、人が一人だけで生きるのでない限り、人と人の間に関係が生まれるのは必然だし、そこにできる規則を無視するわけにはいかない。だから、法の奴隷に“なりうる”とはいえるね。でも、考えてみよう。法とは、誰が、作るものだろう?」


「それは……」


「これは難しいことだし、実のところ、わたしも、確たる答えを出せてはいない。宗教によっては、神が伝えた戒律が絶対であり、それが神聖不可侵の法とされている例もあるらしいからね。でも、もし君が、人を動かす立場につくことを考えているなら、心しておいてほしい。人を動かすとき、その根拠には何があるか、と。その視点を見失えば、結局は、力任せの支配に逆戻りになるから」


「……」


「よし、これは、今後の宿題にしておこう。すぐに答えが出るはずはないし、出すべきでもないから。それじゃ、今日はこれから、礼儀作法をもう一度押さえておこう」


「礼儀作法、ですか? 以前、もう大丈夫、と」


「いやいや、単なる貴族の子息程度の立場だけで終わるわけじゃないと思うよ。それに、王都に出て、王宮に関わる仕事に接するなら、王家の中でもかなり上位の方々と絶対に接するようになるから。例えば、王族と会うとしよう。非公式の場で、双方の使用人以外誰も居ない状況で、王族側がアポなしで訪れて、そういう場合に、適切に対応できるかい?」


「あまり自信ありませんが、そんな極端な」


「それじゃ、早速やろう。ほら」


 単に、教養ある知識人というだけに留まらず、ユリウス・フォン・フリードホーファーという一人の少年に対して入れ込んでくる、この男性。


 ユリウスは、彼に対して、師匠としての敬意を抱くと共に、その腹に抱えているものを見通せず、薄ら寒い思いさえしていた。


(でも、何だろう。この先、どこかでつながりそうな気がするんだよね。先生とは)


 一方のフランツは、ユリウスという少年のことを、七割の期待と三割の恐れをもって見ていた。


 好意的に接する者には、自分もそれに見合った対応を取る。距離を置いて接する者、悪意を持って接する者、等々については、それなりの対応を取る。人間が社会生活を送る上では、当然となる処世術だ。しかし、相手によってこういう対応を柔軟に切り替えることができ、それが相手との間に余計な摩擦を起こすことなく、さらに自分に無用のストレスをかけないというのは、意外と難しい。


 ところが、ユリウス・フォン・フリードホーファーという九歳の少年は、これをやすやすとやってのける。


 それは、彼自身の英明さを反映させているのは確かだろうが、より重要なのは、彼が自分を取り巻く者に対して、自分との距離を常に測定しなければならない他者と評価し、それによって自分の行動や言動を律するという、年齢から見て異常ともいえる老獪さを抱えていることにある。王宮内のように、高度な政治的判断を常に要求されるシビアな環境に置かれているわけではなく、単に田舎貴族家で冷遇されているという程度なのに、だ。


 特に残虐性などないし、短慮では決してないし、人当たりはむしろ温厚。ちょっと会話を交わすぐらいなら、礼儀正しい少年としか思われないだろう。意図的に踏み込もうとするのでなければ、この少年の本性など、わかるものではない。


 そしてまた、ユリウス自身、彼がどういう人物なのか、わかってもらおうとは思っていなかった。自分を見せるということを意識するような相手など、これまで誰一人としていなかったから。


 別に、世に対して拗ねていたわけではない。自分の事を理解できる者などいるわけがないだろう、などというのは、思春期の少年なら誰しも抱くことのある考えだろうけれど、彼は他者を積極的に排除しようとしたわけでも、また、そういう姿勢を格好いいと思ったわけでもない。


 ただ、他者に対して、徹底的に無関心であり、無感情になっていたに過ぎない。関心を持ったり、共感を抱いたりしては、自分の身が危ない、そういう半ば本能的な危機感があったから。


 両親の愛情を受けて育ったわけではない。暖かい家庭で育ったわけではない。それでも、ここまで冷えきった心情を抱えて育ち、そして、逸脱行動に走るわけでもない。外見は優等生そのものだが、内実はかなり異常な育ち方をしている。現時点では抑制的ながら、これで利己的行動が強くなれば、サイコパスのできあがりになる。


(前途有為とはいえ、どんな人間になるのか。一応、ストッパーは用意したけど、十年先にどうなるかなんて、わからないからね)

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