1-3.貧乏貴族庶子の社会勉強

「エッダおばちゃん、こっちの分は収穫終わったよ! 雑草ももうないから、後は、こっちの土を掘り返せばいいかな?」


「ああ、お願いね」


 森で狩りをしたユリウスは、村に戻ると、屋敷から歩いて二十分ほどの所にある農家で、農作業の手伝いをしている。


 別に、父親に命じられているわけではない。貧乏で脳筋とはいえ、そこは歴史ある貴族だから、領民の生活を知る機会を設けるのはいいとしても、領民と同じ場所に入り込んで手伝うなど、考えも及ばない。頭ごなしに領主の息子がやることじゃないと言うか、妾腹の子ならお似合いだと言うか、いずれにせよ、ポジティブな評価をすることはない。


 かといって、文官肌の、長兄ゲラルトに勧められたわけでもない。庶民の目線を知ることは大事とか、労働の尊さを知ることで領民の気持ちをくみ取るとか言いそうではあるが。


 しかし、ユリウスの感覚では、そういう視線は、どちらも見当違いだ。


 貴族、いや領主として統治する者であれば、被支配者が表に見せている意識などは、体験せずともくみ取れなければならない。体験してやっとわかるというのでは、鈍すぎる。そしてまた、農作業の手伝いぐらいで、農民が身に付けている知恵や経験を知れるはずがないし、教えてくれるはずもない。手伝いそのものから直接得られるものは大してない、そう思っている。


(そうじゃない。領主からの視線とか、書類に表れることとか、それだけじゃわからないことを、現地で気付く、見抜くことの方が、ずっと大事。領主に届かない、そして個々の領民自体も把握していない“声”を拾い上げる力を身に付けないと)


 およそ、領主の子供が、自分の考えだけでやる仕事ではない。本来、家臣や協力者、せめて継承候補者がやるべきことだ。でも、やる者、やろうとする者は、誰もいない。だからこそ、ユリウスは、あえて身分を隠さずに、お人よしのお坊ちゃんとして、手伝いに汗をかく。報酬は、目力を鍛える機会だ。


(こういう力を鍛えることは、人を使うような立場になれば、どんな仕事でも役に立つはず。別に、領主でなくても、ね)


 一通りの作業を終える。農家のおばさんが入れてくれた冷たい水が、喉に心地よい。


「ホント助かったよ。また来ておくれよ」


「僕の方こそ、勉強になります。今度は西の方へお手伝いに行くので、しばらくご無沙汰になりますが。また今度」


 にっこり笑って立ち去る。うん、おばちゃんの表情や言葉には、裏表ないね。そういう姿勢なら、こちらも素直にこたえる。そうでない場合は、それなりにこたえる。いい子の処世術、ってやつだ。外から思われているほど、彼はお人よしでも何でもないのだ。自分の性格が決して褒められるものではない程度に自覚は、ユリウスにもあるが、それは良いのか悪いのか。


 西の方へお手伝いといっても、行き先は王都だから、ここへ戻ってくることは恐らくない。


(収穫物の保管場所、意外な形で分散させてるんだね。置き場の形を見れば、水害や虫害対策とは思えないから、徴税人の目をごまかすための方法か。相手もプロだから、ある程度は見通せるだろうけど、いちいち調べていると手間や時間がかかるから、見破られても調べられないラインがある。そこを見定めているか、あるいは、徴税人と談合して妥協点を見つけているか)


 九歳児の社会勉強にしては、恐ろしく生臭い観察結果だ。


(税を自主的に喜んで納める者は皆無だし、一文でも減らそうとする、それがまあ、本能というか習性みたいなもんだ。逆に、納めるべき税を納めずに済んだり、少なく済ませられたりすれば、得をした気分になる。つまり、公式の税はこうだけど、実際に納めている税はこれで済む、とやると、民の満足度は上がるってことになるのかな。でも、税は本来、公平、公正であるべきだし。納税満足度の向上は大事だけど、やっぱり邪道だよねえ)


 繰り返す。この男子は、九歳児だ。話し相手に同世代の子供がおらず、大人ばかりに囲まれて育ってしまったために、こんな風に成長してしまったのだろうか。


 年齢に比べて恐ろしく早熟なユリウスだが、彼にはその認識はない。比較対象がないから。


 そして、村の中心部へ戻ると、彼は一軒の食堂に入る。


「レオナお姉さん、今日の食べ物ですよー」


「やあユリウス君、ありがとう。いつものおすすめでいいかな?」


「はい、お願いします」


 ここには、ユリウスが森で調達した木の実や獣肉、農家でお裾分けしてもらった野菜などを持ち込んで、その代わりに彼用の昼食を作ってもらっている。


 普通に食材として販売して、普通に料金を払って食事をする方が安く上がるが、ここはあえて、物々交換にしている。理由は単純で、こうすることで先方の心理的なハードルを下げて、信用度を高めるためだ。


 商業活動として継続的に取引をするのなら、売り買いをハッキリさせる方がいい。でも、あくまでも“子供のお手伝い”のレベルにとどめるなら、金銭を介在させずに、好意を受ける方が、お互いに気分もいい。責任も発生しないから、何も採れなかった場合でも、気に病む必要もない。


(それに、屋敷で口にできないおいしい食事を出してくれることに対する、ちょっとした感謝の念もあるしね)


 ちなみに、このお姉さんは“おすすめ”と言っているが、来る客来る客、誰もが“おすすめ”を注文している。これは、手間がかからないという店側の事情だけではないそうで。


「メニューがいっぱいあっても、覚えられないでしょ。一覧を書いても意味ないし」


 店の利用客のうち、字を読める者などほとんどいない。村の中には、字を読み書きできる者がいないわけではないが、そういう者は、こういう食堂を使わず、料理人を置いている身分なのだ。どこかの領主は、とっても庶民的なのだ。


(文字が使えなくても、視力があるなら絵を使うとか、いろいろ工夫するのもいいと思うのだけど。記憶しようと努力すること自体、考えもつかないのが、この領都の平均的な住民の発想なのかな)


 もちろん、店員だって、努力はしている。材料の目利き、調理の手順、盛り付け、接客、そういうことは、日々励んでいる。でも、体で覚えるのではなく、頭で覚えることは、努力してまでやるものではないし、それより変化の少ないものを重点的に扱っていけばいい。それが、ここの実態だ。いいとか悪いとか、そういう問題じゃない。


 でも、現場の当事者がそのままで構わないと思っても、別の角度から見ている関係者にとっては、存置できるものではない。利害関係が存在しないのなら、口を出す権利はないけれど、そういう現場の人間を支配する者、あるいは統率する者が、現状を放置するのは、怠慢でしかない。


 もっとも、“見ている関係者”が、現時点で何の権限も権力もないだけでなく、将来もそれらを手にする見込みがない以上、無関係者も同然ではあるけれど。


(覚えようとする機会がないから、知識を広める機会がなくて、考えるための材料を増やす機会がない。民から考えることを奪うというのは、為政者が本能的に選択する手法ではあるけど)


 頭の中に、モヤモヤしたものが渦巻く。


(ここに居る人たちが、主観的に幸せであれば、それでいいのか。為政者の視点で、望ましい生き方であれば、それでいいのか。いや、そんな尺度で、人の生きざまを規定しちゃいけないね。人の生きざまって、当人が主体的に選択できるものじゃないから。結局、まわりの価値観との摩擦をほどほど程度に抑えて、その中で動いていくのが、消耗の少ない生き方なんだろうから。倫理を、個人だけに押し付けるのは、無責任だよ)


 この世界には、政治学や倫理学という学問はあっても、社会学という学問はない。つまり、規範という概念は存在しない。その中で、こういう発想をする九歳児。優等生的な倫理観と距離を置いて、しかしむやみに反発したりもしない。表面的には倫理的な行動から逸脱していないものの、実際には倫理というものに対してきわめて冷笑的な態度を崩さない。


 ユリウスは、非常に早熟であって、それゆえに、彼を秀才として高く評価する者は、少数ながら確かに居た。しかし、彼はそれと同時に、非常に歪んだ危険を帯びた存在でもあったが、その危うさに気付いている者は、彼の身近には、誰一人として居なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る