父の娘
猫宮
第1話
父が肺を患って死んだ。
ベビースモーカーだった父のことだから、肺がんという結末すら喜んでいるように見えた。残された母は、ずいぶん苦労した。
母の途方もない努力のおかげで成人した私は、ようやっと大人になった。やっと母親に恩を返せる。苦労をかけた母親のために、やっと、やっと、役に立てる。
本心でそう思っていたのは、いつまでだったか。あまり覚えていない。
母は、私が父の面影をなぞることを嫌った。
煙草は吸うなと子供の頃から言われてきたし、父の遺品だったギターに私が手をつけようとすれば、すぐに売り払ってしまった。
父の描いた絵を私がしまい込んでいるのを「どうして隠すの」と怒られた。薄い紙がぐしゃぐしゃと母の拳に潰されているのを見て、(だから隠したんだ)と思った。
母は、父のせいでかなり苦労してきたから、仕方がないんだと思う。
現に、父の残した借金や愛人関係の後処理で母は父が生きていた頃と同一人物とは思えないくらいに痩せた。私を大人になるまで育ててくれただけで、感謝すべきなのだ。それが義理ってやつだ。
(そうしなきゃいけないって、わかってるのになあ)
思いながら、ぼんやりとソファーに寝そべった。実家から来ている電話を、また無視してしまう。
実家にいる間、あの空間を窮屈だと思ったことはなかった。家を出て初めて、私は本来、もっと自由に生きることができるのだと知ってしまった。と、そう思う。
ソファーの脇にあるサイドテーブルの上で、煙草の吸い殻が山積みになっている。口に咥えていた煙草を指で挟んで白い息を吐き出した。副流煙が目に染みる。
ぼんやりと付けっぱなしのテレビを見ていたら、不意に寝室から彼女が来た。
下着姿でキャラメルのような色をしたロングヘアをぐしゃぐしゃと掻きながら「おはよぉ」と目尻を下げる姿は妙に色っぽい。吸っていた煙草を灰皿に潰して、「おはよう」と答える。
「電話? カノジョ?」
自分が本命ではないと知っている彼女は、なんてことない素振りで、けれど何処か期待するような表情をしていた。この子の、そういう、面倒くささを隠そうとするいじらしさが、どうしようもなく面倒くさくて可愛い。
「違うよ、母親」
答えながら、上半身を起こす。彼女の柔らかい胸がたゆんたゆんと揺れているのが見えて、吸い込まれるように手を伸ばす。彼女の首筋に腕を回すと「またぁ? 今日はもうやめてよぉ」と、曖昧に笑う。満更でもなさそうだ。
「電話、出てあげないの?」
「今は、ユイがいるからね」
きゅ、と抱きついて耳の裏にキスをする。ぐい、と引っ張ると容易く彼女はソファーに倒れ込んだ。さっきまで触れていたはずの熱なのに、なんだか新鮮に愛おしい。
「私を言い訳にしないでよぅ」
したったらずの甘ったるい声。腹の立つくらいかわいこぶった声。彼女からするバニラのような香水の匂いが、さっきまで吸っていた煙の匂いと混ざった。
齧り付くように唇を重ねると、さして抵抗もせずに身を委ねる。彼女は常に人恋しいのだ。誰かに抱かれることで底なしの自己肯定感を埋めて、希死念慮を誤魔化している。おばかで可愛い、私の愛人。
何度かキスをしてから、ゆっくり彼女の肩を押して唇を離す。彼女は物足りなさそうな顔をしながら私を見下ろしている。
「……ユイがそうして欲しいなら、電話に出たって私はいいんだよ?」
笑いながらそう答えると、お預けを食らった彼女がム、と唇を尖らせた。彼女の普通よりも分厚い唇が唾液のせいで光を反射している。色っぽいな、と思った。
「いじわる言わないでよ」
拗ねたような声で告げる。
あどけない子供のようで、触れる肌はあまりにも艶やかな肉感を持っている。
伏目になって睫毛の長さがよくわかる。彼女の存在感のある睫毛は丁寧にマスカラが塗られていて、けれど少しはげていた。そのまばらな睫毛のラメにキスをして、ひょいと彼女の肩を掴んで体を翻す。ぼす、と彼女がソファーに倒れて、私の顔を期待するように見上げている。
だから、私はその期待に応えるだけ。
「ごめんって、私がユイを抱きたいんだ」
いじわるでごめんね、と笑いかければ、彼女はぐしゃりと笑った。泣き出す子供みたいな笑顔だと思った。
彼女の顔を見ないため、みたいにキスをする。
汗ばんだ肌に指を這わせる。
ぐずぐずの熱量は絡み合って、息も、温度も、溶け合ってどちらのものかわからない。
彼女を、ユイを、愛おしいと思う感情に嘘はないのに。どうして私は彼女だけじゃ満たされないのだろう。
考えたって仕方のないことを考えるよりも先に、本能みたいに彼女を貪っている。何度も何度も唇を重ねる。何度も彼女の尊厳を食い潰すように犯す。彼女の弱さに依存して、私も孤独を誤魔化している。仕方ない。所詮私は、父の娘なのだ。
サイドテーブルの上では、まだスマホが着信音を響かせていた。
父の娘 猫宮 @Darkness_kyatto
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