新しい道へ

第34話 白鹿の治水事業

 蒼天での一年の学びを終えて白鹿に戻った武尊は、白鹿王に蒼天の治水の知恵や政の知恵、澪珠との婚約についてを報告した。そして、白鹿国の治水についての計画を示し、すぐに事業に取り掛かる許可を得た。



 武尊の計画には、大きく三つの事業があった。


 第一に、西方で起きた洪水によって出来た新しい川から幾つかの支流を作り、新たな氾濫と洪水を防ぎ、貴重な雨水を各村へ引き込み利用できるようにする。

 第二に、各村には雨水が少ない時の非常用となる、川の水と雨水を溜め置く小さな池を作る。その池にも工夫を凝らし、池の一カ所に極細い水路を作っておき、ほんの少しずつ水が流れるようにして淀みを遅らせる。

 第三に、これらすべての工事に村の民の参加を推奨し、十三歳以上の者には給金を出し、十三歳以下の者でも何らかの仕事が出来る者には参加を許し、食事と寝所が与えられる。


 この武尊の蒼天譲りの治水事業は、国を挙げての大事業となった。この事業により、貧しい民の今の暮らしだけでなく、将来の救済につながるようにする狙いがある。また、貧しい民だけでなく、国の兵士として暮らす者達の参加は大きな力となった。戦が終わり平穏な世に暮らす兵士達にとっては、治水の工事現場は足腰の鍛錬の場となり、戦に行くよりずっと心穏やかに生きられる毎日を喜んだ。こうして多くの者達の尽力で、白鹿の治水事業はどんどん進んでいった。


 民の心に希望と活気があふれる治水事業の始まりには、何より白鹿王が希望を取り戻した事が大きな原動力となった。武尊が帰国したあの日、蛇鼠より賜った〈希望の滝〉に、白鹿王が見たものは、一つの温かい思い出と一つの瑞々しい希望の姿だった。



 まだ幼き日の皇太子と武尊の剣の修練の様子と、それを見守る白鹿王の姿。その修練の後には、三人で梅糖を食べ笑顔を浮かべている穏やかな情景。希望の滝に写し出されたその情景に、白鹿王の頬を涙がつたい乾いた心は潤い、胸には再び温かいものが広がった。

 更に希望の滝には、蒼天の東風節で仲睦まじく紅梅天燈を飛ばす武尊と澪珠の姿。小さな宴の席で、互いにかんざしを贈り合い婚約をした、我が皇子と幼き姫の姿が写し出されていた。その情景に白鹿王の心は、まだ見ぬ白鹿の新しい世を感じ希望が生まれたのだった。


「そうだ。白鹿にはまだ未来がある。未来を担う皇子と、寄り添い共に歩もうとする姫がいる。私はまだ、その者らを導き助けとならねばいかん。」


呟いた白鹿王は、顔を上げ、希望の滝を持ち帰った武尊の顔をまっすぐに見つめた。


「父上、共に白鹿の善き未来を作りましょう。白鹿は、まだまだこれから。未来には、より豊かに素晴らしい国となります。」


この時、顔を上げた父の目に力を感じ、武尊自身の心にも瑞々しく温かい希望が生まれていた。希望が湧き上がった父子は、互いの希望を一つにするように抱きしめ合った。

 こうして、白鹿の王家に生まれた二人の心の希望が、白鹿を潤いのある国土へと変える大きな力となるのだった。





 蒼天では、澪珠がこれまでより一層、様々な学びに意欲的に励んでいた。だが、生来の気質か、針仕事や御茶事より馬術や弓術が得意だった。泰極王は、その事を少し気にかけ空心に心の内を漏らしていた。


「なに泰様。案ずる事はない。澪珠は七杏の娘だ。血は争えぬ。七杏も幼い頃は、吉紫山を駆け回っておったわ。寺育ちゆえ、馬術や弓術は教えられなかったが、もし教えていたら大喜びで稽古に励んだ事であろう。はははっ。天民もよく知っておるに。」

空心は笑い飛ばした。


「なるほど。澪珠の気質は、七杏譲りですか。」

泰極王の顔が晴れやかになった。


「そう、案ずる事はない。今や七杏は、立派に母となり王妃になって務めておる。大丈夫。澪珠は、そなた達二人の娘であろう?」


「はい。空心様。澪珠は紛れもなく、私と七杏の娘にございます。そうですね。澪珠を信じると致しましょう。」

泰極王は、高らかに笑い空を見上げた。


 美しく蒼い、蒼天の希望がどこまでも広がっている。



 この頃の澪珠は大いに闊達であったが、歳を重ねるにつれ美しさは増し、輝きを放つようになっていった。水鏡の試練の頃の子猿のような澪珠の面影は、年毎に薄れ、十五の歳を迎えた時には、しとやかさも身に付けた姫に変わっていた。


 

 五年という月日は、放たれた矢の如く過ぎ去った。あの日、泰極王が、澪珠に言ったように。澪珠が泰極王の元で娘として過ごせる日々は、終わりを告げようとしている。



 武尊が手掛けた白鹿の治水事業は、五年の歳月をかけ工事が無事に終わり、乾いた土の国は水を得て、少しは農作も出来るようになった。

 それでも、使える水はまだ少なく雨水頼みは変わらない。その雨も少なく、月に三日も降れば大喜びという程度。水を豊富に使う稲作は出来ない。少しの水と痩せた土でも育つ穀類や豆類、芋が主流である。それでも民は、日々食べる物を作る喜びと収穫の喜び、売り買いする喜びを味わい満足していた。白鹿での新しい暮らし方を得た喜びを、大いに感じているのである。


 この治水事業の炊事場では、煮炊きや洗い物を覚えた幼い子らがいた。幼い子らは、共に寝起きし働く中で仲間や大人との接し方を学び、中には読み書きを教えてもらえた者もいた。そうして五年の工事が終わった時には、都へ出て奉公する道を選ぶ者もいた。この治水事業が、貧しく何の術もない幼い子らにも、生きる希望と道を生み出していたのだった。


 工事が終わった後に各村に残った炊事場は、国の援助を受け救済所となり各村の民が運営した。この救済所で身寄りのない幼子を受け入れ、煮炊きや農作を共に行い読み書きも教えた。治水事業の工事中に幼子らが培ったように、ここで生きていく力を身に付けられるようになった。

 これは武尊が水鏡で見た、あの盗っ人の幼子が教えてくれた悲しみと、力強く生きる姿から得たものだ。工事の遺産の炊事場をこのように活用できたのも、砂漠の王が見せてくれた水鏡の試練のお陰だと、武尊は感謝していた。




 そして、今年も穏やかに美しく桜が咲き白鹿国に彩りを添える頃を迎えた。治水工事を終え、初めての春である。整備された川や池に蒼き空が映り、風に運ばれた花びらが浮かび、これまでになく美しい春の光景が白鹿に広がっている。


 武尊は、初めて見るその美しき自国の光景を、馬で駆け行く先々で味わった。新しく生まれ変わった白鹿の国土に、喜びと達成感、深い感謝を感じ、早くこの美しい白鹿を澪珠に見せたい。この国で、共に過ごしたい。そう、胸の内で強く思った。新しい国土を作り上げた自負と、澪珠への溢れる想いを感じた武尊は、蒼天国の泰極王に文を送った。


 五年の月日が流れ、いよいよ約束の時が来たのである。武尊は、澪珠を迎えに行く準備を進めた。











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