第9章:白竜の王女(6)
クリフが得てきた情報に、カタラの証言を加え、魔王教団本拠地の構造を把握した遠征軍は、選抜された精鋭をもって、砦内に突入する事になった。
「エステル様」
緊張した面持ちのクラリスが、見送りの先頭に立っている。戦力外が少人数の決戦についていっては、守る者が無く足手まといになると、本人が誰よりも理解している為だ。
「どうか、誰一人欠ける事無いお戻りを、お祈りしております」
「お前の策がついてるんだ。お前自身が信じなくてどうするんだよ」
エステルの背後で話を聞いていたピュラが進み出てきて、少女の額を軽く弾いた。クラリスは「ぴゃっ」と小さな悲鳴をあげて額をおさえたが、すぐに立ち直ると。
「……貴方が戻ってきてくれないと、わたしは騎士になれないんですからね」
と、明らかに寒さからではない理由で紅潮した顔を伏せがちにして、聖剣士の服の袖をぎゅっとつかむ。ピュラは苦笑して、ぐしゃぐしゃと少女の頭を撫で回す。二人の手が相手から離れるのは、同時だった。
「あの二人って、ただの軍師と護衛じゃなかったわけ?」
「君は本当に鈍いんだな」
リタがぽかんと口を開け、ユウェインに苦笑され、「余計な事言う!」と彼の脇腹を肘でどつく。
「そういう完璧ではないところも好ましいと、褒めてるんだが」
格闘士の力を込めた肘鉄にうずくまりながらも、ユウェインは笑声を洩らした。
エルモーズの砦は、世界中の黒という黒を煮詰めたような外観をしていた。魔族の三百年の怨念を形にしたかのごとき尖塔がそびえ立ち、あちこちに、黒地の旗が揺らめいている。
正面口は固く守られていると思ったが、扉が開け放たれ、見張りの教団兵すらいない。
『敢えて脆弱な侵入口を作り、経路を絞って守りを固めている可能性があります』
とはクラリスの予測だが、あまりにもあからさますぎないだろうか。エステルでさえ不審に思っていると。
「露払いをしてまいります」
アウトノエの背後に控えていたカタラが、ぼそりと呟くように言葉を発し、一瞬にして闇の奥へ気配を消した。
「そう言って、裏切りの根回しに行ったとか、無いよな」
リカルドが眉間に皺を寄せて毒づいたが、「大丈夫」アウトノエは機嫌を損ねもせずに、けろりと言い放つ。
「『カタラ』の名前は、あいつにとっても呪い。主の意に沿わない事をしたら即、『次』に譲って自害しないといけないから」
父親を嫌っている割には、彼が寄越した刃を信用している。物心ついた時には両親がいなかったエステルにとっては、エルバドール父娘の関係は実に不可解だ。親子というのは、反発しつつも、心底では縁が切れないものなのだろうか。
思案していると、不意にカタラの気配が戻り、懐刀がアウトノエの前にひざまずいた。
「……何があったの」
あまりにも早い戻りに、流石に少女も理解が及ばなかったのだろう。眉をひそめると。
「中に入れば、おわかりいただけるかと。ともかく、突入を」
カタラは相変わらず平坦な声音のまま告げる。戦士達は互いに困惑顔を見合わせたが、ここで突っ立っていても、時は刻一刻と過ぎてゆくばかりだ。好機を逃して手遅れになるかもしれない。
いち早く動いたのはテュアンとピュラだった。聖剣『
「
アルフォンスがロンギヌスを握り直してこちらを向いたので、エステルもうなずき返し、一歩を踏み出す。ごく自然にクレテスが隣に並んでくれたので、ほっと吐息を洩らす。彼が共にいてくれるなら、何が起きても怖くはない。
だが、その安堵は、砦内に入った途端、四散する羽目になった。
濃い血のにおいが鼻を突く。両腕を広げた大人三人ほどの間隔で蝋燭が灯る暗い廊下で、壁にもたれかかっている黒装束がぼんやりと炎に映し出されている。その姿をよくよく見た途端、エステルは頬を強張らせ、ロッテが悲鳴を息ごと呑み込む音をやけにはっきりと耳にとらえた。
四肢をだらりとだらしなく床に投げ出しているその身体には、魔王教団兵の証である黒ローブをまとっている。しかし、顔をうかがう事ができない。首から上が鋭利な刃で一息に切り落とされたかのように空虚で、傷口から流れる血が、小さな池を作っている。それが一人ではなく、二人、三人、それ以上と、奥まで続いているのが確認できた。
カタラが一瞬で露払いをしたとは思えない。それが証拠に、隠密は頭巾の下の瞳に明らかな動揺を宿した気配をまとい、アウトノエではなく、エステルを突入部隊の大将と認めて向き直った。
「これが、続いています。恐らくは、魔王の間まで」
「どういう事だ?」
クレテスが眉をひそめて全員の思いを代弁すると、カタラは顎に拳を当ててしばし考え込む素振りを見せ、驚くべき事実を口にした。
「我が主……いえ、先代の最終目的は、『ヴァロール』の破壊力を持つレディウス皇子を依代に、魔王イーガン・マグハルトを再臨させ、人も竜も、魔すらも滅ぼす事にありました。ここまで貴女方を倒せなかった故に、同胞を魔王への贄としたのでしょう」
「追い詰められたら見境無しかよ。狂ってるとしか言い様がねえな」
ピュラが舌打ちして悪口を叩くが、言葉遣いは違えど、エステルもほぼ同じ考えである。どんなに歪んだ形であれ、同じ悲願を抱いている、と信じてついてきた魔族達を犠牲にするなど、最早ニードヘグの狂気は話の通じない域まで達しているのだろう。生きて償わせる道も想定していなかったといえば嘘になるが、最早それも叶わないに違い無い。
「とにかく、行きましょう」
ドラゴンロードを握り直し、廊下の奥の深い闇を見すえる。
「魔王が復活して手遅れになる前に、ニードヘグを止めます!」
号令に応じて、皆が走り出した。カタラの先導を頼りに、砦の奥へと駆ける。犠牲になった魔族の屍はそこかしこにあったが、丁重に弔っている暇は無い。
(せめて、
冥福を祈りながら横を通り過ぎ、迷路のように分岐している廊下を疾走する。走るのに必死になっている以外の理由で、心臓が逸る。早く。一刻も早く最奥に辿り着かねば。エステルの焦りに呼応するように、竜王剣が明滅する。
不意に、行く先から空気を震わせる大きな音が聞こえて、幾人かが怯んで速度を落とした。竜の咆哮にも似ているが、それにしては酷く濁っている。
嫌な予感に心を囚われながら走り抜け、遂に大きく開けた部屋へ出る。途端、目に入ってきたものに、エステルだけでなく戦士達の誰もが足を止め、呆然と見上げてしまった。
異形。そうとしか言い様が無い。人間の大人の十倍はあるだろう背丈を持つ、漆黒の化け物であった。一つ一つが剣呑な刃のような牙が並ぶ口と、瞳の無い紫の眼球が八つある顔で、こちらを睥睨し、鋭い爪を帯びた馬鹿でかい手足が伸びる身体には、
「……ここまで辿り着いた事を、素直に褒めてやろう」
化け物の足元から声が聞こえたので、そちらに視線を移す。魔族の男ニードヘグは、フードの下の口元を愉快そうにつり上げ、ほくそ笑む。自身の破滅がすぐそこに迫っているというのに、諦観をおくびにも出さない余裕はどこから来るのか。理解できないまま、エステルはドラゴンロードの切っ先を魔族に向けた。
「これまでです、ニードヘグ。長年大陸を乱した罪を、今ここで償ってもらいます」
宣告に返ってきたのは、「ハッ!」という嗤笑だった。ニードヘグがこちらを指差し、嘲るような声音を向ける。
「調子に乗るなよ、小娘。貴様一人では、帝国を倒すどころか、ヴォルツが叛逆したその日に縊り殺されていたのだ。たまたま周りに恵まれて、英雄と崇められた貴様に、持たざる者の思いはわかるまい!」
「逆恨みかよ!」テュアンが激昂して二振りの剣を構える。「そんなお前の身勝手のせいで、ミスティ達は犠牲になったのか!?」
「何とでも言うが良い」
女剣士の憤激も一笑に伏して、ニードヘグはエステルを睨み据える。
「ヌァザ……ヨシュア……ノヴァ……リグ……」
その視線が、アルフォンス、クレテス、そしてアウトノエに移る。
「どんなに運命に逆らっても、貴様らは生き延びて、儂の前に立ちはだかった。ならば!」
魔族は戦士達に背を向け、後ろに控えていた化け物を崇めるかのように両の
「賭けとゆこうではないか、四英雄! 貴様らが真の英雄となるか、それとも儂の造り上げた執念が勝つか!」
「うる……さい!」
紫の眼球がごぼりと泡立ち、黒い手が振り上げられる。
「魔王イーガン・マグハルトよ、数多の生贄の果てに、リグの子孫の血を捧げよう! 『ヴァロール』に宿りて、シャングリアを破壊し尽くすが」
宣言は最後まで繋がらなかった。振り下ろされた掌の下で何かが潰れる音がし、赤が広がる。戦士達が驚きにとらわれて硬直する前で、『ヴァロール』と呼ばれた異形は、手を握り込むと、天井を仰いで口元へ持ち上げ、肉塊と化した魔族を、ぼたりと口の中へ落とし、嚥下した。
ファティマがアルフォンスの袖をぎゅっとつかみ、目眩を起こしてよろめくロッテをリカルドが慌てて支える。アウトノエは父親のあっけなく凄惨な最期を見ても、表向きは何ら感情の変化を見せず、『ヴァロール』を直視していた。
「は……はは……っ」
異形が嗤いながら血濡れの床に一歩を踏み出した。
「『姉上』……有象無象共……」
泡立つような音が混じって低めで聞き取りにくいが、それはたしかにレディウスの声を放ちながら、戦士達を睥睨する。
「世界の王……たる……『ヴァロール』に……刃向かうとは……愚鈍の極致……! 壊れるまで……いたぶって……死より深い……苦しみを与えて……絶望を……絶望ヲォ……!?」
傲然と宣誓していた異形が、しかし不意に動きを止めた。
「流れ込んで……くる……お前はァ……誰ダ!?」
紫の眼球がぎょろぎょろと虚空を見渡す。両手で抱え込んだ頭に鋭い爪が突き刺さって、どろりと緑の血が流れ出す。
「消えていく……僕が……僕ガ……ヤメロ……ヤメ……助けてヒルデ!!」
常に傍にいた、今はもういない者の名を叫び、『ヴァロール』が宙に両腕を差し伸べた体勢で固まった。しかしそれも数秒の沈黙で、紫の眼球が、一斉に赤く光り、再び戦士達を見下ろして。
『我は、イーガン・マグハルト……闇の底より蘇りし、シャングリアの支配者なり!』
レディウスのものではない、太く低い声が、喉の奥から発せられた。
『我を封じし四英雄、全て滅ぶべし!』
魔法の心得が無いエステルもわかるほどに、濃い魔力が吹き荒れ、踏み出すどころか、その場に立つ事すら困難にする。『ヴァロール』の身体に降りし魔王が腕を振り上げ、床に叩きつけると、一瞬にして大きなひびが入って、崩れ落ちる。
「エステル!」
瓦礫と共に落下してゆく中、クレテスが必死にこちらに手を伸ばすのがわかって、エステルもつかみ返そうとする。自分より一回り大きな感触を確かめた直後、底無しの暗闇が戦士達を包み込み、意識を奪っていった。
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