第9章:白竜の王女(5)

「……戻ってこないな」

 テュアンが腕組みして、吹雪が止み見通しが良くなったエルモーズの砦を睨みつける。

 レインドル姉妹との戦いが終わって、三時間が過ぎた。クラリスの指示でクリフが砦に潜入してから、刻限である六時間をゆうに越している。セティエが非常に不安げな表情をして、何かを握り込んだ手を祈るように組むのは、エステルの視界にも入っていた。

 クリフが戻ってこない場合、遠征軍は最も危険な手を取るしか無い。つまり、詳しい前情報無しで砦内に突入し、ニードヘグとレディウスが待つだろう場所まで辿り着かなくてはならないのだ。

 数多の偵察をこなしてきた少年が、そう簡単に下手を打つとは思えない。だが、今回は相手が悪過ぎる。クラリスは、『策に関しては、わたしが責任を持ちます』と、緊張を満たした面持ちで言い切ったが、あくまで遠征軍の長はエステルだ。彼女の策を実行に移す事を許可した以上、責任の大半は自分が負うべきものである。

 吹雪は去ったといえど、寒気は針のように頬を刺す。白い溜息を吐き出した時。

「あ、あれ!」

 遠目の利くリタが砦の方角を指差して声をあげたので、皆が倣ってそちらに目をやる。こちらに向かって歩いてくる人影に、誰もがどよめき、セティエが目に見えてほっとした吐息を洩らすのがわかった。

 しかし、安堵の空気はすぐに緊迫に取って代わられた。クリフではない。黒装束には変わりないが、重たげな足取りで近づいてくるのは、彼より背の低い、男か女かわからない体格の、魔族。ニードヘグの懐刀カタラである事は、疑いようが無かった。

 クレテスがクラウ・ソラスを鞘から抜き放ち、アルフォンスがロンギヌスを構える。他の戦士達も、やや戸惑いつつ武器を握り直すが、敵の密偵頭は動じる事無く、エステルと十数歩の距離まで近づいてくると、背負っていた何かを、雪の上に下ろした。たちまち、その周囲の雪が、赤く染まってゆく。

 セティエがひゅっと喉を鳴らし、アウトノエが嫌そうに顔をしかめる。カタラの『手土産』が何か、確かめるのが怖い。それでも、自分が下した決断の落とし前をつけなくてはならない。相手が手を出してくる事は、敵意が皆無である状態から、無いものだと信用しよう。そう決意して、カタラに近づく。そして、足元を見下ろして、自分の最悪の予感が当たった事を確信し、目を見開いた。

「……クリフ」

 いつの間に隣にやって来ていたのか。セティエが呆然と少年の名を呼ぶ。応えは無い。防寒着がぼろぼろで、肌も見えているほどに傷だらけでは、永遠に答えが返る事は無いかもしれない。それをセティエも認識したのだろう。横顔を窺えば、唇が、握り締めた拳が、ふるふると震え、次第次第に瞳が怒りを宿し。

 ごう、と。

 彼女を中心に炎が吹き荒れた。

「お前が!」

 味方であるはずのエステルまで熱を感じる激しい炎を燃やしながら、セティエが激昂する。

「殺したの!?」

 魔道士は炎を纏ったまま、周囲の雪を凄まじい勢いで溶かし、蒸発させ、一歩一歩を踏み出す。驚愕と動揺と激怒によって我を失い、魔力が暴走しているのは明らかだ。

「お姉ちゃん!」

 ティムが焦りきった様子で制止に駆け寄ろうとするが、肉親すら拒む炎は勢いを増し、近づく事が叶わない。

「エステル様、お姉ちゃんを止めてください!」

 少年が懇願するようにすがりついてくる。

「あれだけの無制御でメギドフレイムを暴走させたら、お姉ちゃんが死んでしまうどころか、ここ一帯が消し飛びます!」

 たちまち戦士達に震撼が走る。魔王教団を壊滅させられたとしても、自分達まで巻き込まれては、グランディアへ勝利の報を持って走る者がいなくなってしまう。いや、それ以前に、大勢の犠牲を出さない為に、今ここで、錯乱しているセティエを斬らねばならないのかもしれない。

「星の光なら鎮める事が、できる……?」

 モリガンが己のタロットと睨み合っているが、決定打になるか自信は無いようだ。

 これ以上逡巡している暇は無い。総大将として全ての責を負うべきだ。エステルがドラゴンロードの柄に手をかけた時。

 ひゅっ、と。セティエが息を呑んで硬直し、それから、のろのろと足元を見下ろした。

「姐、さん」

 雪の上に赤を描きながら、クリフがセティエのもとまで這い、その足首を掴んでいる。ただでさえ、瀕死の傷を負っているのに。魔法に精通していない者が、魔力を無尽蔵に放出している者に触れて、熱を感じていないはずが無いだろうに。少年は傷だらけの顔に力無く笑みを浮かべて、それでも言葉を吐き出すのだ。

「言った、ろ。必ず、帰って、くるって」

 炎が弱まり、静かに収束してゆく。つうっと少女の頬を伝った水分が、雪の蒸発した地面に滴り落ちる。セティエは崩れ落ちるように膝をついて、少年の頭を抱え込むと、うずくまりながら嗚咽した。

 エステルが目配せすると、ロッテとファティマが魔法媒介の杖を持って駆け出てくる。二人分の魔力を用いた回復魔法は、たちどころにクリフの傷を癒していった。

「あー。姐さんの太腿、柔らかーい」

 命拾いして余裕が出たにしては、調子に乗るのが早すぎる。クリフの冗談に、「……馬鹿」とセティエが涙声で叱りつける。だが、唇の端に笑みが浮かんでいるところから、彼女も冷静さを取り戻したと認識して良さそうだ。エステルが竜王剣から手を離すと、背後の戦士達も順次武器を収めた。

「で?」アウトノエが腕組みしながら進み出て、父親の懐刀を半眼で睨みつける。「死にそうな人間がいたから助けました、なんて殊勝な性質(たち)じゃあないよね、あんた」

「たしかに、我一人の判断では、この少年を見殺しにしておりました」

 カタラは相変わらず淡々と答え、アウトノエのもとに歩み寄る。オディナがかばい出ようとするのを、少女自身が引き下がらせて、暗殺者が先を告げるのを待つ。

「我が主君より、最後の命令を頂戴しました」

 カタラは相変わらず何ら感情を乗せない声色で、ニードヘグから受けた命令を口にした。

「『カタラの名を持つ者は、この先も未来永劫、正しきリグの継承者に仕えよ』と」

 アウトノエが吃驚きっきょうに目を見開いた。その意味はエステルにもわかる。ニードヘグは、決戦を前に、敵に塩を贈るならぬ、刃向かった娘に切り札を譲ったのだ。だが何故なのかまでは、エルバドール父娘の詳しい関係を知らない自分達には、知る由も無い。

「なに、それ」

 アウトノエが、珍しく混迷に歪む笑みを見せる。本人さえも、父親の意図が『視え』なかったのか。誰もが当惑するのも想定しているだろうに、敢えて説明しようとしないカタラは、正統なるリグの継承者の前にひざまずき、深々とこうべを垂れる。

「アウトノエ様。今この時より、我が刃は貴女様の意のままに」

「……『呪いカタラ』の贈り物とか、ほんっと、最悪な男」

 魔族の少女は深々と溜息をつき、腕組みを解くと、カタラを指差す。

「その言葉、絶対に違える事が無いように。あんたはあたしの手足として、死ぬまであたしの為に命を懸けなさい」

「御意」

 新たな主の最初の命令を、密偵頭は受領したようだ。その様子を見届けたエステルは、駆け寄ってきたクラリスと共に、セティエの膝に頭を乗せたままの、遠征軍の密偵頭に近寄った。

「お姫様。いえ、大将」

 傷が癒えても、消耗した体力まではまだ戻っていないのか。首だけこちらに傾けながら、クリフは眉間に皺を寄せて報告した。

「レディウスは化け物になってますよ。それでも、戦える?」

 唇を噛み、拳を握り締める。かつては一撃で相手を殺せる攻撃を放っていたのに、この少年にこれだけの傷を負わせる嬲り方をするとは、レディウスはもう『ヴァロール』として別の何かに変容しているに違い無い。クラリスの頭脳を介さずとも、エステルにも理解できる。

 それでも。フィルレイアで邂逅した母の笑みが、脳裏をぎる。この大陸に平穏を取り戻す為、母の願いを継ぐ為、半分は血の繋がった弟に引導を渡すと決めたのだ。

 一瞬固く目をつむり、その目を開くと、「行きましょう」とエステルはここまで道を共にしてくれた仲間達を振り返る。

「ここから先、誰が傷つき、誰が倒れても、足を止めてはなりません。レディウスとニードヘグのもとに辿り着き、討ち取るまで、私達は進み続けるのです」

 一同を見渡しながら言い切れば、誰もが、力強くうなずいた。

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