第8章:黄金の都にて問う(8)

 青白い光が、くるくる回りながら弧を描いて、固いと思われた床に突き刺さる。

 エステルは、額から、背中から、だらだら汗が流れ落ちるのを感じながら、荒い息を吐いた。突き出した剣の切っ先は、ドラゴンロードを弾き飛ばされて徒手になったミスティの、首の皮一枚で寸止めされている。幾度叔父に習っても成功しなかった技術を、ここ一番で見事こなせた事に、今度は安堵の吐息が洩れた。

「私は、諦めません」

 同じ色の瞳を見すえながら、エステルははっきりと言い切る。

「魔王教団を倒して、レディウスを止める事も。その先に、グランディア女王となって、お母様の理想を継ぐ事も。大陸のあらゆる生命と和解する事も」

 今までの願いと覚悟を口にし、一呼吸置いて、力強く宣誓する。

「愛する人を守り抜く事も」

 金髪の少年が、困ったように微苦笑する姿が脳裏に浮かぶ。彼がラヴィアナ王子だとわかった時、戸惑いは大きかったが、大きな希望に胸を躍らせもしたのだ。四英雄の血を引く王族同士ならば、身分に関して周囲にとやかく言わせないで済むと。相手の本音を聞いていない今、すぐには自分の描く夢は叶わないかもしれないが。

 ミスティは翠の瞳を丸くして、娘の宣言を聞いていた。が、エステルが刃を引くと、

「……充分です」

 戦いの最中の気迫が嘘のように穏やかに笑み崩れ、『優女王』の品格を取り戻していた。背の白い翼も、粒子となって四散する。

 そして彼女は、ドラゴンロードのもとに歩み寄ると、床から引き抜き、どこからとも無く出現した鞘に納めて、娘の眼前に差し出した。

「でもね、覚えておいて。貴女は私と全く同じになろうとしなくて良いの。双子なのに、貴女とアルフォンスが歩んできた人生さえ違うでしょう?」

 急に近しい話しかけ方をされて、エステルが戸惑う間にも、ミスティは続ける。

「私は戦う事を他人任せにした結果、敗れた。貴女は血に汚れる事を選んだ結果、ここまで勝ち続けた。私の理想を継いでくれる、というのは嬉しいけれど、貴女は私と全く同じ道を選ばなくて、良いのよ。それでは、貴女もいつかは負けてしまうから」

「は……い」

 半ば呆然としながら伸ばした手に、竜王剣が渡る。のしかかると思った重みは無くて、本当にこれが四英雄の武器足るのかと不思議に思うくらいだ。柄には翼を広げる竜の意匠が施され、鞘にもエステルには読めない文字――恐らく、フォモールの言語なのだろう――が刻まれている。

 これで、四英雄の武器が揃った。レディウスに勝てる。否、彼を、救える。

 希望と共に剣を胸元に引き寄せれば、ふわりと温もりが触れ、エステルは母の腕の中に抱き締められていた。

「お、お母様! お母様が汚れます!」自分が血を流した事を思い出し、振り解こうとしたが、母の力が強いのか、それとも離れがたい気持ちがエステルの中にあるのか、抱擁は続く。

「最初で最後なんですもの。貴女がどれだけ大きくなったか、確かめさせて」

 ミスティが悪戯っぽくくすりと笑って、血に濡れてない方の肩に頬を預ける。

「あんなに小さかった赤ちゃんが、こんなに立派になったのね」

 感慨深い、とばかりの吐息が耳にかかるのが、くすぐったくて、エステルは滲んでくる目蓋を閉じた。

「できるなら、アルフォンスも抱き締めてあげたかったけれど」

 腕が解かれる。温もりが離れてゆく。目を開ければ、母は白い光の向こうへと歩き出していた。その先で待つ、金髪の青年がいる。双子の弟に似た面差しを見れば、それが誰であるか、容易に想像はついた。

「お父様……」

 父ランドールは何も言わなかった。ただ、穏やかな微笑をエステルに投げかけて、近づいてきたミスティの手を恭しく取る。

「強くありなさい、エステル」

 母が再度振り向いて、女王の顔をした。

「これからも、数多の苦難が貴女に降り注ぐでしょう。それでも、今までの道程と同じ。貴女は独りではない。多くの仲間が貴女を支えてくれます。それだけは、忘れずにいて」

 声に出して返事をしたかったのに、喉がつかえているようで、言葉は出なかった。代わりに、大きく首を縦に振れば、両親はそれで良し、とばかりにうなずき返して、揃って光の向こうへと消えた。

 もっと沢山話したかった。トルヴェールでの他愛の無い日々を語りたかった。父と母の幼い頃のささやかな思い出を聞きたかった。弟にも会わせたかった。

 様々な想いが交錯して、また目の奥が熱くなり、うつむき小さくはなをすすり上げた時。

 背後に誰かが近づいてくる気配がして、エステルははっと顔を上げた。

 心臓が逸る。この気配をよく知っている。意図的にいつも歩き方を変えている、といつかクレテスが指摘した歩調。生者と死者が邂逅するこの場所なら、あり得る事だ。

 果たして振り向いた時、想い描いた人はそこにいた。もう二度と言葉を交わせないと思っていた、永遠に失ってしまったと思っていた人。

「アルフレッド、叔父様」

 両親の時には我慢していた涙腺が決壊して、エステルは嗚咽しながらその名を呼んだ。

「ごめんなさい……!」

 自分の慢心が彼を殺した。それを詫びる事さえできないと思っていたが、こうして再会できた今、どんな言葉よりも先に出てきたのは、謝罪だった。

「エステル様」

 ぽん、と。大きな手が頭に乗せられて、くしゃくしゃと髪を撫で回す。棺に納める時には冷え切っていた右手が、とても温かい。幼い頃、エステルが何かひとつ新しい事を覚えた前進の時や、できなかった事をできた喜びの時、剣の練習が上手くいかなくて悔しさで泣いた時に、いつもこうしてくれた。思い出は蓋をしていた鍋から溢れるようにどんどん蘇って、更なる熱涙を呼ぶ。

「貴女が謝る必要はありません。があの時取った行動に、後悔など微塵もありません」

 いつも自分の前ではかしこまっていて、気を許した友人の前でしか使わなかった一人称で、アルフレッドは微笑した。

「大事な兄夫婦の忘れ形見である貴女を守り切れた事。そしてその結果、祖国解放まで成し遂げた貴女は、間違い無く、僕の誇りです」

 帝国を打ち倒し、王国を取り戻す。その光景を、誰よりも生きて目にしたかっただろう。だのにこの人は、口惜しさを押し込めて、エステルの存在を誇りだと言ってくれた。解放軍が興ってからは、厳しい意見をされた事もあったが、彼は決して、エステル越しに母を見ていただけではないのだ。きちんと、姪の自分を見守ってくれた。気づかずに反発した日を、恥ずかしく思う。

「叔父様。私も、貴方を誇りに思います」

 思い出に残すのは泣き顔ではいけない。エステルはぐいと涙を拭うと、精一杯の笑みを閃かせる。

「貴方は私にとって、父であり、兄であり、最も愛しい人でした」

 いつか、彼に幼き恋心を告白した時は否定された。だが、真に愛する相手を見つけた今、過去形で想いを語る事に忌避感は無い。

「……ありがとうございます」

 アルフレッドもそれを承知しているのだろう。頼り甲斐ある両手がそっと頬を包み込み、目を瞑れば額に微かに柔らかい感触が訪れ、名残惜しそうに遠ざかる。

 これは儀式だ。エステルがアルフレッドへの未練を振り切り、アルフレッドがエステルに別れを告げる為の。もう、これだけで充分だ。

「エステル様。僕は、ミスティ様達と共に、天上ヴァルハラから貴女をいつまでも見守っております。どうか、息災で」

 手も離れようとした時、「……あ」と、アルフレッドにしては珍しく、今思い出した、という少々間の抜けた表情をして、「エステル様」と囁きかける。

「僕と、貴女のご両親の総意として、テュアンに、伝えておいていただけますか。『見ていて危なっかしい。まだこちらには来るな』と」

 エステルはきょとんと目をみはる。だが、理解すると、折角の親友への伝言を叱咤激励だけに使うのか、と少しばかりおかしくなって、ぷっと噴き出した。

「わかりました」

 エステルが軽くうなずくと、「ありがとうございます」と、今度こそ手が離れ、アルフレッドが、一歩下がる。

 ここを出れば、エステルは激戦の只中へ戻り、叔父は母達と共に、天上へ戻る。いつかエステルが人生を終えるまで、永遠に二人の道は交わらない。否、魂は輪廻し、生まれ変わるというから、天上へ昇っても行き違って会えないかもしれない。

 永別の瞬間に、これ以上の言葉は無かった。エステルは踵を返し、歩き出す。アルフレッドが見送ってくれている視線を感じるが、二度と振り返らないと誓う。ここで足を止めてもう一度彼を見たら、決意が折れて、駆け寄りすがりついてしまうかもしれない。それは、誰の望むところでもない。

「さようなら」

 エステルがそう呟くのを、発動の呪文にしていたかのように、白い世界が消え、辺りは再び一面の星の海になる。

 過ぎ去ってゆく記憶を辿りながら、エステルは今救うべき人々の元へと漂い続けた。

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