第8章:黄金の都にて問う(6)

「愚かな判断を」

 エステルが竜の神殿に消えたのを見届けたカタラが、口元をわずかに歪めた。

「王女を一人行かせたところで、人間ごときがこの場を耐えきれるはずが無い。戻ってきた時に、貴様達の屍を見て、絶望の内に死ぬというのに」

「癪に障るな、お前」

 リタが拳を打ち合わせて、密偵頭を睨みつける。

「リグに仕えるだか何だか知らないけど、アウトノエはもうあたし達の仲間だ。仲間に手出しするってなら、こっちも容赦はしないよ」

 途端にアウトノエが目をまん丸くしてリタを見やり、微かに頬を朱に染め、「君にしては良い事を言った」とユウェインが満足げに微笑んで、「うっさい!」と恋人の照れ隠しの平手を後頭部に食らう。

「それにおたく、随分自信ありげだけど、いつまで孤独にキャンキャン吼えてる訳? オレと同業者っぽいから、真っ向からの戦いは向かないだろ?」

 クリフが暗器の切っ先を向けて挑発しても、しかし、魔族の表情が揺らぐ事は無い。

「無論、ひとりで貴様等の相手をしようなどとは思っていない。隠密は、万全を期す者」

 その言葉を合図にしたかのように、木々を薙ぎ倒す音と、鼻が曲がりそうな腐臭が近づいてくる。

 巨躯を持つ『それ』が姿を現した時、戦士達は息をするのも忘れて立ち尽くしてしまった。

 姿には見覚えがある。ギャラルン河岸で戦い、アガートラム決戦でクレテスが倒したはずの火竜、ブリュンヒルデだ。しかしその見た目は、かつての神々しさすら覚える畏怖を与えるものではなくなっていた。美しい赤い鱗は腐り落ちて、粘度を持って滴る液体は酸のように地面を溶かし、アルフォンスが貫いた左目はぽっかりと虚(うつろ)になり、残った右目もどろりと白濁して、この世を映しているのかわからない。それがしゅうしゅうと全身から熱を放ちながら、ゆっくりと歩み出てきた。

「死霊術!?」

 セティエが悲痛な表情を浮かべて拳を振る。

「傀儡術といい、ラヴィアナでの事といい、ニードヘグは本当に節操が無いわ!」

 言ってから、そのニードヘグが父だと言われた少女がそこにいる事を思い出し、「ご、ごめん……」と消え入りそうな語尾で詫びたが。

「いいよ、別に。気にしなくて」アウトノエはセティエの方を向かないまま半眼になって、カデュケウスを持っていない方の手をひらひら振った。「あのひとが節操無いのは、今に始まった事じゃあないから」

「お喋りはそれまでにした方が良いのでは?」

 カタラの、平坦だが明らかにこちらを小馬鹿にした声で、戦士達ははっと敵に向き直る。

「行け、ブリュンヒルデ。レディウス皇子を愛するならば、その想い、死んでも貫いてみせよ」

 暗殺者の言葉に、屍竜ドラゴンゾンビとなったブリュンヒルデは一瞬、躊躇うかのように呻いてみせる。が、次の瞬間には、喉の奥に泥が詰まっているかのごとき濁った咆哮をあげて頭を振りかぶり、灼熱の炎を吐き出してくるのであった。


 果ての星を目指して、エステルは闇の中を泳ぐ。次第次第に周囲に小さな光が灯り、星の海のようになった。空気澄む晴れた夜空を漂っているかのごとき感覚は慣れないが、不思議と恐怖は感じない。

『約束したんだ、負けるかよ!』

 幾重にも反響する、聞き覚えのある声に、顔を向ければ、光点だと思っていたものが、星くずとなって脇をかすめてゆく。その中に、クラウ・ソラスを構え、ぼろぼろの竜と対峙するクレテスの姿が見えた。反射的につかもうと手を伸ばすが、星はあっという間に遠ざかり、見えなくなった。

『殿下の帰りをお待ちするのが、我らの役目』

『それまでは、我々がグランディアを守り抜きましょう』

 別の星が流れてきて、シャンクスとゼイルが真剣な面持ちで語り合う場面が映る。

『残念ながら、聖王教会にも、記憶の欠損を補う術は存在しないのです。せめてトルヴェールで穏やかに暮らされると良いでしょう』

 セルバンテスの言葉を受けて、両手で顔を覆いくずおれるのを気丈に堪えるラケと、そんな彼女を子供のようにきょとんと眺めるケヒトの姿が見える。

 ここにいないはずの人達の姿から、時は遡り始め、次々と星くずが飛んでくる。

『騎士団長を抹殺し、女王に唯々諾々と従う連中を排除して、そなたがこの国の主となれ』

 いつか見た心優しそうな青年を、邪悪な笑みで追い詰めるニードヘグ。

『この槍と、この身は、貴女の理想の為に。そしてこの心は永遠に、貴女を想い続けましょう』

 細い手を取る、身近な誰かに似た面差しを持つ騎士。

『君を妻にできぬならば、私は、自分の代でグランディアが終わってもかまわない』

 さっきどこかで聞いた台詞を放つ男性と、彼にひざまずかれて頬を染める銀髪の女性。

『聖王なんて肩書きは、おれには分不相応だ。国が落ち着いたらさっさと引退して、君と一緒にウルザンブルンへ隠居したいね』

 豪奢な衣装に身を包んで、傍らの女性に苦笑を向ける、垢抜けない青年。

『ヨシュア、君に出会えて良かった』

義兄にいさん、私も共に戦います。魔王を倒す為に』

『生きろよ、ヨシュア! 俺の屍を越えて!』

『貴方が、盟主として皆を導くのよ。彼の分まで』

 いつの時代か想像に任せるしか無い言葉の群れ。

『魔王様を崇めよ! シャングリア唯一の主は、魔王イーガン・マグハルト様のみ! 従わぬ者は地獄の業火に焼かれるだろう!』

 憔悴しきった人々に滔々と説く、黒いローブに身を包んだ魔族達。

『「ヴァロール」の力は危険すぎる。我々フォモールの終焉だ。僕は最後の力で、これ以上ヴァロールが生まれないように、フォモールを三つの種族に分割する。それが、この大陸の生命が生き残る唯一の道だ』

 紅い瞳が印象的な銀髪の青年が、見知った者と向かい合っている。

『さようなら、―――。君は生きて、シャングリアの行く末を見届けてくれ』

 まだ両目が青い、よく知る顔が、何かを言おうとしている。続きを拾い上げたかったが、星はその前に後方へと過ぎ去っていった。

 ここは、この大陸の歴史を記憶する場所だ。エステルは唐突に閃いた。海のような無限の空間に、千年以上の記憶を書き留めて、満たしてゆくのだ。

 自分の歩んだ道も、いつかは同じように星くずとして流れてゆくのだろう。前に向き直ると、北果ての星はエステルを受け入れるかのようにまばゆさを増し、温かく包み込んできた。

 闇に慣れた目が、光で一瞬何も見えなくなる。両腕で顔を覆ってきつく目蓋を閉じれば、若干光が落ち着いた気がして、覆いを外す。

 広がる視界は、一面の白だった。床と思しき場所にゆっくり降りると、存外しっかりとした感触が靴底に返り、両足で踏み締め立つ事ができた。

「――エステル」

 唐突に名を呼ばれて、エステルははっと周囲を見渡した。いつかどこかで聞いた記憶がおぼろげにある声だ。

 それまで誰もいなかった背後十歩ほどの距離に立つ人物がいて、一瞬身構え、しかしすぐに戦闘体勢を解く。

 自分と同じ水色がかった銀髪に、翠の瞳。顔も似ている。それが誰なのか、この場所ならばありえる気がして、その名が口から零れ落ちる。

「お……母様」

「よく、ここまで辿り着きましたね」

 正解だとばかりに、エステルの母親、ミスティ・アステア・フォン・グランディアは、目を細めて柔らかい笑みを浮かべた。

「ここは竜族が遺した、天上ヴァルハラに果てしなく近い記憶の海。生者と死者が邂逅できる、シャングリアでは唯一の場所」

 ミスティは両手を広げ、エステルよりやや低いが、聞く者を安心させる柔らかい声色で語る。

「竜王ヌァザはこの海にドラゴンロードを封じる事で、いつかヴァロールを復活させる者が現れた時に、対抗する力を奪われないようにしました」

「では」

 母は竜王剣を自分に託す為に待っていてくれたのか。前のめりになるエステルに、ミスティは掌を向ける事で、待て、の意を示した。

「エステル。貴女が歩んできた戦いを、私は知っています。天上からずっと見守っていました。どんなに苦しい道程だったかを、理解しているつもりです。ですが」

『優女王』は、前に突き出していた手を掲げる。そこに青い光が集い、一振りの剣の形を取った。

 透明な刃を持つ、竜の意匠が施された長剣。竜王剣ドラゴンロードを手にしたミスティは、すっと瞳から慈しみの感情を消し、代わりに鋭い光を宿して、半眼で我が子をめつける。

「貴女の最後の覚悟を問う為に、私は自分が持たずにきた力を手にしましょう。私にすら敵わぬ程度ならば、貴女にレディウスを止める力は無しと判断し、私の願いを託すのをやめます」

 見えない剣の切っ先が青白く輝くと、ぐるりと宙に円の軌跡を描き、そしてまっすぐにこちらを指し示す。

「戦力を手放したとはいえ、『悪女』とも『魔女』とも罵られた私です。剣の基本は習っています。娘だからと手加減はしません」

 向けられる闘志は本物だ。エステルは唾を飲み下し、腰の剣を抜き放つ。

「勝てないならば、記憶の海に漂う一欠片と化しなさい!」

 ドラゴンロードが青白い光を放つ。それと同時、ミスティの背中に、純白の竜の翼が現れ、大きく羽ばたいたかと思うと、『優女王』ならぬ『竜女王』は、恐るべき速さで飛びかかってきた。

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