第7章:蒼の継承者(3)

「エステル王女殿下。聖王教会大司教、セルバンテス・マタイ・グーテンベルグにございます。私の至らなさで御身と皆様を危機に陥れた事、心よりお詫び申し上げます」

 睡眠の術をかけられて、聖堂の奥に幽閉されていた人々を、クリフの開錠術で救い出した後。よわい六十に近いだろう大司教は、白い髭の生えた口を悔恨に引き結び、深々と頭を下げた。

「聖王神ヨシュアを奉じるこの聖王教会で、魔族の侵入を許し、屈するなど、誠、恥辱の極み」

「そんな。どうか顔を上げてください」

 あまりにも相手が恐縮するので、エステルは両手を振り、言葉を継いだ。

「死者が出なかったのが何よりの幸いです。人命を最優先にした大司教殿の選択は、決して間違いではありません。ご自分を責めないでください」

 その言葉に、セルバンテスははっとおもてを上げ、それからくしゃりと微笑む。

「やはり、そのお優しさは、お母上に似ていらっしゃる」

「母をご存知なのですか?」

「勿論ですとも」

 エステルの問いに、大司教は大きくうなずいて、思いを馳せるように目を細めた。

「『ヨシュアを神格化して人間が栄えるだけが、大陸の平和ではない』と。聖王信仰の文化が無い者とも、魔族とも、竜族とも融和をはかってこそ、シャングリアの真の平穏が訪れるのだと。初めてお会いしたその日に、きつくおっしゃられまして」

『優女王』である母ミスティの、ある種苛烈な主張を耳にして、思わず目をみはってしまう。ところが、「ですが」とセルバンテスは静かに首を横に振って、彼女の言葉に立腹しているのではないという意図を示した。

「『貴方はそういう板挟みの立場に在っても、毅然と立っている。その在りようを見習わねばなりません』と、ありがたいお言葉も頂戴しました」

 まるで昨日の事のように、鮮明に母の言葉を語る大司教の話に、エステルの胸は熱くなる。母は様々な矛盾を抱えて生きた。口先だけの『悪女』とも、大陸を混沌に巻き込んだ『魔女』とも、理想を果たせなかった『負け犬』とも、人々に蔑まされたという。しかし、どれだけ心折れる状況にあっても、彼女は己の想いを貫いて生きたのだ。

 この大司教から、もっと母の事を聞きたい気持ちは、心に宿っている。しかし今は、更に重要な話が存在している事を思い出して、エステルは話題を振り替えた。

「それよりも、セルバンテス殿。貴方がピュラを遣わせてまで伝えようとされていたお話を、してくださいますか」

 言いながら背後の仲間達を振り向く。視線が交わった蒼の瞳が、動揺に揺れる。クレテスは、数瞬迷うように目線を外したが、やがて意を決したか、しっかりと顔を上げゆっくりと進み出て、エステルの隣に並んだ。

「おお……あのお方の面影が」

 たちまち感極まったのか、セルバンテスの瞳がうっすらと潤む。

「殿下、よくぞご無事でお戻りくださいました」

 再び低頭する大司教を前に、クレテスが居心地の悪そうな表情をして、「あの、それ」と額に手を当てる。

「おれはエステルと違って、敬われる事に慣れてないんです。第一、ラヴィアナの王族だとか言われても、全然実感湧かないし」

 そう言いながらも、既に彼の胸中では、長年抱いていた疑念は確信に変わっているのだろう。決して表立って口にしていた訳ではないが、シュタイナーの家族に似ていない事は、彼にとってはある種の負い目であったのだから。

「何で、おれがラヴィアナの王族なんですか。どうして、ピュラを遣わせてまでおれを待っていたんですか。貴方は、何をどこまで知ってるんですか」

「順を追って、お話しいたしましょう」

 焦燥から次第に早口になるクレテスに、セルバンテスはゆるやかな笑みを向けて、背後の聖十字をちらと振り返る。

「私は今でこそ聖王教会の大司教ですが、二十年ほど前までは、ラヴィアナ王国の司祭長を務めておりました。そこで殿下、貴方様と、姉君のレーナ王女殿下のご誕生を見届けてもおります」

 クレテスが蒼の瞳を驚きにみはるのを、エステルは隣でたしかに見届けた。自分もアルフォンスという片翼かたよくがいると知った時には、相当な驚嘆をもって受け止めたものだ。存在を知らずに育った姉がいた、という事実は、クレテスにも同じだけの衝撃を与えただろう。

「殿下のお父上、ヴェルハルト・ガノッサ・フォン・ラヴィアナ陛下は、善き為政者としてラヴィアナを治めておられました。しかし、旅の占者に扮した魔族ニードヘグが密かに近づいた事で、陛下はお気を乱されていったのです」

「ここでも、ニードヘグかよ」

 クレテスが呻くように呟き歯噛みする傍らで、エステルは痛む胸に手を添える。レディウスに傍付いている魔族が、十数年前から暗躍して今の事態を招いた事はわかっていた。だが彼の魔の手は、エステルが最も大切に思う相手と、その家族の人生にまで伸びていたのだ。

「陛下は、ご自身が狂気に駆られてゆくのを自覚しており、お子達を国外に逃がすよう、私に命令を下されました。レーナ様は乳母に託し、北方諸国へ。そして貴方様は、ミスティ女王の護衛として聖王教会に訪れていたシュタイナー夫妻に、白銀聖王剣クラウ・ソラスと共にお預けしました」

『この方が然るべき居場所を取り戻すその日まで、私達の愛する息子として、命の限り守り抜きます』

 それが、グランディア騎士ディアス・シュタイナーとエレノア・シュタイナーの誓いだったという。

「親父とお袋は、そんな風に……」

 それまで動揺に満ちていたクレテスの表情が、わずかに穏やかさを取り戻した。口の端には、喜びの感情を表す笑みすら乗っている。

「クラウ・ソラスは、十七年前の政変の際に、グランディアを脱出するシュタイナー夫妻が持ち出す事がかないませんでしたが、シャンクス殿らが確保して、無事に殿下のお手に渡す事ができました」

 それを聞いて、エステルの中でも得心がいった。ユウェインは、クラウ・ソラスを『クレテスなら使いこなせる』と言われて託された。恐らく、シャンクスをはじめとして、シュタイナー夫妻の他にもクレテスの素性を知っている者がいたのだろう。クレテスならクラウ・ソラスを使いこなせる、と言った叔父も、その中の一人だったに違いない。

「……おれは」

 ぽつり、呟き落とすように、クレテスが口を開く。

「色んな人達に守られて、生かされていたんですね」

 その言葉は、エステルの心にも、鐘を叩くように響いた。自分も、大勢の人に守られて生き延びてきた。多くの期待を一身に受け、時に呪われつつも、喪いつつも、グランディア王国を取り戻すに至って、今も尚この旅路を、仲間達と共に歩んでいる。それは、数多の奇跡の上に成り立つものだと、痛感せずにはいられない。

「殿下、どうか、ラヴィアナにおいでください」

 大司教が恭しく低頭した後、真摯にクレテスを見つめて、告げた。

の国は、乱心された陛下の命令で、兵が民の生命を狩り、三日三晩燃え続けて、人の住めぬ地となりました。ですが、陛下が最期まで手にされていたはずのノヴァの紋章。それこそが、竜の国フィアクラに眠る竜王剣ドラゴンロードの封印を解く鍵となっているのです」

「ドラゴンロードは、無事なのですか?」

 この対話に自分が口を挟むべきではないと思っていたが、エステルはつい身を乗り出していた。セルバンテスが、しっかりとうなずいた事で、フィアクラに行かねば、という思いは強くなる。

 こちらの気が逸るのをいち早く察したクレテスが、渋面を満たしたものの、退く気は無かった。失われたと思われていた四英雄の武器。それが三つまでこちら側の手に入れば、レディウスを倒す戦力は一気に跳ね上がる。何より、竜王剣を手にする事で、アラディアの夜のように、何もできなかった自分では終わらずに済む。

 その内心をよくわかっているのだろう。幼馴染は深々と溜息をつき、頭を振ると、「行きます」とセルバンテスに告げた。

「おれが生きている事が、大陸を救う事に繋がるなら。おれは、自分の命を懸けます」

 命など懸けないで欲しい。その言葉は、エステルの口から放つ事はできなかった。自分一人の我儘でクレテスを止めては、ドラゴンロードの封印は解かれず、レディウスもニードヘグも倒す事はかなわない。何より、残りの四英雄の武器を持つ、クレテスとアルフォンスの生命をより危険にさらす事に繋がる。

 ならば、今は共に歩むべきだろう。

 決意してしまえば、身体は自然に動いた。自分の左手を、クレテスの右手に握り込ませる。平静を装っていた彼の手が、ひどく冷えて小刻みに震えていた事を感じ取って、力を込める。自分が、隣にいると。今度は自分が支える番だと。

 少女の決意が伝わったのか、震えが止まった。力強く握り返され、思わず仰ぎ見れば、蒼の瞳がこちらを見下ろし、唇が微かに動いた。音にならなかった言の葉を受け止めて、微笑みを返しつつ手を離し、エステルは背後に居並ぶ仲間達を振り返った。

「私達は、ラヴィアナへ向かい、その後フィアクラを目指します。これまでに無い困難な道程です。決して無理強いはしません。覚悟のある人だけ、共に来てください」

 それを聞いた戦士達は、しかし、誰一人として反論はしなかった。

「今更それ言うか?」リタががりがりと頭をかいて溜息を零せば。

「一緒にグランディアを発った時点で、どんな戦いになろうとも構わないと、腹は括っているさ」アルフォンスが掌に拳を打ち合わせ。

「仇討ちは、まだ、終わってないしな」テュアンは腕組みして不敵に笑い。

「どうあろうと、クレテスは俺のたった一人の弟です。最後まで見届けます」ケヒトが真剣な顔で言い切り。

「わたしの策がお役に立つなら、エステル様と、クレテス兄様と共にいさせてください!」クラリスが両手を握り締めて意気込む。

「殿下」

 その中からピュラが進み出て、クレテスの前にひざまずき、こうべを垂れた。

「自分も一員にお加えください。元ラヴィアナの民として、故郷の行く末を見届けたいのです」

「ああ、あんた、ラヴィアナ出身だったのか」

 クレテスの反応で、エステルも理解を得た。ラヴィアナ出身者ならば、セルバンテスの命で動き、グランディアに入り込んでいた理由もわかる。クラリスが驚きもしていないところから、彼女はこの聖剣士の素性を知った上で、戦力としてあてにしていたのだろう。

「良いけど、そんな風にかしこまらないでくれ。言ったろ、敬われるのは慣れてないし、第一、あんたの領分じゃないんだろ」

 途端、真面目くさっていたピュラの唇の端がにやりと持ち上がり、「だよなあ!」彼は笑声をあげながら腰に手を当てて立ち上がった。

「お前がそう言うなら、素のままにさせてもらうぜ? いやー、養父じいさんが、聖剣士でラヴィアナの人間ならちゃんとしろ、ってうるさくてよ」

「これ、ピュラ! 度をわきまえぬか!」

 たちまち血相を変えるセルバンテスを見て、ピュラは「ほらな」とにやにやしながら大司教を指差す。

「ふふ。でも、その方がピュラさんらしいですよね」

 クラリスが口元に手を当てて笑うと、ピュラはそちらを振り返り、

「惚れ直したろ?」

「冗談は顔だけにしてください」

 軽口をばっさりと切り捨てられて、がっくり肩を落とした。

 それを見て、戦士達の間からも笑いが起きる。場の緊張はほぐれたようだ。

「行きましょう、ラヴィアナへ」

 エステルは力強く言い切る。誰もが王女を見つめ返して、しっかりとうなずくのであった。

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