第7章:蒼の継承者(2)

 エステル王女率いる解放軍は、長き帝国支配から大陸を解き放ち、歓呼をもって民衆に迎えられた。それは一夜にして吟遊詩人の謳う英雄歌サーガとして編まれ、各地へ広まってゆく。

 だが、詩人達はやがて、その歌に続きを紡ぐ事になるのだ。

 戦勝の翌朝、興奮冷めやらぬアガートラムから、王女はじめ、数十人規模の戦士達が姿を消した。その事実は、暫定的に王国騎士団長の座についたシャンクス・キルギスタが、城内で徹底的に箝口令を敷き、この後に続く全ての戦いが終わるまで、民に知られる事は無かった。


 聖王教会は、三百年前、魔王イーガン・マグハルトの魔族支配から人と竜を救った英雄達の筆頭にして、グランディア王家の始祖、ヨシュア・イルス・フォン・グランディアを神格化し奉じる、シャングリア各地に広まっている聖王信仰の総本山である。

 カレドニアのアイシア山脈より北、グランディアと隣り合う形で領土を有し、訪れる者には門戸を広く開いて、教義を授ける。他にも、特に魔術研究に力を注ぎ、この三百年で編み出された魔法は、数多の生命を救いも奪いもした。

 司教の一人であった、セティエとティム姉弟の祖父、ニコラウス・リーヴスの多大な貢献も、教会の魔道士の間では語り種になっている。そのままでいれば、最高位である大司教の座も見えていたのに、出世を放り出して故郷ヨーツンヘイムへ帰った彼を、『変わり者』と評価する人間は多い。そう笑う者達も、各々の研究に没頭する時点で、一般人から見れば相当な変わり者であるのだが。

 そんな聖王教会に、最早解放軍の旗も掲げないエステル達遠征軍が辿り着いたのは、桜も散り、緑の葉に変わり始める、四月十三日の事であった。


 薄青い染料を屋根や壁にまとった聖王教会の建物に出迎えられ、エステルは上着のフードを下ろすと、ぽかんと口を開けて、その威容を見上げてしまった。

 アガートラムの白亜の城とは、明らかに建築法が違う。それでいて派手さを感じない佇まいが、一種の感動を与えてくる。

「何、馬鹿口開けてるんだよ。田舎者に見られるぞ、大国の跡継ぎ様が」

 肘で脇腹を小突かれたので、横を向く。クレテスが呆れ顔でこちらを見下ろしていた。

 祝賀会の会場で、突然、自分のものとは到底思えない名を呼ばれた少年は、表向き平静を保っている。しかし、長年付き合ってきた幼馴染みの感覚故か。グランディアを発って以降、その蒼い瞳には、迷いと動揺の暗い光が常に揺れているのが見て取れた。

 今まで自分を支えてきてくれた彼を、今度は自分が支えたい。エステルは密かに決意していたが、当のクレテスはといえば、笑みを消さずに友人達と話し、何という事は無いという態を貫くものだから、取りつく島も無い。だから少女は、やはり弟――ピュラの言う事が本当ならば、実際はそうではない――の変化を察しているケヒトと、困り顔を見合わせるばかりだった。

 細かな彫刻の施された扉が重々しく開き、遠征軍を招き入れる。先頭に立って迷い無く進むピュラに従って、聖王伝説のステンドグラスが飾られた廊下を、誰もが無言で歩んだ。

 話では百人以上の教会関係者や魔道研究者が所属しているはずの建物内は、いやに静まり返っていた。遠征軍の訪れを知って、うろうろするのを控えているのかと思われたが、それにしても静寂に満ちている。

 何かがおかしい。エステルがそう訴えようとした時、ピュラが不意に足を止めた。

「――戦闘準備を!」

 そう叫んで、腰に佩いた『克己』を鞘から抜く。銀の刃が窓から差し込む光を受けてぎらりと輝くのが早いか、熟練の戦士達は各々の武器を解き放った。

 エステル達が応戦の構えを取るのを待っていたかのように、廊下の向こうから火球が飛んでくる。聖剣の守りを受けたピュラの一振りで、炎はあっけなく四散したが、それを合図に、奥から黒いローブの者達が十数人、詠唱しながら走ってきた。

「何故、魔族が聖王教会に!?」

 ローブから見え隠れする尖った耳介をみとめたのだろう。アルフォンスがファティマを背にかばいながらロンギヌスを振って、続いて飛んできた氷の矢を打ち落とす。

「エステル!」

 クレテスの声が耳に刺さったかと思うと、クラウ・ソラスの輝きが眼前で舞って、雷の球体が弾け飛んだ。ぼうっとしているつもりは無かったが、対応していなかったら電撃に焼かれて倒れ伏していたかもしれない。かすめて過ぎた死の感覚に、腹の底が冷えた。

 テュアンとリタ、ユウェインが先陣を切り、魔族を叩きのめしてゆくが、敵は彼らに目もくれず、エステル、クレテス、アルフォンスを集中的に狙ってくる。それが意味するところはひとつだ。

「四英雄の末裔をお守りしてください!」

 クラリスの指示を受けて、セティエとティムが魔法障壁をエステル達三人の前に展開し、間断無く飛んでくる魔法を弾く。遠征軍の偵察隊長として復帰したクリフが暗器を放つ。リカルド、ケヒト、ラケらトルヴェールの年長組も己の得物を遺憾なく振るい、エシャが後方から奏でる歌は、魔族の魔法威力を削いだ。

 大丈夫、これなら問題無く勝てる。クレテスの隣で剣を振るいながら、エステルが確信した時、どん、と衝撃を受けて、身体が大きくよろめいた。

 クレテスの体当たりを食らったのだと気づき、戦闘中にも関わらず、文句の一つも言ってやろうと振り向いて、エステルは目をみはった。クレテスの両腕に、首に、赤く光る魔力の鎖が絡みついている。避けなかったら、それに捕らわれていたのは自分だ。一刻も早く解放せねばと振り下ろした剣は、クレテスが鎖に引っ張られる事で空を切った。

「ふウむ。解放軍の旗頭を消せバ、目障りな連中は総崩れと思いましたガ。四英雄を一人でも始末できるならバ、ニードヘグ様もお喜びになるでショウ」

 公用語だがどこか独特な訛りのある喋り口で嗤ったのは、敵の後方から悠然と現れた魔族だった。他の連中と違ってローブに銀の縁取りがあり、この中で誰が最も位が高いのかを、如実に示している。

「貴様!」ピュラが聖剣を握り直して我鳴る。「この先は聖堂だろ! 大司教達をどうした!?」

「あア、あの老いぼれ達にナラ、少しばかり眠ってもらっていますヨ。私達の計画に邪魔だったのでネ」

 道理で教会に着いてから人の姿が無かったはずだ。魔族は既にエステル達の先手を打って、こちらを殲滅する準備を整えていたのだ。

「てっめ……」

 ピュラが元の口調に戻って魔族に斬りかかろうとする。だが、「オッと!」と、魔族がローブの下で笑みを深くして、クレテスを手元に引き寄せた。

「ノヴァの末裔が既にこちらの手の内だと忘れましたカ? 妙な動きをすれバ」

 魔族が指を鳴らすと、クレテスの首に巻き付いた鎖が、より一層強く締まったようだった。少年の顔に苦悶の表情が満たされ、クラウ・ソラスを取り落とす。

「やめてください!」

 エステルは咄嗟に叫んでいた。自分の油断で彼を危機に陥れたのだ。その落とし前は、自分がつけなくてはならない。胸に手を当て、じっと魔族を見すえる。

「貴方達の最大の目的は、私を討つ事でしょう。他の人を巻き込まないでください!」

 テュアン達が、ピュラが、クラリスが。クレテスまでもが苦しい息の中、非難の眼差しを向けてくるのがわかる。挑発に乗るな、と無言で訴えている。それでも、エステルに引くという選択肢は無かった。大切に想う人を、これ以上自分の手落ちで失いたくない。アルフレッドの時のように、自分の無力を噛み締めたくはない。

「ほほウ。良い心がけデス。流石はヨシュアとヌァザの子孫。頭の良いハ、嫌いではないですヨ」

 魔族がくつくつと肩を揺らして、まるで晩餐会に招待するかのようにゆったりと手招きする。

「デは、剣を捨てて、一人でこちらに来なサい。賢い王女様と愉快な仲間達ナラ、何が最適解カ、おわかりですよネ?」

「クレテスを解放してください」

「貴女が来るのが先ですヨ」

 薄々予想はしていたが、駆け引きは失敗した。エステルが魔族のもとへ行ったところで、彼らがクレテスを見逃す確率は、広大な砂漠で蟻の巣を探すくらいのものだ。

 だが、幼馴染はいつも自分を守ってくれたのだ。最後まで共に在ると言ってくれたのだ。真の家族がもういないかもしれない絶望に襲われても、ここまで共に来てくれたのだ。ならば、今度は自分が、彼の身と心を守る番ではないか。

 そう決意して、唇を引き結ぶ。一年以上に及ぶ戦いを共にした相棒が、乾いた音を立てて床に落ちるのを耳にして、一歩を踏み出そうとした時。

 ぱりん、と。

 硝子が砕け散るような響きが聞こえたかと思うと、クレテスを捕らえている魔族が、驚きの表情のまま固まった。いや、実際全身が固まっているのだ。かちこちの氷に包まれて。

 魔力が途切れた事で拘束の解けたクレテスは、床に膝をついてむせ込んでいたが、すぐに気を取り直すと、クラウ・ソラスを拾い上げて、氷漬けの魔族の心臓を過たず貫く。苦しい思いをさせられた恨みも乗った青い一撃が振り抜かれると、魔族の身体は氷ごとばらばらに砕け散った。

 後方でにやにやと成り行きを見守っていた魔族達が、たちまち血相を変えて狼狽した。その隙を逃さず、戦士達が反撃に転じる。

 形勢逆転し魔族が次々と討ち取られてゆく中、エステルはこうべを巡らせた。あの強力な氷結魔法は、誰かが助け舟を出してくれたのだ。救い主の姿を求めて馳せた視線の先で、柱の陰からひたとこちらを見つめる黒い瞳に、少女は気づいた。

 魔族の青年。そう見えた。褐色の肌に尖った耳介は、今自分達を待ち伏せしていた魔族達と一緒だ。だが、ひとつだけ異なる色がある。彼の髪の毛は、まるで老人のように真っ白だったのである。

 何故、魔族が魔族を攻撃したのか。何故、自分達を援護してくれたのか。呼び止めようとしたエステルの背後に、殺意が迫った。仲間達の攻撃をくぐり抜けた敵が、破れかぶれに飛びかかってきたのである。

 だが、エステルも伊達に解放軍盟主として、そして戦士として、鍛えられてきた訳ではない。武器を手放していても戦う術は、幼い頃から叔父にしっかりと仕込まれた。振り向きざま、相手の鳩尾に肘を叩き込み、鮮やかに蹴り上げる。顎骨を砕かれて悶絶するところに、テュアンの握った聖剣『信念フェイス』が背中から差し込まれ、「ぐふう」と息を吐き出した魔族は床に崩れ落ち、それきり動かなくなった。

 それが最後の足掻きだったのだろう。その場で息をしている敵のいなくなった廊下で、戦士達はようやっと武器を収めて、肩の力を抜く事がかなった。

「お前さあ……」

 絞扼こうやくの痛みがまだ残っているのだろう。多少ふらつきながらエステルの傍まで戻ってきたクレテスが、心底呆れている、という声色で深い溜息をついた。

「おれの事を心配してくれたのはありがたいけど、率先して自分を危険にさらすなよ。解放軍は解散しても、まだお前が筆頭なのは変わり無いんだから」

 助けようとしたのに怒られた。少々の不満に、エステルはわずかばかり唇を突き出す。それから、あの白髪の魔族にきちんと礼を言おうと、再度柱の方を向いたが、少し目を離した隙に、その姿は霞のように消えており、存在した証を残してはいなかった。

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