第6章:桜色の舞う中を(13)
『ミズディ……ざま』
目の前の、青黒いひとつ目の肉塊に、母の名を呼ばれて、エステルは唖然となり、硬直してしまった。
城内を駆け抜け、ヴォルツ皇帝がいるという皇帝の間に辿り着いた一同を待ち受けていたのは、大陸の征服者の男ではなく、この化け物だったのだ。
「……これが、帝国の真実です」
呆気に取られるエステル達を前に、シャンクスが重々しく告げ、クラリスが睫毛を伏せる。
「ミスティ様を亡き者にして生まれたレディウス皇子は、己の父親までをも、魔物を産み出す為だけの生物に作り替え、皇帝の不在を怪しまれないよう、数年間人前に出る事無く。しかし実際には、十六年前から、皇子自身が帝国を動かしておりました」
全ては、
『優女王』の娘ならば、後者を取るべきなのだろう。だが、情けだけで終止符を打つには、エステルの背には、あまりにも多くの生命がのしかかっている。心臓がやけに速く脈打ち、戸惑いに剣を握る手が震えた時。
ヴォルツであったものが苦悶の叫びをあげた。ぼこり、と嫌な音がして、その身体からキマイラが産み出される。床に落ちた魔物は、ゆうらりと立ち上がると、エステルを視界に映して咆哮をあげた。
「エステル!」
クレテスとアルフォンスが飛び出し、クラウ・ソラスとロンギヌスが青白く輝く。キマイラはこの世の何をも知る事無く、息絶えた。
だが、それで終わりではなかった。新たに不死者が産み出され、ぼとり、ぼとりと、床に落ちては、恨めしげな声を絞り出して迫りくる。
「ふざけんな!」
テュアンが激昂しながら両手に握った剣を振るい、魔物を薙ぎ払う。行き場の無い怒りに肩を震わせながら、彼女は涙混じりに叫んだ。
「あたし達は、こんな光景を見る為に戦ってきたんじゃない! こんな結末の為に、ミスティを、ランディを、アルフを失ってきたんじゃない!」
両親や叔父に最も近しかった女性の慟哭が、鋭く胸を突き刺す。彼女と叔父は十七年、ただひたすらに、皇帝を討ち、かつてのグランディア王国を取り戻す事を夢見てきたのだ。独りになってもその夢を背負い続けたテュアンが受けた衝撃は、自分の比では無いだろう。
終わらせなくてはいけない。エステルの胸にその想いが生まれた。
この男のために、自分は両親を失い、国を追われ、戦いに巻き込まれ、最愛だった人をも死に追いやった。燃え盛る炎は今も心にある。
それでも。怒りも、悲しみも、同情も、全てを受け入れて。ヴォルツもただ一人のひとであった事を認めて。それでも尚、大陸を乱した元凶として、この手で制裁を加えなくてはいけない。
心を定めれば、動悸は治まった。静かに感情が凪いで、視界が明瞭になってゆく。
「ヴォルツ・グレイマー」
呼びかけた時、皇帝だった塊がびくりと身を震わせたのは、ただの偶然だったのだろうか。エステルには一生知る事がかなわないだろう。それでも、彼の耳に届いていると信じて、言葉を紡ぐ。
「大陸に戦乱をもたらした貴方に、『優女王』の娘、エステル・レフィア・フォン・グランディアが、死の罰を与えます。どうか」
どうか、その魂が迷わず
それを声に出すには、ヴォルツに恨みを持っている人物が、この場には多すぎた。だから、小さく呟いて、剣を振り上げる。
大きく見開かれたひとつ目に、刃が吸い込まれる。それと同時、耳をつんざくような咆哮が轟いて、仲間達が思わず耳を塞ぐ。
だが、エステルは至近距離でその絶叫を聞き届けた。それが自分の役目だと、自身に言い聞かせて。
ぐずぐずと。青黒い塊が溶けて、床に吸い込まれてゆく。
『……お許しを』
ふと、耳をかすめた囁きに瞬けば、皇帝の残骸に、一人の青年の姿がうっすらと重なって見える。物腰柔らかそうなその顔は、とても国家転覆を謀った男とは思えないほどに穏やかである。
『ありがとう』
その言葉を残して、青年が光になってゆく。光はちらちらと小さな粒子を撒き散らしながらゆっくりと頭上へ昇り、消える頃には、青黒い塊も、そこに存在した染みだけを残して、消滅していた。
感情はやけに落ち着いたままだった。達成感も、昂揚感も無い。ただ、彼も運命に翻弄されたひとの一人であったのだろう、という実感がじわじわとこみ上げてきて、両目から自然と熱いものが流れ落ちる。
「……エステル様」
こちらの心情を把握していないのか、していて敢えて無視しているのか。クラリスが静かに呼びかけた。
「ヴォルツ皇帝は討たれ、帝国は滅びました。民の前に出て、勝利宣言を」
十七年間アガートラム城に翻り続けた、聖王槍に大蛇の巻き付いた意匠の旗が、引きずり下ろされた。代わりに、盾と聖王槍の交わる聖旗が掲げられた事で、城下街の人々は悟る。
ミスティ女王の御子達が、圧制者を討ち取り、正統なる王座を奪還したのだ、と。
誰かが勝利の雄叫びをあげれば、それは堰を切ったように人々の間に広まってゆく。市民も、義勇軍も、帝国兵も区別無く、ただひたすらに『優女王』の名を受け継ぐ王族の帰還を讃え、恐怖支配からの解放を歓呼で迎える。
興奮に満ちた彼らは知らない。
桜の花びら舞う中、城のバルコニーから姿を現し、皆に手を振る王女が流す涙の理由を。
そして。
「帝国は崩壊した。だけど、真の敵はまだ残っている。それに、人間はそう簡単に一枚岩にはならない」
それを柱の陰から見つめるフォモールの王が、苦々しく洩らした言葉を。
「君の本当の戦いはこれからだよ、エステル」
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