第6章:桜色の舞う中を(12)

 抱える秘密を誰にも言えない日々は続いた。

 女王に仕える貴族や、青年を見下す連中が、ある日突然病で引退したり、姿を見せなくなる事もある。その代わりに、青年は図書館勤めから階級を上げていった。周囲に不審に思われない程度の速度で。

 その裏で誰が動いているか。わかりきってはいたが、誰に告げる事もかなわず、食が細くなった事を心配する両親にも、『大丈夫だから』と無理矢理笑顔を作って誤魔化した。

 そして、数年が過ぎた時、青年は宰相として女王の傍につく事を許された。

『一緒に頑張りましょう』

 幼さが消えて王族の威厳を備えてきた女王は、武器を持たずして戦う『優女王』の名に相応しい、太陽のような笑みを閃かせた。

 その隣に、騎士団長となった、あの従騎士だった青年を伴って。


『騎士団長が、邪魔だ』

 人気の無い庭で、魔族はフードの下の唇を憎々しげに歪ませて、呪詛を吐いた。

幻鳥ガルーダなどという、忌々しい聖王の鳥を乗りこなし、女王の愛と信頼を一身に受けている。そなたも憎くはないか?』

 背の高い青年の顔色を窺うかのように、下から覗き込んできながら、彼は先を続ける。

『覆すのだ』

 骨張った両手を肩の高さに掲げて、滔々と説かれる言葉は、毒をもって身に染み込んでくる。

『騎士団長を抹殺し、女王に唯々諾々と従う連中を排除して、そなたがこの国の主となれ』

 さっと血の気が引いた。それはつまり、共に国を盛り立てたいと思った女王に弓引く事。彼女を支える者を奪う事。

 できない、と。喉まで出かかった声は、詰まって放たれなかった。断れば、この魔族は、自分がしてきた悪事を全て青年の罪として暴露する。自分が罰を受けるならまだしも、病の床に伏した父と、それを看病する母を巻き込むわけにはいかない。

 歯噛みして拳を握り締める。覚悟を、決めない訳にはいかなかった。


 そして、聖王暦二八二年二月の、冷え込んだ夜。

 アガートラム城は、紅と赤に染まった。


『貴方の考えを聞かせてください』

 まだ焦げ臭さが残る部屋の中。翠の瞳は、一切責めの色を帯びていなかった。

 部屋の扉前に、手下の死体とは別の血痕があった事、そして双子の王子と王女の姿が見当たらない事から、彼女は既に何かを察して、自分の血を継ぐ子供達を、信頼できる者に託して逃がしたのだろう。賢明な判断だと、こんな時にも彼女の聡明さを愛おしく思う。彼女の前で、彼女の愛する子供達を縊り殺したくはなかった。

 そう考えたところで、偽善だと舌を出して嗤う自分が、心のどこかにいる事を知覚する。これから彼女に告げる残酷な事実は、彼女を容赦無く打ちのめすだろう。

『人と、竜と、魔族。我ら二人が、その架け橋になるのです。種族と国の争いを消す事は、人間だけの力では決してかないません』

『それは重々承知しています。だから、貴方を信じて、傍にいて欲しいと願いました』

 信じてくれていた。こんな時でなければ、滂沱しながら彼女の前にひざまずき、改めて忠誠を誓っていたに違いない。

『それだけでは、駄目なのです』

 だが、もう戻れないところまで来てしまった。瞑目してひとつ深呼吸し、彼女をまっすぐに見すえる。

『ランドール将軍は、死にました。私の部下が撃ち落としました』

 翠の瞳の光が揺らいだ。正確には、青年の裏から糸を引く魔族がとどめを刺したのだが、その死に様まで事細かに告げる必要は無い。

『これが証拠です』

 事前に魔族から渡された、血濡れの槍を差し出す。幻鳥の意匠が施された白銀の槍は、その持ち主が誰であるかを如実に示している。

 彼女の瞳から光が消え、唇が震えた。わななく手が槍を受け取り、掌に赤が移る。

『……ランディ』

 ぽたりとひとしずくが零れ落ち、彼女ががくりと床に膝をつく。ランディ、ランディ、と。もう戻らない愛しい男の名を壊れた魔法人形のように繰り返す、最後の心の糸が切れた女王を、両腕でかき抱く。

 消えてしまえ。そう願った。あの男を想う心など。

 恨んでしまえ。そう祈った。一生自分を許さないで欲しい。

 二つの相反する気持ちが炎渦巻く中、青年は女王を征服した。


 勝者になった青年は、偽りの平和の王国を打ち倒した覇者として、皇帝になった。そこには、魔族の働きかけが大いにあったが、最早魔族は堂々と民の前に姿を現し、女王を慕い青年を批判する者を、容赦無く消していった。

 青年の意図とは裏腹に、帝国の威光は大陸全土へ侵略の手を伸ばし、皇帝の名は圧政者の代名詞として恐れられた。

『優女王』の座を名実共に失った女王は、皇城の奥深くへ幽閉され、魔族の厳重な監視下に置かれて、皇帝でも顔を合わせる事はかなわなかった。臣下の反逆を止められなかった愚かな為政者、という烙印を押された彼女が今、どういう状態にあり、何を思っているのか。それすら知る事ができない。

 せめて向かい合って、責め立てられた方が気楽だと思いながら、自分の前にひざまずいて媚びへつらう家臣達にうなずくばかりの日々が続く。両親が自ら命を絶ったという報告と共に手渡された遺書にも、息子を責める言葉は一切無く、ただ謝罪ばかりが綴られ、一人になった時に、遺書をぐしゃぐしゃに握り締めて嗚咽した。


 そうして、十月とつきが過ぎたある日。


『はじめまして、「父上」』

 子供の頃の自分によく似た面差しを持つ少年は、皇帝の間に入ってくるなり、そう言って嗤った。

『やだなあ、「父上」。初めて会う息子に、名前もつけてくれないんですか?』

 紫がかった銀髪、紫水晶アメジストに底知れぬ闇を包括した瞳。そして、産まれたてとは思えぬ成長を遂げた裸身は、産着の代わりに鮮血をまとっている。

 父上。息子。まさか、という思いが胸の内で渦巻き、だらだらと、こめかみから、背中から、汗が伝い落ちる。

『ミスティ様は』

『ああ、「母上」なら』

 その名を出すと、息子を名乗った少年は、天気の話でもするかのように、朗らかに宣言した。

『死にましたよ。僕が産まれるのに邪魔だったから、腹を破ったら』

 頭から血の気が引く。世界がぐるりと一回転して、そのまま落ちてゆく気分だった。詫びるどころか、言葉を交わす事も出来ないまま、彼女は永遠にこの手から零れ落ちていってしまった。

 とてつもない喪失感にとらわれて、わなわなと震える両手に、血塗れの手が重なる。ひどく冷たい、魂まで凍りそうな手であった。

『そんなに悲しむ必要は無いですよ』

 何ら罪悪感も覚えないのか、息子が肩を揺らして言葉を継いだ。

『貴方もいずれ、彼女の後を追うんだから。それまでは』

 少年の手から黒い光が放たれ、こちらを包み込む。途端、握られた両手が青黒く変色して膨れ上がる。悲鳴をあげようとした喉も、何かが詰まったかのように言葉を紡ぎ出せない。気が動転している間に、身体は醜いぶよぶよした異形に変わってゆく。

『せいぜい、僕の役に立って欲しいね、「父上」?』

 息子が、やけに可愛らしく小首を傾げて、唇を歪めてみせた。


 灼けるような痛覚と共に、またひとつ、魔物が産み落とされた。

 何回、何十回、何百回。それを繰り返したかわからない。何年が過ぎたのかもわからない。もしかしたら、ほんの数時間の出来事なのかもしれない。

 人としての心はほぼ擦り切れ、ただただ魔物を産み出す塊としての生を送るばかり。わずかに残る知能は、愛する人の大切な相手を死に追いやり、大陸を乱した咎人の末路としては、相応しいものだろうと、諦観に満ちるばかり。

 この生を終わらせてくれる者が現れるとしたら、それは、彼女の血を継ぐ者だろう。最早形の無くなった頭の片隅でそう信じ続けて、ひとつになった目を、気怠げに開いた時。

 自分を見上げる翠の双眸と、視線が交わった。

 驚きに満ちた表情でこちらを見すえるその顔は、亡きあの女性ひとに生き写しだ。

 細い手に剣を握っているという事は、裁きに来てくれたのか、愚かな自分を。断ち切ってくれるのか、苦痛しか残らないこの身を。

 手であった器官を伸ばし、必死に、その名を呼んだ。


「ミスティ……様」

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