第6章:桜色の舞う中を(11)

 生まれた時から敗者だった。

 魔族の男が、人間の女を攫って孕ませた子。強者が弱者を食い物にした結果、産み落とされた子供は、父親に見向きもされず、母親は発狂して自刃し、誰にも必要とされなかった。

 聖王ヨシュアに敗れた魔族が住む最後の砦、ニヴルヘル。かつて魔王イーガン・マグハルトの忠実な下僕しもべであった事を唯一の矜持に生きる高位魔族の末裔達の間で、少年は、半端者と嘲られ、石を投げつけられて傷を作っては、回復魔法も使えない人間と罵られ、あからさまにのけ者にされた。

 他人の目を盗んで通った図書館で目にする書物は、魔王を唯一絶対の神と崇め、魔族こそこのシャングリア大陸の真の覇者であり、その地位を奪った人間は滅ぼすに値する憎むべき存在、そう記す物ばかりであった。

『これだけが真実ではないはず。人間側は、どう考えているのだろう』

 抱いた疑問は膨らんで、十の歳に、精一杯かき集めた魔族通貨レドを革袋に詰め、人間と交易をする物好きな商人に渡して、グランディア王国へ向かう馬車に乗せてもらった。

『お前さんは運が良い』

 馬車に積まれた取引の荷物の間に収まって、膝を抱えていると、御者台の商人は、煙管きせるをふかしながら、高らかに笑った。

『姿かたちは人間そのものだ。人の間に混じって生きる事も出来るだろう。それで学ぶがいいさ。魔族と人間の関係は、ひとつこっきりじゃあないと』

 思えばその魔族も、一族の中では変わり者だったのだろう。だからこそ、わずかなレドで少年を大陸中央まで運んでくれたのだ。魔の世界に馴染めなかった爪弾きが、人の世界でどう生きるのか、興味があったのかも知れない。


 辿り着いたグランディア王都アガートラムは、広大な都市であった。

 街は少年の足ではどこまでも広く、目抜き通りの奥に白亜の城がそびえ、桜色をした春の花が舞う中、道行く人々は活気に満ち溢れている。一年中雪に閉ざされた地に築かれた、寒々しいニヴルヘルの砦とは似ても似つかない。

 更に少年にとって幸運だったのは、ぼろぼろの旅装で、髪もぼさぼさのまま、大通りに立ち尽くしていたのを見とめたのが、息子を亡くした老夫婦だった事だろう。死んだ息子に歳の近い子供がみすぼらしい格好で、身寄りも無さそうに佇んでいるのを見過ごせないくらいに、夫婦は実子の喪失を嘆いていた。

 夫婦は少年を家に招き、風呂に浸からせると、ふかふかのローブを着せ、温かい茶とスープを出してくれた。

『行くあてが無いなら、うちにいれば良い。いや、いてくれないかい?』

 老人は、皺の多い顔をくしゃりと笑みの形にして、そう告げた。少年も、初めて触れる人の優しさに、一も二も無く頷いていた。

 そうして少年はその家の息子となり、今までの名を捨て、夫婦の死んだ息子の名を受け継いだ。

 曰く。

 ヴォルツ・グレイマーと。


 少年は、『息子が帰ってきてくれたようだ』と、惜しみ無い愛情を注いでくれる養親のもとで勉学を修め、博識な青年となった。

 育ててもらった恩に報いるにはどうすれば良いか。青年は考えた末、自分の頭脳を活かす為に城仕えする道を選んだ。競争率数十倍の筆記試験と面接を難無く乗り越え、アガートラム王城内にある国立図書館の司書の座を勝ち取った晩、母は七面鳥を焼いて息子の門出を祝い、父とは『これが夢だった』と、十年物の葡萄酒ワインを酌み交わした。

 元々、書物に囲まれるのは嫌いではない。剣を振るう事が苦手な分、政治を学んで、ゆくゆくは高位文官となれば、両親への恩返しとなるだろう。その考えの傍ら、図書館に収められた聖王伝説の本を読み漁った。

 そこで青年は、今までの想いが幻想と打ち砕かれるような現実を、目の当たりにした。

 人が記した四英雄伝承のことごとくが、グランディアの祖である聖王ヨシュアを神格化し、魔王を世界滅亡の象徴として、魔族は滅ぼすべき悪しき存在、と高らかに謳い上げていた。魔族の世界に残る伝説と立場が入れ替わっただけの話を、滔々と説いていたのである。

 書に残してまで世代を超えて憎み合う人と魔。これでは、歩み寄る事など永遠に出来ない。衝撃に打ちひしがれる青年の背に。

『貴方、その本が好きなの?』

 凜と空気が引き締まるような、しかし愛らしさを残した声がかけられたのは、その時だった。青年は振り向き、そして、雷に打たれたかのようにその場に硬直してしまった。

 少女だった。流れる水色がかった銀色の髪。草原を閉じ込めたような翠の瞳に、自分の間抜け面が映っている。銀の髪は竜族の血を引く証。その色を持ちながら城の中を歩き回れる者を、青年は一人しか知らない。

『私は嫌い』

 少女は唇を突き出して、ゆるゆるとこうべを横に振る。

『聖王の事ばかり良く書いて、魔族を憎むように仕向けて。人に都合の良いようにしかまとめていない。書いた人間の悪意を感じるわ』

 少女の弁舌に、青年は更に驚いて目を見開いてしまった。少女――聖王ヨシュアと竜王ヌァザの直系である、十二歳にして当代のグランディア女王となったミスティ・アステア・フォン・グランディアは、年相応の不機嫌を隠しもせずに、青年の手から伝承録を奪うと、分厚い本と本の隙間に、わざとぎゅうぎゅう押し込めた。

『だから、私は変えるの』

 まだ幼い横顔に決意を宿して、女王は語った。

『人と、竜と、魔族だけじゃあない。人同士でも、国家間に漂う争いと憎しみを消して、真に平穏な世界を築く。ほとんどの家臣は夢物語だってけ嗤うけれど、それが、人と竜の血を継ぐ私の役目だと、そう信じてる』

 最早何度目の衝撃かわからなかった。この少女は、小さな身体にとてつもなく大きな願い――野望、とすら呼べるかもしれない――を抱えて、実際にそれを成そうとしている。

 彼女の周囲の者達のように、笑い飛ばす事も出来ただろう。だが、血脈すら違えど、二つの種族をその身に宿す者同士として、青年は少女に深い共感を覚えた。そして、この少女ひとの力になりたいという、祈りにも似た感情が、泉のように心の底から湧き上がってくるのを抑えられなかった。

『必ず、で――』

『ミスティ様!』

 肯定の言葉が青年の口を衝いて出ようとした時、それに先んじて少女を呼ぶ少年の声が、二人の世界の空気を破壊した。

 従騎士の制服を身に纏った、金髪碧眼の少年が、やっと見つけた、とばかりに安堵の溜息をついて、少女の傍に駆け寄ってくる。途端。

『ランディ!』

 少女の表情が、ぱっと明るくなる。青年には見せなかった、心からの笑顔を閃かせて、少女は少年の顔を見上げた。

『お一人で歩き回らないようにと、さんざん言われているでしょう。叱られるのは私です。羽目を外されませんよう』

『あら』

 少年が腰に手を当て眉間に皺を寄せても、女王が悪びれた様子は無い。

『お偉方の叱責をやり過ごすのは、ランディの得意なところでしょう? 私の護衛騎士見習いならば、上手く立ち回ってみせて?』

『……つくづく、貴女には敵いません』

 従騎士はがっくり肩を落として深々と長息を吐くと、少女に向けて手を差し出す。少女は当然のごとく手を取り、二人はまるで恋仲のように互いを見つめ合いながら、図書館を出てゆく。

 残された青年は、ただただ、棒立ちになっていた。心の泉は最早清水ではなく、濁水よりどす黒い汚泥と化して、どろどろと渦巻いている。

 初めてわかり合えると思った相手は、既に他の人間しか見つめていない。どんなに努力しようとも、自分はどこまでも敗者なのだ。それを思い知り、歯噛みして壁を拳で殴りつけた時。

『女王を、手に入れたいか?』

 誰もいなかったはずの背後から声をかけられて、びくうっとすくみ上がる。のろのろと視線を動かせば、黒いローブに身を包んだ小柄な男が、フードの下で、薄ら笑いをこちらに向けている。

 見え隠れする長い耳と、ローブに施された刺繍が示す位階に、忘れていたはずの過去が蘇る。逆らえない力に押さえつけられるように膝をつき、こうべを垂れて、その名を口から紡ぎ出していた。

『ニードヘグ、様……』

 ニヴルヘルの魔族を統括する現頭領は、青年の反応に、満足そうに唇を歪めると、こちらの肩に手を置き、耳元でささめいた。

『あの従騎士の小僧は所詮人間。女王の苦悩を真に理解する事など出来ぬ。それが出来るのは、人と魔族の血を引く、そなただけよ』

 紡がれる言葉は、するすると耳孔から滑り込み、腹の底まで落ちてゆく。

『儂がお膳立てをしよう。人と、竜と、魔が、真に手を取り合える世界を築くために、そなたと女王の血脈が必要だ』

『しかし』

 それは、自分が女王の伴侶となる事を意味する。そんな大それた手段を取るなど、一臣民の自分には叶わない。女王には相応しい相手が選ばれ、やがて王婿となって、グランディアを盛り立ててゆくのだから。そしてそれは恐らく、女王が熱っぽい視線で見つめていた、あの従騎士なのだから。拳を握り締めて首を横に振ると。

『そなたにしか頼めぬのだよ』

 魔族の囁きが、毒蜘蛛の形を取って、身の内に入り込んでくるかのようであった。

『聞き届けてもらえぬならば、そなたが魔の血を引く者として王国に断罪されても、そなたの養親に良からぬ事が起きても、儂にはどれも助けられぬなあ』

 毒を帯びた笑声が、じわりと身を侵す。

 青年は、自分が既に、蜘蛛の糸に絡め取られた敗者である事を、悟った。

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