第6章:桜色の舞う中を(10)

 ブリュンヒルデを討ち取った勝利の感激は、細波のように人々の間に広がっていった。

「勝ったぞ、あの火竜に」

「解放軍の戦士が、勝った!」

「勝てる、勝てるぞ、帝国に!!」

 喜びは伝播し、義勇軍の兵士達は得物を、武器を持たぬ民は拳を突き上げて、快哉を叫ぶ。

 エステルはこうべを巡らせてその様子を見渡し、そして、勝利をもたらした少年に視線をやる。悲痛な面持ちでブリュンヒルデの遺体を見下ろしていたクレテスは、しかし次の瞬間、表情を凍りつかせ、だらりと下げていたクラウ・ソラスを再び構えた。

「――ヒルデ!」

 やはり前触れは無かった。転移魔法陣無しにその場に現れたレディウスは、周囲の光景など目に入っていないかのようにブリュンヒルデの傍らに膝をつくと、服が血塗れになるのも頓着せずに、竜族の娘を抱き起こした。

「ヒルデ、何故寝ているの。起きて。起きてよ」

 まるで駄々っ子のような声音で、皇子は何度も揺すって呼びかける。そうすれば彼女の目が再び開くと信じているかのように。

 しかし、返るものが無いとじわじわ理解していったのだろう。少しずつ、周囲の温度が下がってゆく。黒い光が、レディウスの身体から立ちのぼる。

「……お前が」

 地を這うような低い声を発し、紫の双眸が、クレテスを映す。瞳に宿るのは、明確な怒りと、憎悪だ。

「ヒルデを殺したのか!!」

 叫びと同時に空気が震えた。既に身構えていたクレテスは、クラウ・ソラスの加護に守られ、数歩後退るだけで済んだが、何も知らずに彼の周りで勝利の雄叫びをあげていた義勇兵が数人、跡形も残さずに消えた。

「お前達、ただで死ねると思うなよ」

 錯乱状態で手加減無しの『ヴァロール』の力を振るったレディウスは、ブリュンヒルデの遺体を抱き上げながら、ゆうらりと立ち上がる。身にまとう黒い光と、事切れた娘から流れ落ちる赤の血で、その姿はまるで悪魔のように見える。

「一人ずつ、手足をもいで、喉を潰して、目玉を抉り取って、呑み込んでやる。『姉上』は、最後だ」

 歯を見せてにたりと笑う様は、不気味さに拍車をかける。クレテスがクラウ・ソラスを構え直す。

「エステル様はシャンクス様が守ってくださるから大丈夫です。クレテス兄様を援護してください」

 クラリスの願いを受けたピュラが、目線だけで了承し、いつでもレディウスに斬りかかれる位置を取る。テュアンが、シャンクスが、武器を握り直す。ファティマの回復魔法で再び動けるようになったアルフォンスも、ロンギヌスを手に、幻鳥で飛びかかれるように距離を測る。

 それでも勝てる気はしない。レディウスが『ヴァロール』の力を全開にすれば、アガートラムの都市ひとつ、容易く消し飛ぶかもしれない。怒りに駆られた今の彼は、手加減など一切しないだろう。

 緊迫した空気はしかし、皇子の前に赤い転移魔法陣が現れた事で、ぶつりと断ち切られた。

「お待ちください、殿下」

 魔法陣から現れた魔族ニードヘグは、明らかに不快感を示す主君に向け、恭しく低頭してみせる。

「貴方様にもっと相応しき舞台をご用意いたしました。ここはお退きください。そこでブリュンヒルデの回復を待ち、万全の状態で、再戦のご準備を」

 今のレディウスに、「引く」などという選択肢は無い。エステルはそう予感した。この魔族すら消し飛ばして、己の激情を解き放つに違いない、と。

 だが。

「……ヒルデがまた目を覚ましてくれるのか?」

 レディウスは幼子のようにぱっと表情を輝かせ、ニードヘグに問いかける。魔族が鷹揚にうなずくと。

「じゃあ、行こう。もうこんな場所に用は無いよ」

 まるで行楽にでも行くような弾んだ声で、皇子は無邪気な笑みすら浮かべた。

 狂ってしまった。

 エステルは直感した。唯一の味方を失って、彼は正気であることをやめてしまったのだ。死んだ命は還らない。たったひとつの真実さえ認められないほどに、彼は壊れてしまったのだ。

「ああ、『あれ』はそのままにしておくんだ。こんなちっぽけな国、『あれ』を放っておけば、一日と経たずに壊せるだろうからね」

「御意」

 胸に手を当てて再び頭を下げる魔族を見やって、満足そうに頷くと、皇子は転移魔法も使わず、ブリュンヒルデと共に姿を消す。それを見送ったニードヘグは、ゆったりとエステルの方へ向き直り、フードの下の唇を、満足げに三日月型に象った。

「殿下の最後の糸をいつ切るべきか機をうかがっていたが、貴様達がブリュンヒルデを倒してくれたお陰で、手間が省けたわ。それは礼を言っておいてやろう」

 骨張った手が上げられ、真っ直ぐにエステルを指差す。

「報酬は、死だ。守るべきものが失われてゆくのを、手をこまねいて見て、そして、絶望の内に力尽きるが良い」

「ふざけた事を!」

 テュアンが激昂しながら斬りかかる寸前、魔族を赤い転移魔法陣が包み込む。嘲笑を残して、敵の姿は跡形無く消えた。

 だが、脅威はそれで終わりではなかった。

「――隊長!」

 上空を飛んでいた『銀鳥隊』副隊長ラヴェルが、アルフォンスに向けて声を張り上げる。

「皇城から、魔物の増援です!」

 幻鳥騎士がこうべを巡らせるのにつられて、誰もが魔獣騎士の指差す方向を見やる。キマイラに鳥人間ハルピュイア、翼持つ人のようないびつな不死者が空を飛び、三頭狼、食人鬼、巨人ヒュペリオンが地を駆けて、落ち着きを取り戻しかけていた人々に襲いかかる。アガートラムは再び、阿鼻叫喚の混乱に陥った。

 戦い慣れた者が必死に立ち向かうが、気が動転して逃げ惑う非戦闘員が枷となり、上手く立ち回れない。その間に、魔物は双方に飛びかかり、首をもぎ、腕を喰らって、血と絶叫を迸らせる。

「お下がりください、王女殿下!」

 シャンクスがエステルの前に立ち、飛びかかってきた鳥人間に向かって剣を振るう。

「殿下はアガートラムの民の希望です、それが失われてはなりませぬ!」

(……違う)

 魔物の爪がかすめて傷ついてゆく騎士を見つめながら。必死に敵に立ち向かう弟や友人達を見やりながら。エステルは目をみはり、心臓の位置に両手を押し当てた。

 希望だからと、ただ守られるだけではいけない。それは、叔父が亡くなった時に嫌というほど思い知った。何もできないまま担ぎ上げられる希望など、ありはしない。

 ならば、どうすれば良いか。

 逡巡の内に瞑目した一瞬、まなうらを、もういない大切な人の姿が横切る。かの人は、こちらを向いて微笑み、そして唇を動かしたのだ。

 彼が今ここにいたなら、きっとそう言っただろう、という言葉を。


『どうか戦い抜いてください、エステル様。貴女の御心の信じるままに』


「……はい、叔父様」

 思わず声に出せば、ひとしずくが地面に落ちる。それは濡れた石畳に吸い込まれて消えたが、心に灯った大きな決意の炎は消えなかった。剣を鞘から抜き、握り直すと、翠の瞳に凜とした光を宿し、エステルは地を蹴った。

 迫りくるキマイラの炎をかわし、剣を振り抜く。返り血を浴びても怯む事無く山羊の首を斬り飛ばし、凄絶な姿になりながらも、王女は声を張り上げた。

「皆、諦めないでください!」

 クレテスが、シャンクスが、クラリスが。仲間達や義勇兵が振り返る。狂乱に陥っていた民が無駄に叫ぶのを止めて顔を上げる。注視を一身に集めながら、エステルは、頬にかかったキマイラの血を拳で拭い、言葉を継いだ。

「ここで我々が倒れる事こそ、レディウスの望む破滅の姿です。どうか落ち着いて対処を。戦える者は戦闘継続を。動けない人には動ける人が、手を、肩を、貸してください」

 自分は母のように、戦わずして戦う『優女王』にはなれない。剣を抜いて、斬り殺して、命を奪ってきた。今更綺麗事を口にしても、手を赤く染めた血が消える訳ではない。

 それでも。

 それでも、自分の走ってきた過去を、自分自身が否定してはいけない。それは共に走ってきた人々や、自分を信じてくれた人々、自分の為に生命をなげうった人々をも否定する事に繋がる。ならば、これが自分の進む道だと、胸を張って生きるしか無い。

「どうか皆で協力を。私達が力を合わせる事が、レディウスに対する、唯一にして最大の抵抗です!」

 飛ばした檄は、誰に、どこまで響いたかわからない。だが、エステルの言葉は、確実に人々の胸を打ったようだった。

 クレテスが笑みを見せて、巨人に向き直る。テュアンがこちらからは見えない角度で顔を拭い、剣を握り直して魔物に飛びかかる。上空でアルフォンスがロンギヌスの青い輝きを振って応えてくれる。

 その時、新たな鬨の声がなだれ込んできて、エステルは振り返り、表情を固くした。帝国の紋章がついた鎧は、先刻ほとんど壊滅させたはずの、アガートラム防衛軍の証だ。解放軍が落ち着ききらない時を見計らって、復讐に来たのだろうか。

 しかし、その恐れは杞憂に終わった。帝国兵達は街中に散開すると、民をかばって魔物を討伐し始めたのである。

「ああ、どういう事だ?」

 クラリスを守りながら剣を振るうピュラがぼやくのも無理は無い。何が起きているのか、エステルにもわからないのだから。

 その間に、帝国兵を率いてきた百人隊長と思しき騎士が、エステルの前にやってくると、帝国式ではなく、旧王国式の膝をつく礼を払って、「エステル王女」と、深々と頭を下げたのだ。

「先程の決戦、お見事でした。我欲に溺れた将軍の下で戦ってきた我々など、貴女様の足元に及ぶべくもない、完敗です」

 エステルがぱちくりと目を瞬かせると、百人隊長は続ける。

「レディウス皇子が放った魔物は、瓦解した我々帝国兵にも襲いかかってきました。私より上の将は真っ先に逃げを打ち、あるいは殺されて、残った兵もわずかです」

 何故、あんな連中に従ってきたのか、自分にももうわかりません。そうぼやいてから、百人隊長はまっすぐにエステルを見上げる。

「それで我々も確信いたしました。グランディアは、帝国のものではない。大陸の民の為に、汚名をかぶって尚戦い続けてこられた、ミスティ女王の御子であるエステル王女、貴女の為に存在するのだと」

 エステルは驚きに目をみはってしまう。帝国軍の中にも、言葉を交わせばわかり合える相手がいる事は、重々承知していた。デヴィッド、フォーヴナ、ゼイル、セルデ。倒すしか無かった者の中にも、きっと話が通じる相手はいただろう。

 そして今、最前まで刃を交わしていた者達もが、エステルを認めてくれている。母ミスティはこうして、自分に武器を向けた者にも、優しく手を差し伸べたのだろう。自分は母には及ばないが、出された手をはね除ける真似はしたくない。

「ご協力を、お願いできますか」

 できるだけ穏やかな声音で告げれば、百人隊長はぱっと表情を輝かせ、「はっ!」と低頭した。

 最早、身分も、所属も、解放軍も帝国も関係無かった。誰もが互いをかばい、傷の手当てをし、手を貸し合って、絶望に立ち向かおうとしている。母が目指した理想に、少しでも近づいているだろうか。目頭が熱くなった時。

「エステル様!」

 クラリスが駆けてきて、まっすぐにアガートラム城を指差した。

「この魔物の群れは、元凶を絶たなくては止まりません。皇城へまいりましょう」

「クラリス、貴女にはその元凶がわかるのですか?」

 問いかけに、軍師の少女と、シャンクスまでもが、悲痛な表情を浮かべる。

「行けば、理解していただけるかと」

 多くを語らないクラリス達に、しかし問い詰める時間も惜しい。戦いが長引けば長引くほど、魔物の数は増え、こちらの犠牲も増す。ならば一刻も早く、事情を知る彼女達に従って、元を叩くべきだ。

「案内を、お願いします」

 エステルがひとつうなずくと、クラリスも首肯し、「こちらへ!」と走り出す。ピュラとシャンクスが彼女の前を駆けて露払いをする。

 倣って皇城へ向かうクレテスら仲間達と共に、桜の花びらが舞い、自分を呼ぶ歓声が響く中、エステルは大通りをひた走った。

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