第6章:桜色の舞う中を(9)

 クラリスの戦術によって、解放軍は外周を守る帝国軍を引きつけ、セティエのメギドフレイムをティムのヴォルテクスが増幅させる事で、敵の戦力と士気の大半を奪った。その間に、水の溜まっていた東水門が開くと同時、エステル王女自ら率いる精鋭部隊が、水流に身を委ねて城下街に突入したのである。

 魔物が人々を襲っている事を確認したエステルの指示は迅速に全軍に伝わり、戦士達は街中に散開して、民を救いに走った。

 希望も、生命いのちすらも奪い去られようとしていたアガートラムの民は、遂に訪れた救い主に感謝し、口々に讃える。

「エステル王女様、アルフォンス王子様万歳!」

「解放軍に栄光あれ!」

「帝国の恐怖支配に終止符を!」

 クレテスはその歓呼を耳にしながら、クラウ・ソラスの輝きで食人鬼の首をはね飛ばし、熱狂の渦の中を駆け抜ける。

 だが、人波の向こうを悠然と歩いてゆく、覚えのある姿をみとめた時、少年は息を呑んで、一瞬硬直した。

 赤みを帯びた銀髪に、紅の瞳。間違い無い。ブリガンディで戦った、ブリュンヒルデとかいう、レディウスに従う竜族だ。彼女がこの場にいるという事は、その目的について一分の疑いも無く確信できる。

「兄貴!」

 背後で不死者に向けて矢を放っていたケヒトに呼びかける。兄はこちらの視線を追って、すぐに察してくれたようだ。勘の良い家族を持ってありがたく思う。クレテスが白銀聖王剣を握り直せば、銀の刃は青白い光を放つ。それを見届けると、シュタイナー兄弟は全力で石畳を蹴って、水飛沫をあげながら走った。

 予想通り、竜の女は、迷い無くエステルのもとを目指してゆく。その距離が二十歩ほどまで縮まった時、クレテスはエステルとブリュンヒルデの間に割り込み、クラウ・ソラスを掲げて切っ先を竜族に向けた。

「エステルに手を出そうってんなら、先におれを倒すんだな!」

 竜族の女が目をみはる。背後で幼馴染が驚き半分安堵半分の息をつくのがわかる。周囲の空気がきんと張り詰めて、五感が明瞭になる。

「……ブリュンヒルデ殿」

 エステルの傍らに立っていた騎士が、痛恨の極みだとばかり、吐き出すように竜族の名前を呼ぶ。しかし彼女は、なんら痛痒も見せずに無表情で立ち尽くし、紅の瞳で順繰りにこちらを見回す。

 そして。

「あなた達に」

 ようやっと見せた感情は、自嘲気味に唇を歪める、もの悲しさを覚える笑みだった。

「私の心はわからない。あの方の心は、もっとわかるまい」

 誰の。その問いは届かなかった。ブリュンヒルデを中心に炎が噴き上がり、それがおさまった時には、紅蓮の竜獣ドラゴンが姿を現し、のそりと首をもたげたからだ。

「下がれ!」テュアンが周囲で呆然としている者達に怒声を飛ばす。「まともに渡り合えない奴がいたら、戦える奴の邪魔でしかない!」

 それを受けた旧王国騎士達が、すぐさま民や義勇兵を誘導して避難させる。

 一目散に逃げる人の合間を、クレテスはクラウ・ソラスを手にしたまま、静かに逆方向へ歩んでゆく。ブリュンヒルデの前へ。

 ブリガンディで初めて見た竜獣は、とてつもなく巨大で、鱗に剣も通りそうにない、不死身の存在に思えた。だが今、向かい合う赤竜は、なんだかやけに小さく見える。以前にあった揺るぎない強さを失ってしまったかのようだ。

 それが何故かはわからないが、今度こそ勝てる。確信を抱き、クレテスは地面を蹴って赤竜に肉薄した。

 竜が大きく息を吸い込み、炎を吐き出す。周囲を濡らしていた水が瞬時に蒸発したが、クラウ・ソラスの輝きが守りとなって、灼熱を、ほんの少し皮膚がひりつく程度にまで軽減してくれる。怯む理由は無い。大きく踏み込んで、聖剣を振り抜く。銀の刃は固い鱗すら容易く斬り裂いて、竜は痛みに叫びをあげてのけぞった。

 反撃とばかり、鋭い爪を有した平手が降ってくる。まともに叩きつけられたら潰れたトマトのように血を撒き散らして死ぬだろう。咄嗟に頭上に剣を掲げ、甲高い音を立てて受け止める。

 竜が掌に体重をかけてくる。剣を握る手がぶるぶる震え、膝を叱咤してくずおれないようにするので精一杯だ。背後からケヒトが間断無く矢を射ているが、クラウ・ソラスほど竜に有効ではないようだ。

 その間に、赤竜が再び大きく息を吸い込む。この至近距離で炎を吐かれたら、今度は火傷くらいは負うだろう。衝撃で手の力を緩めたら、直後の運命は推して知るべし、だ。

「――クレテス!」

 エステルが悲痛な声で名を呼ぶのが、やけにはっきりと聞こえる。

『それでも、絶対に失いたくない人がいます』

 彼女の告白は昨夜の事なのに、途方も無く遠い日の記憶に思える。自分ははっきりと答えを返さなかった。こちらの想いを伝えないまま、死ぬわけにはいかない。重みに耐えきれなくなってきて笑い始めた膝を叱咤した時。

 白銀の翼が太陽光を負って急降下してくる。その背の人物が、青白く輝く槍を突き出す。

 幻鳥ガルーダを操って竜の頭上に回り込んでいたアルフォンスが放ったロンギヌスの一撃は、竜の左目を深々と抉った。竜はのたうち回って手を離し、闇雲に首を振って、幻鳥騎士を振り払う。幻鳥は地面に叩きつけられながらも、相棒を守り切り、アルフォンスに大きな怪我は無かったようだ。ユウェインとリタに守られながら、回復の杖を抱えたファティマが義兄あにのもとへ駆けてゆくのが、横目でうかがえる。

 最大の好機を、もらった。

(流石現役騎士は怖い物無しだな)

 クレテスはアルフォンスに心の中で賛辞を贈ると、一旦身を屈め、跳ね上がる勢いを攻撃力に加算して、クラウ・ソラスを振り抜く。左脇腹から喉元までを一気に斬り裂かれた竜獣の傷口から鮮血が噴き出して、クレテスの鎧を、金髪を、赤く染める。

 よろめきながら。竜獣は何とか反撃に転じようと地に足を踏み締める。だが、そこまでだった。断末魔の咆哮を轟かせながら、巨体がよろめき、そして、幾つかの民家を巻き添えにしながら、ゆっくりと地面に倒れた。

 熱気が消えると同時、竜獣の姿も消え失せる。クレテスは、クラウ・ソラスを鞘に納めて、竜がいた場所の中心へ歩み寄る。血の海に沈んだブリュンヒルデは、人の姿を取っており、自分を彩るのと同じ色の瞳で、ただ虚空を見つめていた。

 だが、クレテスが傍らに立った時。

「……レディウス様を、止めて」

 ここではないどこかを見すえたまま、かすれる声が、少年の耳朶を打った。

「あの子に救われた、時から……。あの子が、何であろうとも、何になっても……共にいようと、思った……。だけど、あの子の心は、どこにも、見つからなくて……、私では、取り戻せなかったから……。あの子が、これ以上、罪を、重ねる前に……どうか」

 初めて聞く本心に、クレテスが瞠目していると、ブリュンヒルデはゆるりと首をこちらに傾けて、いつになく穏やかな笑みを閃かせる。

「愛する者のある……貴方なら……、わかって、くれる、でしょう……?」

 彼女は問いかけに対する答えを待たなかった。クレテスが口を開く前に、ゆっくりと目を閉じ。

 そして、狂える皇子の懐刀は、美しい笑顔のまま、永遠に時を止めたのであった。

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