第6章:桜色の舞う中を(7)
聖王暦二九九年四月九日。
その日は、後世の史書に力強く刻まれる一日となった。
アガートラム皇城の奥、謁見の間には、春だというのに冷たい空気が満ちていた。その場にいるのが、玉座に座する皇太子レディウスと、脇に控える魔族の男のみ、という
「では、よろしいのですな」
魔族ニードヘグが爪弾くように耳打ちすると、肘掛けに肘を乗せ、頬杖をついていたレディウスは、唇で鮮やかな弧を描く。
「今更覆してどうするんだよ」
抱える兵士一万は、帝都の外で解放軍を迎え討つ。足止めをしている間に、城下に魔物を放ち、民を殺す。それが、レディウスが早朝に発した命令であった。
「『姉上』は、自分の手の届かない場所で命が失われるのをやけに嫌う。僕には理解できない感情だけど、それで彼女が弱体化するなら、使わない手は無いだろう?」
本来ならば、皇帝である父ヴォルツが収まるはずの玉座を、我が物顔で占領して、皇子は笑みを深くする。その傍らで、ニードヘグが恭しく頭を下げた。
「滅びの後に残るのは、死の大地。世界の王である貴方様に相応しいものになりましょう」
魔族の言葉を真に受けていないのか、レディウスは鼻先で一笑に伏す。それから、自分の傍らにいるはずのもうひとりの姿が見えない事に気づいて、紫の瞳を細めた。
「……ヒルデはどこへ行った?」
その頃、アガートラム城の渡り廊下では、一組の男女が向かい合っていた。他に人影は無く、秘密の逢瀬のように見えなくもない。
だが、ほとんど無人に近くなったこの城内で、緊張感に満ち、息を殺すように対面する姿は、これが決してそんな甘ったるい密会ではない事を示していた。
「レディウス様が、魔物を城下に放つ指示を下された。守らねば、アガートラムの民はことごとく死ぬだろう」
女――ブリュンヒルデ・エルダーの放った言葉に、男――元グランディア王国副騎士団長シャンクス・キルギスタは、四十路前という若さに似合わぬほど老成した顔に、驚愕を満たした。彼こそが、『負け犬』の烙印を押されて虐げられながらも、臥薪嘗胆の日々を過ごし、エステル王女に繋がる者達と連絡を取り続けた、帝都に残りし旧王国派の筆頭だった。
「何だと」髭の生えた口元を歪め、身を震わせながら、シャンクスは一歩踏み出す。「レディウス皇子は、民を殺すだけで、解放軍の意気を削ぐ事ができるとでも思っておられるのか」
「できる」
ともすれば激昂しかねない騎士を前にしても、ブリュンヒルデは淡々と語る。
「守るべき者の死は、エステル王女を絶望させる。絶望は、魂を殺せる。先日、直接王女を襲った際に、レディウス様はそれを確信されてしまった」
最初から、守るべき者の無い、孤独な王者として生まれたレディウスには、きっと理解できないだろう。ブリュンヒルデはそれを承知している。エステルを動かすのは、彼女を支え慕う多くの人間の意志だ。それを折る為なら、本来国を継ぐ者として庇護すべき民すら文字通り切り捨てるのは、レディウスには何ら痛痒ではないのだ。
ならば、目の前の騎士が継ぐ言葉も、彼女はわかっている。
「では」
予想通り、シャンクスが唇を引き結んで、胸に手を当てた。
「我ら旧王国派は、解放軍が来るまで、義勇軍として民を守り魔物と戦おう。それで良いのだな」
「そういう事だ」
ブリュンヒルデは無表情のままうなずく。レディウスに忠誠を誓いながら、こうして反逆者に情報を流すのは、一族の王であるヌァザの血を引く者へのせめてもの義理なのか。それとも、レディウスを止められない己の無力感と罪悪感から来る贖罪なのか。事ここに至っても、ブリュンヒルデには自分自身が理解できない。
「そなたも」彼女の困惑に追い討ちをかけるように、シャンクスが口を開いた。
「一緒に来ないか。そなたは皇子の側近でありながら、こうして我々を何度も助けてくれた。私はそなたを敵としてみすみす死なせたくはないのだよ」
鐘を鳴らすように。ブリュンヒルデの胸の内で、彼の言葉が強く響く。もしそうできたら。大陸解放の徒として、己の良心が指し示すままにこの力を振るえたら、どんなに心震える感動を覚えるだろうか。
だが、それを思う度に、耳元で繰り返す囁きがあるのだ。
『ヒルデ』
甘い呼びかけは、呪縛であった。故郷フィアクラを追われ、奴隷商人に捕まり、見世物として過ごす惨めな日々から自分を救ってくれたひと。初めて自分を必要としてくれたひと。
どんなに悪しき行いをしていても、ただの気まぐれかも知れないとわかっていても、彼の傍らを去る事など、考えられない。自分は彼という籠が無くなっては、どこへ行けば良いのかもわからない迷い鳥である。
だからブリュンヒルデは、感情を殺したまま、首を横に振って答えるだけなのだ。
「エステル王女には多くの仲間がついている。でも、レディウス様には、私しかいないから」
そう。もぬけの殻になったこの城内が、少年が決して慕われる王者にはなれない証だ。だから、誰の血で手を染めても、
彼の味方であり続けると、決断してしまったのだ。
「……そうか」
これ以上の問答は無用と感じ取ったのだろう。シャンクスがひとつ溜息を吐いて、一歩引き下がる。だが、踵を返す前に、彼はひどく切なげな表情を見せて、言い残す。
「もし出会う場所が違ったら、我らは同志として手を取り合う事もできただろうな」
その言葉で、とうとうブリュンヒルデの鉄面皮が崩れた。彼女が目を丸くして立ち尽くしている間に、シャンクスは今度こそ背を向け、足早に立ち去る。
何か謝辞を返すべきだったのだろうか。ブリュンヒルデの逡巡はしかし、急速に近づいてきた黒い気配で断ち切られる事になった。
「ここにいたのか、ヒルデ」
予兆も無しに転移してきた皇太子レディウスは、恋人というよりは、まるで母親に甘えるかのように、ブリュンヒルデの背後からしなだれかかって、両の
「ヒルデ、お前に頼みがある。お前にしかできないことだ」
「はい、なんなりと」
耳朶を噛みそうな距離で囁く声に、平静を保って答えれば、背後で皇子がゆるりと笑む気配がした。
「お前も街に降りて、帝都の民を虐殺しろ」
「魔物を放つのでは、なかったのですか」
珍しくブリュンヒルデが質問をした事で、興が乗ったのか、レディウスは「ははっ」と軽く笑声を放った。触れる体温は確かに温かいのに、重ねられる言葉は確実に、こちらの心を冷やしてゆく。
「誰も彼も信用を置けないんだよ。あのニードヘグだってそうさ。口だけ達者で、自分で手を下したところなんか、見た事が無いだろう? あてになるのはお前だけなんだ」
(この子は、誰も信用していない)
孤独に生まれ、親の愛情を知らず、畏怖と媚びへつらいだけを向けられて育てば、誰しも歪んでゆくだろう。それでも、奴隷生活から彼に救われた時、彼の為に残りの命を捧げようと、思ってしまった。唯々諾々と命令を聞いて、糺す事もしなかったのは、自分の罪だ。だから最後まで、彼と共に堕ち続けて、世界の敵として討たれる結末も辞さない。
これを、ひとは『愛』と呼ぶのだろうか。数百年生きてきたブリュンヒルデにも、最早わからない。
だから彼女にできるのは、一瞬瞑目して強く唇を噛んだ後。
「かしこまりました」
と、いつも通りの平静を装って応え、皇子が満足げにくすくす笑うのを、ただぼんやりと聞くことだけであった。
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