第6章:桜色の舞う中を(6)

「にゃーん」

 目の前に掲げられたサビ柄の猫に鳴き声を合わせる、幼馴染の意図がわからなくて、ラケは小首を傾げた。

「庭を歩いてたから、呼んだらついてきてさ」

 いや、訊きたいのはそこではない。こちらの突っ込みをわかっているのかいないのか、ケヒトはサビ猫をラケの腕に託してきた。自分の猫好きを知るのは、トルヴェールの子供達の間では、もう、彼だけだ。

 だからラケは猫を撫でながら、目の前の青年に、「あ、ありがとう……」と返すばかりである。

『将来は、猫を飼おうか』

 そう言って笑った青年は、もういない。だが、悲しみを引きずって独りで生きてゆく事を、あの人は望まないだろう。後ろを振り返らず、前へ進め。そう言って背中を軽く押してくれるだろう。

 全てを過去に置き去りにしたわけではない。まだ、悪夢にうなされて飛び起きる夜もある。だが、その頻度は減った。

 それは、目の前の青年が常に自分に気を遣って、決して急いた結果をこちらに求めず、ラケの心の歩幅を把握して、待っていてくれたおかげだ。

 彼はいつもそうだ。常に周囲に気を払って、皆の様子を油断無く観察し、最適解を導き出す。弓で後方から支援する、戦闘での立ち回り通りだ。それはありがたいのだが、一歩引いてばかりで、もどかしく感じる事もあった。

 だから、敵方に弓兵のいない戦場で魔鳥騎士アルシオンナイトが先陣を切るように、先手を打つしか無い。

「私、この戦争が終わったら、ムスペルヘイムへ帰るわ。ルディ叔母様のあとを継ぐ人間は、他にいないから」

「ああ、そうだな」

 事実、セルヴェン・クレンペラーのリヴェール侵攻で、ムスペルヘイム魔鳥騎士団の生き残りは、ほとんどいなくなってしまった。後進を育成して立て直すには、数年単位では終わらない時間が必要だろう。その時、実戦を経験したラケの力は、必ず大きな助けになる。その事を、理解もしていたし、納得もしている。

「その時は」

 ラケは従妹達とは違う。リタのようにひねくれた事しか言えないわけでも、パロマのように騎士以外の生き方を見つけられたわけでもない。ただ、自分の信じる道の傍らに、今想う人がいてくれれば良いと願うばかりだ。

 ただ、素直にこちらからそれを口にするのは、少々照れ臭い。だから彼女は、満面の笑みを青年に向けて言うのだ。

「猫を飼って暮らしましょうか」

 遠回しな告白に、ケヒトが普段見せない動揺で目を見開く。ラケはのけぞって笑声を洩らし、腕の中のサビ猫は、居心地悪そうに「にゃおう」と不満の声をあげるのだった。


「アルフォンス兄様」

 厩舎でシーバの羽根の手入れをしているアルフォンスに、耳に慣れた声がかけられる。振り向けば、ファティマがカモミールのお茶を注いだカップを二つ載せた盆を持ったまま、淡く微笑んだ。

「少し、休まれてはどうですか」

「ああ、そうしようか」

 義理の兄妹は、揃って幻鳥の傍らに腰を下ろし、カップの中身に口をつける。ほんのりと甘い香りが鼻腔に抜け、干した林檎を混ぜた酸味を帯びる熱が、喉を滑り落ちてゆく。カモミールも林檎も、故郷カレドニアでは滅多に手に入らない貴重品だ。それだけのものを、グランディアでは、帝国支配下でも栽培できるのだ。

「カレドニアに帰ったら、グランディアの治水事業を持ち込めないか、検討してみよう」

「気が早いですね」

 カップをためつすがめつ洩らせば、ファティマがくすりと笑う。たしかに妹の言う通り、まだ勝利も確定していないのに、早まった発言だろう。アルフォンスは苦笑して、傍らの少女を見下ろした。

「ファティマには、何か決戦の結果は『視えて』いるのか」

 その言葉に、ファティマがふうふう息を吹きかけていたカップから唇を離す。菫色の瞳をこちらに向けて、彼女はゆるゆると首を横に振った。

「いいえ、何も。何も『視えない』です」

「……そうか」

 ウルザンブルンの巫女の能力は気まぐれだ。当人の望むと望まざるに関わらず、ある時突然、結果だけを『視せて』くる。逆を返せば、求める答えに関しては、ひたすらに沈黙を保って、何も教えてくれない事がほとんどだ。アルフォンスが目を細め、お茶を干してカップを横に置けば、「でも」と、ファティマが薄く笑む気配がした。

「『視えない』からこそ、この戦いは、わたし達の行動次第で、良い未来にも悪い未来にもできる。わたしは、そう思うのです」

 アルフォンスは思わず目をみはってしまう。『視える』事に怯えて泣いてばかりいた義妹が、そんな前向きな発言をできるようにまでなった。これは紛れもなく、エステルが自分達兄妹を解放軍に迎え入れてくれた結果だ。実の姉に感謝の念が湧く。そして、義妹への愛おしさは更に募ってゆく。

「ファティマは強いな。その強さに助けられて、僕はここまで来られた。今の僕がこうしてあれるのは、君のおかげだよ」

「そんな」ファティマが頬を朱に染めて、肩までの短さになった髪をいじりながら、気恥ずかしそうに返す。「わたしだって。アルフォンス兄様が、幼い頃からずっとわたしを守り続けてくださったから、わたしは生きてこられたんです。兄様がいなかったら、わたしはここまで変われませんでした」

 ささやかな幸せを噛み締めるような、小さな花のごとき笑顔が、胸に秘めてきた想いを解き放つ。アルフォンスは両腕を伸ばし、ファティマを力強く抱き寄せた。少女の手にしたカップが地面に落ち、「あ」と小さな声が零れるのにも構わず、アルフォンスは義妹の耳元で囁く。

「ファティマ。必ずこの戦いを二人で生き延びて、カレドニアに帰ろう。その時は、兄妹でなく」

 続けた言葉は小さすぎて、ファティマの鼓膜を軽く震わせる程度だっただろう。だが、彼女には確実に届いたようだ。その瞳が瞬く間に潤み、「わたしは」すがりつくように細い腕が少年の背中に回される。

「この力があるのに、唯一知る事ができないものがありました。本当の兄妹ではないとわかってから、その思いはもっと強くなりました。ずっと知りたかったんです。兄様の気持ちを……」

 それ以上の言葉は必要無く、菫色と、ロイヤルブルーの視線が絡み合う。カモミールと林檎の甘酸っぱい味が混じり合う。

 幻鳥だけが、想いの通じ合った二人を見下ろしていた。


 外から、気合いを吐く声が聞こえてくる。

 何の気は無しに廊下を歩いていたエステルは、それにつられて、中庭へ足を向けた。聞き覚えがある、というか、いつも聞き慣れた声であったからだ。

 果たして目指す先に、予想した人物はいた。冴え冴えと光る月明かりの下、白銀聖王剣クラウ・ソラスを握る幼馴染。

 エステルの気配に気づいていないのか、クレテスはこちらを見向きもせずに、一心不乱に剣を振るう。

 上段から斬り下ろしの、突きへの転化。かと思えば素早く身を引き、再度踏み込んで薙ぎ払い。地を蹴って横様に仮想敵を避け、屈み込んでからの飛び上がりを威力に変えて振り抜く。

 全て、トルヴェールの子供達がアルフレッドとテュアンに習ってきた、グランディア王国傭兵仕込みの剣技だ。少年は、その基本を今も律儀に守って、そして決戦へ臨もうとしている。

 まだ春は芽吹いたばかりだというのに、クレテスの額からは汗が飛び散り、全身から湯気が立ち上っている。一体どれだけの時間を、こうして過ごしていたのだろうか。疑問は不安に転化し、思わず口を衝いて出ていた。

「あまり根を詰めると、明日の決戦に障りますよ」

 呼びかけで、少年の動きがぴたりと止まった。蒼い瞳がこちらを向き、真ん丸く見開かれる。

「いつからいたんだよ」

「ついさっきです」

 どうやら訓練に熱中するあまり、本当にこちらの存在を感知していなかったらしい。エステルは苦笑しながら、傍の木の枝にかかっていたタオルを取り、少年に差し出した。「さんきゅ」と短い礼と共にタオルはクレテスの手に渡り、滴り落ちる汗を拭き取ってゆく。

「明日は嫌でも緊張するだろ。肝心な時に身体が基礎を思い出せなかったら、洒落にならないからな」

「そうして頑張りすぎて、本番で動けない方が、洒落になりません」

 少年の言い分にぷくりと頬を膨らませてみると、「ははっ」と苦笑が返った。

「エステルには敵わないな。昔からだ。お前に叱られると、言い返す事もできない」

 それでは自分がいつも彼を叱っているみたいではないか。憮然とするエステルに、クレテスは苦笑を微笑に変えて、首を横に振ってみせる。

「別に馬鹿にしてる訳じゃあないさ。お前がそうやっておれを窘めてくれたから、おれはぎりぎりのところで冷静さを失わずに、生き残ってこられた」

 想定していたのと異なる言葉を贈られて、とくん、と心臓がひとつ高鳴る。頬が熱くなる。

「わ、私だって」

 行き場を失った手で銀髪をいじりながら、うつむき気味に、しどもどと音を紡ぐ。

「クレテスがいてくれたから、ここまで来られました。貴方が私を守ってくれて、支えてくれて、叱ってくれて。そして、傍で見ていてくれたから、私は頑張れたんです」

 返事はすぐには無かった。夜の帳が降りた中庭には、静寂が落ちる。沈黙に耐えかねてエステルが顔を上げると、心中複雑そうなクレテスが、眉を垂れてこちらを見つめていた。

「おれじゃあないだろ。アルフさんがいてくれたからだ」

 叔父の名を聞く度、エステルの胸は今も鋭い針で刺されたような痛みを覚える。自分が未熟故に、永遠に失われてしまった、庇護の翼。しかしそれは同時に、自分の足で立って踏み出せという、叔父からの姪離れの宣告であるような気が、今はする。

 ならば、自分も叔父から巣立って、歩き出さねばならない。

「沢山の命が失われました。沢山の命を奪ってきました。私は、解放戦争という名の下に、多大な犠牲を払ってきたのです」

 そう。解放軍が正義である証左など、この世界のどこを探しても見つからない。破壊衝動に囚われたヴァロールであるレディウスの思惑はともかく、帝国軍の兵から見たら、エステル達は、仲間を殺し、自分の拠って立つ場所を破壊しようとする、反逆者で、侵略者だ。憎まれて当然である。

 だからこそ、語り合う事で戦を回避しようとした母の気持ちが、今ならわかる。武器を握ったまま「わかり合おう」と笑いかけたところで、誰も武器を引っ込めてはくれない。母は武器を持つ相手に、殺される事も覚悟の上で、戦う力を帯びずに向かい合おうとしていた。娘の自分より、余程立派な人であった。

 自分は母のようにはなれない。戦う事でしか、相手を止められない。ならば、剣で語るのみだ。結果、身近な人を失っても。その屍を踏み越え、靴底を血で染めて、進み続けるしか無いのだ。

 それでも。

「それでも、絶対に失いたくない人がいます」


『その大事な一言は、いつかエステル様の前に現れる、誰よりも愛する大切な相手の為に、胸に仕舞っておいてください』


 瞑目すれば、叔父の困ったような笑みが、今も鮮やかに浮かび上がる。

(見つけました、叔父様)

 二度と現実にはならない幻に別れを告げるように目を開き、エステルは、クレテスの顔をまっすぐに見つめて、言った。

「クレテス、貴方です」

 少年が、驚きに目を見開く。

 ずっと相応しい言葉が見つからなかった想い。これは恋だ。これまでの戦いで常に見守っていてくれた少年に、自分はいつの間にか焦がれていたのだ。いや、本当は、裏山で迷った幼いあの日、手を引いて歩いてくれたあの背中を見ていた時から、特別な感情を抱いていたのかもしれない。

 少年からの返事は無い。拒絶されるかもしれない。これで心地良い幼馴染関係が破綻するかもしれない。それでも、明日生命が失われるかもしれない事実を前にした時、どうしても伝えねばならないと、そう思ったのだ。

 クレテスの顔を直視していることができず、面を伏せる。と、エステルの手より一回り大きい手が、そっと顎に触れ、顔を上げさせて。

 一瞬、柔らかい感触が唇に触れた。

「ずっと外にいると、風邪ひくぞ。決戦で総大将が体調不良じゃあ、全軍の士気に関わる」

 エステルが目を白黒させている間に、クレテスはクラウ・ソラスを鞘に納め、そして、すっとエステルの横を通り過ぎる。

「おやすみ」

 一言を残して、少年は中庭を去りゆく。残されたエステルは、呆然としながら唇に手を当てる。

 ここに触れた感触は、熱を持っていた。これは一体どういう意味だろうか。彼も想いに応えてくれたのか。諦めろという宣告代わりの挨拶だったのか。それとも、何か他の意味を持っているのだろうか。

 先程以上に心拍数が上がり、全身が火照ってゆく。

(これじゃあ、明日まともに顔を見られないじゃないですか!)

 とうとう気恥ずかしさが勢い余り、エステルは両手で顔を覆ってその場に屈み込む。

 月だけが彼女の激しい動揺を見守って、大陸史に残る一大決戦前の夜は更けてゆくばかりであった。

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