第6章:桜色の舞う中を(4)
三月下旬の薄明前。
まだ肌寒いハンイットの街は、不気味な静けさの中にあった。
民は家にこもって玄関の鍵を閉め、いつ帝国兵が抜き身の剣を手に窓を叩き割って入ってくるか、まんじりとしない夜を過ごす。街を巡回する帝国兵も、いつどんなきっかけで、将であるセルデの不興を買って処刑されるか、気が気でない日々を送り、心労と寝不足から血走った目をしていた。
そんな暗がりの中、最初に異変に気づいたのは、裏通りを歩いていた帝国兵だった。地下に繋がる水路の近くで、炎の灯りが揺れたように見えたのだ。
こんなところに人がいるのか。度重なるセルデの無慈悲な命令で家を焼かれ、住む場所を失った民が、生き残る為に雨風をしのいでいるのだろうか。奥を覗き込もうとした時。
「はい、そこまで」
軽い調子の少年の声と共に、首筋に手刀を食らって、兵はその場に崩れ落ちる。
「目が覚めたら全部終わってる事を、祈っててくれよ」
遠ざかる意識の中、自分の脇を複数の足音が通り過ぎてゆくのを、兵は聞いた。
その頃、街の六カ所で同時に、厳選された解放軍の戦士達が地下水路を抜けてきて、ハンイットに突入した。街の外に大軍の姿を見せなかった彼らは、各個で街を巡回する帝国兵を無力化してゆく。
自室ですやすやと眠るセルデのもとに部下が飛び込んできたのは、そんな頃だった。
(クラリス達が、やってくれた)
飛び起きた彼女が最初に抱いたのは、その思いだった。だが、安堵の気持ちはすぐに、身の内に湧いた黒い意志の憤怒に取って代わられる。
「あの小娘共、本当に面倒な事をしてくれたね!」
魔女の人格が目覚めたセルデは、途端に鬼の形相に変わり、ぎりりと歯噛みすると、憂さ晴らしに、報告に来た兵に向かって手を突き出す。烈風が駆け抜け、不運な兵は全身を切り刻まれて崩れ落ちた。
それをへらりとした表情で見届けた後、彼女は悠々と着替えを始める。三十路を辿ってなお美しい肢体を強調する服に着替え、化粧を施すと、靴のヒールを鳴らし、廊下へと出た。
反逆者を迎えるに相応しい場所へ向かって。
同志が街の帝国兵を無力化したのを受け、駐留所の地下に繋がる水路から突入したエステル達は、所内の敵兵達と斬り結び、倒しながら進む。
「セルデ将軍は!?」
斬りかかってきた兵の剣を弾き上げ、徒手になった相手の鳩尾に体当たりを食らわせて気絶させると、エステルは後ろをついてくるクラリスに問いかける。
「見晴台です!」剣士ピュラに護衛された少女は、はっきりと言い切った。
「『私が解放軍を迎え討つ時は、ここに立つ』と、将軍はよくおっしゃっていました」
その言葉を信じ、クラリスの記憶力を頼りに駐留所内を駆け抜ける。頭脳は秀でているものの戦う術を持たないクラリスを守りながらの進撃だったが、ピュラは歴戦の戦士も顔負けの立ち回りを見せ、少女に敵兵を近づけさせない。その後から、クレテス、ケヒト、セティエ、ティム、エシャら他数人が続く。
見晴台への階段を一段飛ばしで駆け上る。その先には、地平線の向こうに昇り始めた太陽の薄明かりを背に負って、蠱惑的な格好に身を包んだ一人の女性が、エステル達を待ち受けていた。
「来たか、来たか。裏切り女王のクソガキが」
普通にしていたら美しいはずの顔に歪んだ笑みを張りつけたセルデは、クラリスに視線を向けると、忌々しそうに吐き捨てる。
「おっ死んで欲しい小娘。お前が逃げおおせたおかげで、余計な手間がかかっちまったじゃあないか」
「……セルデ将軍」
魔族ニードヘグの術を受けていると聞いた。言葉は意味を成さないかもしれない。そう思いながらも、一縷の望みを託し、エステルは進み出て、セルデと十歩ほどの距離を残したところで立ち止まる。
「ハンイットは私の仲間達が制圧しました。貴女が私達と戦う理由はありません。貴女のお兄様も望むところではありません」
そうして、アルフォンスから預かっていた輝きを、セルデに向けて放る。薄い太陽光を受けてきらきら煌めくそれを、セルデは怪訝そうな表情で受け取り、そして、わずかに驚きの色を浮かべた。
桜をあしらった金の指輪。それが彼女の兄との符丁である事は、エステルも弟から聞いた。これで正気に戻ってはくれまいか。
エステルの希望はしかし、指輪が床に叩きつけられる軽い音と共に砕かれた。
「ちゃちな玩具で揺さぶりをかけようってのかい? 脳天気だねえ」
くしゃ、と靴先で指輪を踏みつけ、セルデは嗤う。
「こんな小手先であたしをどうこうできると思ってる連中に、あの男は負けたんだ。そんなへなちょこが兄かと思うと、鳥肌が立つよ!」
失敗した。それを悟った時には、セティエとティムがエステルの両脇を駆け抜け前へ出て、魔法の障壁を張っていた。そこに烈風が吹き荒れ、無数の風の刃と障壁がぶつかり合い、金属じみた音を立てる。
「エステル、下がれ!」
クレテスが一声と共にクラウ・ソラスを抜き放って魔女に斬りかかる。後方からケヒトが矢を放って援護する。
セルデは鬱陶しそうに舌打ちすると、雷光を鞭の形にして矢を叩き落とし、クレテス目がけて振り払う。クレテスは聖剣の横腹で攻撃を受け流し、更に一歩を踏み込んだ。セルデが身を引くより早く繰り出された刃が、魔女の腕をかすめる。
「貴様ァ!」セルデが獣のように吼えた。「あたしの! あたしの肌に傷を!!」
烈火のごとき怒りと共に、雷の鞭が三叉に割れる。不意を突かれたクレテスは身をかわしきれず、うち一本が強烈に彼の顔を叩いた。鞭の衝撃と、電撃の痛みで、少年が歯を食いしばって二、三歩後退する。エステルの心臓も、締めつけられるほどに痛む。
だが。
「ありがとう、クレテス」後方で腕組みしていたエシャラ・レイが、にやりと笑った。「喉の調整の時間稼ぎには充分だ」
フォモールの王は腕を解くと、すうっと肺一杯に空気を吸い込み、朝の訪れを告げる太陽に照らされながら、力持つ歌を声高に解き放った。
目覚めよ 天に愛されし 子供らよ
その身に下る 聖なる啓示は
己の足で 大地踏み締め
己の両手で 草をかき分け
己の意思で 生きてゆく事
闇を退け 光に目覚め
進めや進め 信じる道を
目覚めよ 地に祝福されし 子供らよ
魔法じみた効力を持つフォモールの歌は、見晴台に朗々と響く。
すると、セルデに明らかな変調があった。
「う、うう……」
頭を両手で抱え、よろめきながら呻く。その身体から、黒い靄が、けたけたと笑い声をあげながら煙のように立ち上ってゆく。
「ここでも暗示術!」
セティエが叫んで、火力を抑えたメギドフレイムを放つ。かつてユウェインに取り憑いていたものとほぼ同じ靄は、炎の前にじゅわっと音を立てて消えた。
がくりと膝をついたセルデのもとに、エステルはゆっくりと近づいて、見下ろす。ニードヘグの術は解けたはずだ。もうこれ以上の戦いは本当に必要無い。それを告げようとした時。
がばり、と。
セルデが歪んだ笑みを浮かべる顔を上げ、右手を掲げた。そこに魔力の風が集まるのを感じ取り、エステルは反射的に剣を構える。
その、向けられた刃に。
飛び込むように、セルデは己の胸を貫かせた。
「……セルデ様?」
エステルが声をあげるより先に、事態を見守っていたクラリスが、呆然とその名を零す。セルデは、それまでの狂える魔女のあくどさが嘘のような、慈愛に満ちた笑みをエステルに向けると、刃から己の身を引き抜き、あおむけに倒れていった。
「セルデ将軍!?」「セルデ様!」
床に赤い花を咲かせてゆく彼女の両脇に、エステルとクラリスが膝をつく。セルデはこぽりと血の塊を吐くと。
「これで、良いんです」
と、儚げに微笑んだ。
「クラリスの、策を、成就させるには、私が、エステル王女に、討たれなければ、ならない」
それに、と小さく洩らして、彼女は苦しい息の中続ける。
「魔族の術に、かかっていたとはいえ、私は、人を殺しすぎた。そんな妹が、生きていれば、兄ゼイルの、聖騎士としての、名誉にも、関わります。私の死で、兄に向きそうな、非難の矛先を、逸らす事が、できれば」
彼女はそこまで考えていたのか。驚嘆の大波がエステルの胸に訪れる。
「そんな」
クラリスの両目から、ぽたぽたと涙が零れ落ちる。
「わたしのせいで。わたしがこの策を立てたせいで、セルデ様を」
その言葉に、セルデは弱々しく首を横に振り、震える手を、少女の頬に添えた。
「これは戦争よ、クラリス。貴女の策は、千を殺すけれど、万を救える。犠牲が
クラリスははっと目を見開き、両手でセルデの手を包み込むと、「……はい」と涙声で答える。
将軍は満足そうに微笑み、「指輪、を」と、空いている方の手で床をまさぐる。エステルは弾かれたように朝焼けの下を見回し、踏みつけられてひしゃげた桜の指輪――ゼイルのものだ――を拾い上げた。
それをセルデの手に託すと、「……ああ」と彼女は恋を知った乙女のように幸せに満ちた笑みを浮かべ、己の右手の薬指の指輪と、こつり、突き合わせる。それからエステルの方を向き、はっきりと言った。
「兄を、よろしくお願いいたします」
「わかりました」
エステルが深々とうなずくのが、終わるか終わらないかのうちに、指輪がころりと再び床に転がる。かつては心優しきグランディアの魔道士として、その後は恐るべき魔女として名を馳せた将軍は、新しい朝日が昇るのを見届けないまま、永遠に時を止めた。
夜が明けきらぬうちに、ハンイット解放戦は、静かな終息を迎えた。
報せを受け、テュアンの護衛を受けながら早馬を飛ばしてきたゼイルは、二つの指輪をエステルから受け取ると、
「ありがとうございました、王女殿下」
あらゆる感情を冷静の下に封じ込め、嗄れた声で、かろうじてそれだけを紡ぎ出し、低頭した。
街に駐留する帝国兵のほとんどは、ゼイルの部下達のように、セルデを慕ってレディウスに煙たがられ、汚れ役を押しつけられた者達であった。
「グランディア本土に入っても、帝国は一枚岩ではないのですね」
セルデを慕う者達が、彼女の葬儀を営む為に奔走しているのを、駐留所の一室から眺めながら、エステルはお茶を運んできたクレテスにぽつりと洩らす。
「そりゃそうだろ。帝国の支配は搾取と虐殺の恐怖政治が基本だ。押さえつける蓋が無くなれば、不満は一気に噴き出る。
たしかに、解放軍にも何度か、瓦解の危機はあった。今思えば、エステルの感情だけで事を押し通してきた場面もある。それでも、これだけの戦士がついてきてくれたのは、奇跡に近かったのだ。
そう、誰もが信じてくれた。エステルが帝国に勝つ奇跡を。信じて戦い続けてくれている人。信じながら逝った人。あるいは、信じる事をやめてしまった人。全ての人の期待に応えねばならない。
だが、今は。
「ごめんなさい」
エステルは顔をうつむけ、紅茶を出してくれたクレテスの服の袖をきゅっとつかむ。
「エシャの歌を成功させる為だったとはいえ、また貴方を、危険な目に遭わせてしまった」
「だーかーら。謝るなって何度言えば」
「叔父様がいなくなって」
眉間に皺を寄せる少年の言葉を遮って、少女は続ける。
「貴方までいなくなったら、私はどうすればいいかわからないんです」
明らかに相手が動揺する気配が伝わる。こんな事を言って、困らせるだろうとはわかっている。それでも、これ以上身近な人を失いたくはない、というエステルの気持ちは強くなる一方だ。ことこの少年に関しては。
この気持ちを何と呼ぶのか。エステルは知らない。浮かぶ言葉はあるが、本当にそれなのか、はっきりとはわからないし、きっと誰も正解を教えてはくれない。本人に訊くのは気が引ける。更には自分の心情を告げる事で、「迷惑だ」と突き放されたら、彼が自分を何とも思っていないとわかったら、という気後れもある。
下を向いたまま、相手の顔を見られずにぷるぷる手が震える。すると。
「大丈夫だ」
ぽん、と大きい手がエステルの頭に乗せられ、くしゃりと撫でられた。
「おれはいなくならない。最後までお前の傍にいる。必ずだ」
力強い言の葉に、心臓がとくんと脈打つ。きっと彼なら大丈夫だという安心感が、わずかながらも憂慮の波を押し返してくれる。今はそれが、何よりも温かい光となって、エステルの心を静めてくれるのであった。
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