第6章:桜色の舞う中を(3)

 ハンイットの街には、張り詰めた空気が漂っていた。

 見回りと称して帝国兵が闊歩し、民は家に籠もって、彼らが武器を手に乗り込んでこないよう、聖王神ヨシュアに祈りを捧げるばかり。

 まるで死の国のように静まり返る街を、魔道士然とした女が、駐留所の見晴台からたおやかに見下ろしていた。緩く波打つ灰褐色の髪を背に流し、身体の線を強調する紅の衣装をまとったその姿は、三十代という実年齢より若々しく、魅力的に見える。

「セルデ将軍」

 悠然と街の様子を見渡す彼女の背後に、一人の帝国兵が立ち、恭しく頭を下げた。

「申し訳ございません。昨夜逃げた者達の足取りを見失いました」

 途端。

「ああん?」

 女――セルデ・ゲルマンの唇が醜く歪んだ。眉間に縦皺を入れた顔で、やおら彼女は兵を振り返る。それまで美しかった面差しが、悪鬼のごとく変わる。

「たかが鼠二匹だろう? そんなのも捕らえられないなんて、お前らは猫以下の無能か?」

「も、申し訳ございません! ですが」

 上官に睨みすえられ、しかし何とか言葉を継ごうとした兵の顔を、魔女の長い爪を有した手ががしりとつかむ。

「『ですが』何だ? 無能のくせに、その上言い訳でもしようってのか?」

「ひっ! お、お許しを……!」

「駄目だね」

 恐怖に目を見開く兵に向けて、セルデは酷薄な笑みを浮かべ、目を見開いた。

「命乞いとしても三流だ!」

 春先のうららかな気候を零下に引き戻しかねない、断末魔の悲鳴が響き渡り、後には、静寂が残る。

 ぽたり、ぽたり、と。長い爪を伝う赤が、見晴台の床に零れる。烈風の刃でずたずたに斬り裂かれて絶命した兵の死体をごみのように放り出し、セルデはしばらくの間、空を仰いで引きつるような笑いを垂れ流していたが、不意にそれが止むと。

「あっ、ああ……」

 血濡れの己の手を見つめ、恐れから来る震えで全身をわななかせる。そこには、最前までの魔女の狂気は見受けられない。

 彼女は逃げるように見晴台を走り去ると、自分に与えられた部屋まで一目散。ベッドに飛び込み、リネンが赤く染まるのも構わずに、枕を頭からかぶって、がたがたと震える。

「助けて、助けて。ゼイル兄さん」

 さながら、嵐の夜に怯える子供のごとく、庇護を求めて彼女は繰り返す。

「お願い。間に合って。クラリス、ピュラ」

 魔女の自分が眠りについている間に送り出した、希望の名を口にする。彼らがハンイットを、自分を救ってくれる事を、心から願って。

 枕をつかむ右手の薬指では、桜を模した金の指輪が、儚げに光を放っていた。


「二重人格?」

「はい」

 主立った戦士を集めて開かれた軍議の場で、少女クラリス・フェイミンは、衆目の前で怖じ気づきもせず、エステルの問いかけに力強くうなずいてみせた。

「セルデ将軍は、元々は穏やかでお優しい女性でした。それが、魔族ニードヘグに術を受けてから、時折、ひどく残忍な性格に豹変し、兵や民を処刑するようになったのです」

「ここでもニードヘグかよ」

 ブレーネ砦での遭遇を思い出したか、クレテスが苦々しい表情で頭を振る。そんな彼をしばらく見つめた後、クラリスは続けた。

「セルデ様ご自身に、人格が入れ替わっている間の記憶はあるそうです。将軍は、私達にもその悩みをお話しくださいました」

 自分の意思に反した行動を取る自分を御する事ができない結果、虐殺を働く。その苦しみは、本人にしか計り知れない。非道な振る舞いを行う魔族に、エステルの中でも怒りが渦巻く。

「セルデ将軍を救う術は、無いのですか」

「その為に、エステル様がたのお力をお借りしたく、正気の時のセルデ様が、私とピュラをハンイットから逃がしてくださいました」

「まあその後、魔女になって怒り狂った本人に、追手を差し向けられて、こいつを守りながら死に物狂いで逃げたんだがな」

 それまでクラリスの後方で黙り込んでいた剣士ピュラが、まいった、とばかりに両手を挙げて肩をすくめる。喋らないので、無口で武骨な護衛なのかと思っていたが、軽い口調から察するに、単純に、話すのをクラリスに任せきっていただけのようだ。

「ハンイットに正面から戦を仕掛けては、魔女と化したセルデ将軍が、民を皆殺しにかかります。そこで」

 クラリスがそれまで丸めて手にしていた地図を、テーブルの上にばっと開く。そこには、ハンイットの街図に重なるように、細い道がびっしりと描き込まれていた。

「街の地下に張り巡らされた水路を辿って、ほぼ同時に要所要所をおさえてゆけば、帝国兵の動きを封じる事が可能です」

「それはセルデ将軍が考えたのですか?」

「いいえ、わたしです」

 何気無く投げかけた問いに、クラリスがきっぱりと答えたので、その場にいる誰もが驚いてしまう。まだ幼いとも言える少女に、電撃作戦を考えるだけの才能があるのか、と。

「クラリスは王国軍師だったムスタディオ・シュタイナーの孫だからな。これくらい朝飯前ってこった」

 ピュラがあっけらかんと笑って、もう二人のムスタディオの孫を見やる。当人であるクレテスとケヒトは目をみはり、お互いの顔と、突然現れた従妹を、交互に見やった。

「わたしは、二八二年の政変後に生まれましたから、お二人がわたしをご存じなくても当然です。わたしは、ユウェイン様からお二人の事をお聞きしていましたが」

 きらきらと輝くような目で、クラリスはシュタイナー兄弟を見つめる。その熱のこもった眼差しに、エステルは何故か居心地が悪くなり、斜め向かいではラケが眉間に皺を寄せて、心中複雑そうな表情を浮かべていた。

 少女達のもやもやした気持ちは、本人達の他に誰も知る事が無い。エステルは気を取り直して、クラリスに質問を続ける。

「どの道を通れば最短かつ迅速に、被害が少なく制圧できるか、貴女には策があるのですね」

「はい、お任せください」

 クラリスは胸に手を当て、誇らしげに己の頭を指で小突く。

「通るべき地下水路、必要な兵の数、陽動の規模。机上での計算は全て終えて、ここにあります」

 エステルはじめ、誰もが言葉を失って少女に注視してしまった。エステルの祖父アルベルト王に従っていた軍師ムスタディオ・シュタイナーは、稀代の天才と呼ばれていたが、その血を継ぐ者達はことごとく優秀なのだろうか。

 だが、当然と言えば当然の声が、軍議に参加している戦士達の中からあがる。

「しかし、セルデの手の者をそう簡単に信じて良いのか?」

「わざわざ顔を見せる事で、油断を誘うつもりじゃあないのか」

 それを聞いたクラリスが表情を曇らせ、ピュラが小さく舌打ちする。目の当たりにしたエステルの胸もちくりと痛む。

 だが、同じ事はカレドニアでもあった。エステルは凜と顔を上げ、一同を見渡しながら口を開く。

「疑ってばかりでは、先へは進めません。更なる犠牲を生む可能性も高くなります」

 今は亡き、ジャンヌ王女。結果として彼女を失ってしまったが、彼女の真摯さを信じると決めた自分の判断に、間違いは無かったのだ。だから今度も、目の前のこの少女を信じたい。その後ろに立っている、セルデの本心を信じたい。

「クラリス」

 名を呼ばれて、少女が顔に緊張を満たし、背筋を正す。栗色の瞳を見つめながら、エステルはきっぱりと告げた。

「貴女と、貴女の策を頼りにします。私達を導いてください」

 クラリスのつぶらな瞳が更に真ん丸く見開かれる。それから、少女の口元が、じわじわと喜びの笑みを帯び。

「ありがとうございます。お任せください!」

 テーブルにぶつけるのではないかという勢いで、彼女は頭を下げるのであった。

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