第6章:桜色の舞う中を(2)
三月十八日。ベルグラードを出立してアラディア大橋を渡った解放軍は、遂にグランディア帝国領内に足を踏み入れた。十七年ぶりに帰ってきた王国騎士達、そして故郷の記憶の無い彼らの子供達にとっても、トルヴェールからここまでの一年を思えば、感慨を抱かずにはいられないものがある。
グランディア皇都アガートラムまでの道程で、残る大きな障害はあと二つ。聖騎士ゼイル・ゲルマンが守るクロイズ砦と、その双子の妹である魔道士セルデ・ゲルマンの陣取るハンイットの街である。
かつてミスティ女王を慕っていた兄妹は、堕落した将軍の多い帝国軍の中でも凜とした態度を守り通し、いまだ民の人望も厚いという。できれば倒したくはない。
何とか説き伏せて刃を収めさせる事はできまいか。軍議でそれを口にしたエステルに、「無理だね」と返したのは、テュアンだった。
「あいつらの義理堅さと頑固さはあたしもよく知ってる。ワイザーと一緒だ。ミスティに忠義を感じているからこそ、帝国の現状を憂いて、離れる事ができない。もし、人質でも取られているなら尚更だ」
あくまで冷徹に語る彼女の腰には今、二振りの剣がたばさんである。元々愛用していた長剣、そして聖剣『
『一介の傭兵ごときが、女王の祝福を受けた聖剣を振るうなんて、とんでもないだろうけど』
彼女は自嘲気味に笑ったが、エステルは彼女を蔑みはしなかった。
この女剣士が叔父をどう思っていたか、わからない年齢ではない。それに、彼女が聖剣を手にして叔父の分まで共に戦ってくれるならば、望むべくも無い事であった。
クロイズ砦を守るゼイルの手勢は千。数だけ比べれば解放軍の方が圧倒的有利だ。しかし、今回は帝国内を守る正規兵の集まりである。今までの将軍のように、圧政で民を苦しめ、自らは享楽に耽っていた、堕した連中ではない。更には、グランディア王家に忠誠を誓い、亡きミスティ女王の聖騎士としての誇りを今も貫くゼイルの存在が、士気を高めている。
「エステルは、とにかく地上の弓兵を払ってくれ」
それまで、軍議では聞きに徹していたアルフォンスが、珍しく作戦について口出しをしてきた。
「空の道が開けたら、『銀鳥隊』が飛ぶ。王族が姿を見せれば、ゼイル将軍も話にくらいは応じてくれるだろう」
「ですが、それでは」
将軍がいるだろう敵陣深くへ乗り込むアルフォンス達が危険にさらされる確率が高くなる。エステルは眉をひそめたのだが。
「この期に及んで、アルフォンスを信用してない奴もまだいるって事だよ」
クレテスがアルフォンスの横から低い声で告げてきたので、思わず目をみはってしまう。
「ガルドで加わった連中と、カレドニア兵の間には、まだ遺恨もある。全員が全員、アルフォンスをお前と同じ立場だとは思ってないのさ」
「クレテス、貴方ももしかして、まだ」
不安を覚えて問いかければ、少年は蒼の瞳を細め、アルフォンスを指差す。
「まあ何しろこいつには、カルミナで殺されかけたからな」
遠慮会釈も無く、そんな前の事を持ち出すのかと、エステルは更に目を真ん丸くした。が、クレテスの口元には、不敵な笑みすら浮かんでいる。それを受けたアルフォンスも、腕組みして、悪戯っぽく笑ってみせた。
「君のそういうところ、嫌いじゃあないよ、クレテス」
少年二人はお互いを見つめ合って吹き出すと、揃ってエステルに向き直る。
「そういうわけで、将軍の説得は任せてくれ、エステル」
「だ、そうだ。お手並み拝見といこうぜ」
すわ一触即発か、と速まっていた心臓が、落ち着きを取り戻してゆく。弟と幼馴染には、一人で緊張した分縮んだ寿命を返して欲しい。エステルは肩を落として深々と溜息をつき、それから、何とか表情を繕った。
「わかりました。お願いします、アルフォンス」
クロイズは、三百年前の聖王ヨシュアが魔王の支配から大陸を解き放った聖戦争の際に築かれた砦である。弟ノヴァ、竜王ヌァザ、英断魔将リグの四英雄のもとに戦士達が集った際、当時魔王イーガン・マグハルトの本拠であった魔都アガートラムを攻略する足がかりとして、また、人類最後の希望として、攻めるに固く、守るに易い要塞を造った。
深い堀に囲まれた三重の防壁の上には
「状況はどうだ! 怪我をした者は遠慮無く下がれ!」
まだ三十の齢を越えたばかりの聖騎士ゼイル・ゲルマンは、防壁に昇ると、火消しに奔走する兵一人一人の様子を見ながら声をかけて回った。
「将軍、ここは将軍がいらっしゃるような場所ではございません!」
「どうか砦内にお戻りください!」
将の登場に、途端に兵達が慌てふためき、何とか彼を屋内へ戻そうとする。しかしゼイルは苦笑すると、ゆっくりとその場に居合わせる部下達の顔を見回した。
「この戦いは、大陸の命運を決める一戦だ。俺一人安全な場所にいて、お前達に『死ね』と命じるような戦い方はしたくない」
最早二十年近く前。
しかし、その矜持は三年とせずに呆気無く打ち砕かれた。彼もまたデヴィッド・ルースのように、拠るべき光を見失い、混迷の洞窟の中を彷徨い歩いてきた騎士の一人だったのだ。
だが、煩悶ももうすぐ終わる。そんな彼の予想は、銀色の幻鳥の姿を取って、彼の前に舞い降りた。
「ゼイル・ゲルマン将軍は、いるか!」
敬愛したランドール将軍にどことなく似た声が、ゼイルの耳朶を叩く。陽光を受けて輝く銀色の翼を操る騎士を見た時、彼は、十七年前に時間が巻き戻ったかのような錯覚を抱いた。
金色の髪、ロイヤルブルーの瞳を持ち、幻鳥を操る少年。ランドール将軍の若い頃にあまりにもよく似ている。その手で聖王槍ロンギヌスが青白い光を放っていなければ、亡き人の名を叫びながら、立場も忘れて泣きついていただろう。
しかし、ゼイルは理性的な人間であった。各々の武器を手に集まってくる部下達を制し、一人、少年の前に進み出ると、ごく自然に片膝をついて頭を垂れ、少年の名を呼んだ。
「アルフォンス王子殿下……」
上官のその言葉に、周りの兵士達も慌てふためく。ある者はゼイル同様ひざまずき、ある者は剣を向けて良いのか惑い、周囲の様子をうかがっている。
「貴方が、ゼイル将軍か」
十数騎の
「貴方には、この戦いの無意味さがわかっているだろう。王家に忠誠を捧げてくれた貴方が我々と敵対する事で、得をするのは帝国だけだ。どうか、我が姉エステル王女の名のもとに、騎士として誇りある戦いをして欲しい」
王子の一言一言が、鐘を鳴らすようにゼイルの胸に響く。それができたら、どんなにか良いだろう。正統なる王家の旗の下で、聖騎士として戦いに加われたら、どんなにか誇らしいだろう。
しかし、彼には、それができない理由があった。どんなに望んでも覆らない、残酷な命令が、彼を縛っている。
「お許しください、殿下」
だからゼイルは、更に低頭するしか、王子の深意に応じる術が無い。
「俺もお二方のもとで戦えたら、これ以上無い僥倖にございます。ですが、俺にはどうしても、帝国を離れられない理由があるのです」
アルフォンスが息を呑む気配が伝わる。昨年の秋にカレドニアで起きた戦いの顛末は、帝国にいるゼイルの耳にも、同志を通じて入っていた。目の前のこの王子なら、何が自分の枷になっているかわかってくれるだろう。
そう信じて、右手の小指にはめていた指輪をそっと抜き取る。春に咲く桜をあしらった金の指輪は、騎士になった時、今は亡き両親が祝いにと作ってくれた、グランディアでは自分と妹しか持たぬ品である。最初は中指にはめていたが、あの頃より手が大きくなってしまったので、小指にしか入らなくなってしまった。
「これを、ハンイットにいる、我が妹セルデにお渡しください。それで全てが通じるように、我々は約束を交わしております」
王子が神妙な顔をして、指輪を受け取る。それを見届けたゼイルは、背後の部下達を振り返り、「降伏の白旗を揚げろ!」と声を張り上げた。
「この負け戦の責任は俺が一身に引き受ける! お前達は解放軍の傘下に入れ!」
言うが早いか、ゼイルはすっくと立ち上がり走り出す。そして、アルフォンスが止める間もあらばこそ、防壁の上から、何も無い空中へと身を躍らせた。
「将軍!」「ゼイル様あー!」
兵士達の絶望の声が聞こえる。彼らはこんな愚かな将でも慕ってくれたのか。その幸せを噛み締めながら、後は地に叩きつけられ、命が終わるのを待つばかりだった時。
ぼふん、と。何か柔らかいものが自分の身を受け止める感触がして、彼は閉じていた目を開き、視界一杯に広がる青空を見上げて、ぽかんと口を開けた。
「間に合いましたね」
若い女性の声が聞こえたので、視線を転じれば、安堵半分呆れ半分といった表情をした、薄紫の髪の
敵将を死なせる事無く、クロイズ砦は制圧された。
「ただ殺すのではない戦いを」と求め続けた『優女王』ミスティの子らの帰還に、砦を守っていた兵士達も感服し、ゼイルの言葉通り、解放軍に加わる事を受け入れた。
エステルが実際に会って話を聞いたところ、彼らの多くは、旧王国に恩義のある者、帝国へ不信感を抱いていた者で、一兵も退く事を許されずにこの戦いへ送り出されてきた事がわかった。中には、ゼイルの裏切りを報告する為に帝都へ戻ろうとする、生粋の帝国兵もいたが、そういう輩は、砦を抜け出す前にクリフ達密偵が片端から捕らえ、牢屋へ放り込む事に成功した。
アルフォンスの行動も解放軍内で評価され、彼を疑う者は、少なくとも表面上からは消えた。
「我々は、レディウス皇子に脅されていたのです」
将の執務室で面会したゼイルは、エステルとアルフォンスに語った。
「俺がクロイズを守り、セルデはハンイットを制圧する。もし片方が裏切れば、片方を、兵や民ごと皆殺しにする、と」
つまり、互いを人質に取られていたわけだ。ガルドのトレヴィクのやり口を思い出すと同時に、
『貴女はそうなんだ! そういう方が嫌なんだ!!』
と、嬉々として叫んでいたレディウスの顔が、エステルの脳裏に浮かぶ。彼は、自分が傷つくより他人の命が奪われる方が、エステルの心を殺す事ができるとわかった故に、この布陣を敷いたのだ。
だが、彼の目論見の半分は潰した。残り半分、セルデにゼイルが解放された事をすぐにでも伝えなくては、ハンイットの無辜の民の命が失われてしまう。どうすべきか考えあぐねた時。
「エステル、いいか」
テュアンが扉のノックもそぞろに、執務室に入ってきた。その後ろには、二人の見知らぬ男女を連れている。
男は、二十代前半の剣士のようだ。背が高く、身体には適度に筋肉がついていて、白みの混じった薄茶の髪をうなじで結って肩に流している。青灰色の瞳は、一見親しげに細められているが、こちらに隙があれば斬りかかる事も辞さない鋭さを帯びていた。
女は、女性と呼ぶには若すぎる、まだ十三、四歳ほどの少女だった。短めの栗色の髪と、同じ色の瞳を持ち、緊張した面持ちでこちらを見つめている。
「はじめまして、エステル王女様、アルフォンス王子様」
少女が胸に手を当て、恭しく低頭する。彼女の方が口を開くとは、彼女に主導権があって、剣士は少女を守る役目を負っているだけなのだろうか。エステルがアルフォンスと疑問顔を見合わせる間にも、少女の口上は続き、二人は驚きに目を見開いて、再度少女を見る羽目になった。
曰く。
「わたしは、クラリス・フェイミン。こちらはピュラ・リグリアス。セルデ・ゲルマン将軍の遣いとして、お二人のお力添えをいただきたく、密かに参りました」
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