第5章:恐怖は紫闇の形を取りて(8)
聖剣士アルフレッド・マリオスが、レディウス皇子の急襲からエステル王女を守って落命した話は、夜明けを待たずに解放軍の誰もが知るところとなった。
「遺体は見せられない状態だから」という建前で、残された腕だけが棺に入れられ、翌日の昼には、ベルグラード外れのアラディア大河を臨む墓地に葬られた。事実は、トルヴェール村で育った仲間達だけが知るところとなり、誰もが、信じられないと顔面蒼白になって、リタは「何で!」と激昂して拳を壁にめり込ませた。
解放軍の中でも上から数えた方が早い実力を持つ聖剣士さえ、敵の首魁に敵わなかった事実に、戦士達は震え上がり、離脱を申し出る者が続出する。
エステルは敢えてそれを止めなかった。
「レディウス皇子の前には、人間の力は及びません。本当に戦う覚悟のある者だけ、この後の戦いもついてきてください」
戦士達全員の前に姿を見せ、凜とした声で告げる彼女の左足には、包帯が巻かれている。回復魔法で傷口は塞がったが、わずかな痛みと、痣が残ったのだ。それは、同じ攻撃を食らったクレテスやアルフォンス、テュアンも同じであった。
「側近が死んだのに平然としている」
「いや、それでも盟主であろうと毅然と立たれているのであろう」
あくまで淡々としたエステルの態度に、戦士達の間でも正反対の意見が飛び交い、不信を深める者と、更に忠誠を積む者とに分かれる。解放軍内の分裂。それこそレディウス皇子の狙いである事を正しく知る者は、軍を離れる者より多くはなかった。
「何で……何でだよ、アルフ」
涙混じりの声が、わずかに開いた扉の向こうから聞こえてきて、アルフォンスは思わず廊下を進む歩を止めた。女性の部屋を覗き見るのは不調法と知りながらも、隙間から様子をうかがえば、テュアンがベッドの上で膝を抱えている。聖剣『
「もう少しで、グランディアに帰れたのに。ミスティとランディの仇が討てたのに」
顔をうつぶせて身を震わせている事から、今、彼女が吐露している感情は推して知るべし、だ。
「あたし一人で、三人分も戦えってか? 一人で酒を飲めってか?」
後はもう言葉にならず、ただひたすらに、もう届かない友の名を呼ぶばかり。彼女が叔父とどういう関係であったかは、他人の心の機微に聡いアルフォンスには、痛いほどよくわかる。いたたまれなくなって、部屋を離れると。
「……アルフォンス兄様」
今にも消え入りそうな声が耳朶を震わせたので、もう一度立ち止まって振り返る。ファティマが、菫色の瞳を潤ませ、必死に唇を引き結んでいる。
そう、初めてアルフレッドと挨拶をした時、義妹は確実に彼の未来を『視た』顔をしていた。あの時自分が彼女を問いただしていたら、この結末は避けられたのだろうか。
「わたしは、何もできませんでした」
義兄の心中も察している、とばかりに、ファティマはぽつりと洩らす。
「わたしの力は、ただアルフレッド様の最期を『視た』だけで。それがいつどこで、誰の手によって訪れるのか、『視る』事ができませんでした」
ぽたり、と。ひとしずくが、石造りの床に小さな染みを作る。
「自分の目で現実を見つめたい、などと言っておいて、結局わたしは、何も」
それ以上は言葉にならず、少女はぼろぼろと涙を零しながらしゃくりあげる。こんな時、ノーデの屋敷にいたら、ジャスターが、「あらあら、お嬢様ったら、可愛いお顔が台無しよ」と笑って、貴重な着香茶を淹れてくれただろう。だが、彼はカレドニアに残してきた。茶も茶菓子も、出してくれる者はいない。
だからアルフォンスにできるのは、両腕を伸ばし、義妹の肩を優しく包み込んで。
「ファティマ」
と囁く事だけだった。
「君は何も悪くない。あの場にいた僕でさえ、レディウス皇子の前には歯が立たなかった」
聖王の血を濃く引き、幻鳥さえ操る自分は、他者より秀でている。その慢心は、少なからずアルフォンスの中にあった。レディウスの襲撃は、そんな彼の自尊心を嘲笑いながら完膚無きまでに打ちのめしたのだ。
「自分を責めないでくれ、ファティマ。君に泣かれると、僕は」
「ごめんなさい、兄様。ごめんなさい」
すがりつくように。涙声と共に背中に細い腕が回される。震える義妹の身体を抱き締める力を強くしながら、アルフォンスは己の無力さを、唇と共に噛み締めた。
戦士達の前での演説を終えたエステルは、大穴の空いてしまった部屋ではなく、新しくあてがわれた別室で、窓辺に立ってアラディア大橋を見つめていた。
『天気の良い日は、アラディアの対岸が見える』
ベルグラードの市民が言ったのだったか。それとも解放軍の誰かが仕入れてきた話か。たしかに、大河の向こうに、地平線らしきものが見える。あれがグランディアの大地か。
叔父は、帰りたかっただろう。両親や友人達との思い出が残る地へ。そして、国がどんなに荒れ果ててしまっていても、かつての美しき姿を取り戻す為ならば、その力を惜しまず振るっただろう。
だが、その夢はもう永遠に叶わない。ひとつ、溜息をついた時。
「エステル」
ノックの音と、呼びかける声が聞こえて、エステルは在室の応えをした。扉が開き、クレテスが室内に入ってくる。盆の上に茶器を揃えて、苺の甘酸っぱい香りが鼻腔に滑り込んだ。
「お前、あれから寝てないだろ。少し休めよ」
少年はそう言いながら、テーブルの上にカップとソーサーを置き、苺の紅茶を注ぐ。
「クレテスこそ、傷は大丈夫ですか」
「おれはお前より頑丈にできてるから平気だよ」
彼も肩に傷を負った。それなのに、こんな風に茶器を持ち運びして、後々響かないだろうか。心配げな視線を送りながら椅子に座り、カップを手に取る。その手が激しく震えているのに気づいたのは、カップがかたかたと鳴って、中の紅茶がどんどんテーブルに飛び散ったからであった。
「あ、あれ」
エステルは、自分でも訳がわからないとばかりに、中途半端な笑みを浮かべ、一旦カップをソーサーに戻そうとする。だが、手の震えは増すばかりで、上手くソーサーに乗せられず、しまいにはカップは転げ落ちて床に叩きつけられ、破片を撒き散らした。
「ごめんなさい。折角淹れてくれたのに。おかしいですね、どうしてこんな」
目に見えて震える手で破片を拾おうと身を屈める。が、その手は、破片に触れる前に、一回り大きい手に握り込まれていた。手首で
「……泣けよ」
耳元で囁かれて、エステルははっと顔を上げた。瑠璃と同じ深い蒼の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
「お前、全然泣いてないだろ。休めってのは、そういう事だ」
「泣いたりなんて」
「しないと、お前、壊れるぞ」
反論をぴしゃりと封じ込められて、返す言葉に詰まる。
「おれなんかじゃあ、頼りにならないのはわかってる。だけど」
一瞬視線を外し、蒼の輝きが、もう一度見すえてくる。
「今は誰も見てないんだ。全部吐き出せ。おれが、受け止めるから」
その表情で、その言葉で、彼が真摯にエステルを心配してくれている事がひしひしと伝わる。彼の不器用な優しさが、清水のように心に染み込んで。
つっと、一筋が頬を伝えば、後はもう止まらなかった。
爆発するように泣き叫んで、涙の流れるまま、エステルはクレテスの胸に取りすがる。
「叔父様が、叔父様が、もういない!」
「……ああ」
「もう、守ってくれない! 褒めてもくれない!」
「……ああ」
「世界のどこにも! 叔父様は、もういない!!」
「……ああ」
駄々っ子のように首を振って、悲しみを吐露すれば、髪に手が触れ、優しく梳いてくれる。かつてそれは、アルフレッドの役目だった。だが、彼はもういない。
穏やかに笑いかける笑顔も。厳しい物言いをする時の険しい表情も。エステルが手を煩わせた時に見せる困り顔も。傍らで剣を振るう真剣な眼差しも。母の面影を追っていたのだろう、どこか遠い場所を見つめているような褐色の瞳も。
全て、文字通り消えて無くなってしまった。
喉が嗄れて声が出なくなるまで。涙が涸れ果てるまで。
少女は喪失の悲しみを吐き出し続け、少年はただ静かに、それを受け止め続けた。
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