第5章:恐怖は紫闇の形を取りて(7)

『エステル』

 女性の声が聞こえる。聞いた覚えは無いはずなのに、懐かしさに胸が締めつけられる、優しい呼びかけだ。

『貴女達に何もしてあげられない、駄目な母親でごめんなさい』

 ひんやりとした手が頬に触れ、愛おしげに撫でる感触がする。

『貴女達を頼るしか無いなんて、本当にどうしようもない女王だったとわかっているわ』

 だけど。一拍置いて、声は続く。

『お願い。私にできない分まで、あの子を救ってあげて』


 覚醒は唐突に訪れ、エステルは眠りの底から現実に呼び戻された。駐留所の一室、ベッドの上に身を起こせば、窓の外に見える月は、少々眩しいくらいに輝いている。

 何か、夢を見ていた気がする。誰かに呼びかけられている夢。それが誰なのかはわからず、詳細を思い出そうとすればするほど、記憶は薄まってゆく。だが、胸の疼きと、慈しむような手の感触は、頬に残っている。その残滓を確かめるように、己の頬に手を当てた時。

 ふっと。月がかげり、室内が暗くなった。雲が差したのだろうか。再び窓の方へ視線を投げかけたエステルの視界に、最前までいなかった人影が、窓枠に腰掛けているのが映り込んだ。

 急に冷気が流れ込んだかのように、室内の気温が冷え込む。闇の中で、紫の双眸がまっすぐにこちらを見すえているのがわかる。

「こんばんは、『姉上』」

 明らかにこちらを見下した声色で、影が喋った。自分を姉と呼ぶはずの存在は、この世に二人しかいない。しかし、一人は対等に名前で呼んでくる。ならば、この人物は。

 エステルは即座にベッドから飛び降り、壁に立て掛けてあった剣を手に取ると、鞘から抜き放つ。

「ご挨拶だな。折角会いに来た弟に、いきなり刃を向けるとは。無礼な夜這いだとでも言いたげに」

 再び現れた月明かりが、相手の髪を銀色に照らし出す。影はゆるりと床に降り立ち、大仰に腕を広げると、その手を胸に当て、恭しく礼をした。

「これから死にゆく相手に名乗るのも馬鹿馬鹿しいけれど、貴女には名乗ろうか」

 ぞわり、と。背中を恐怖が這い上がる。この影が何者かは、想像がつく。だが、彼がこんなところまで直接乗り込んできたのか。エステルの動揺に構わず、相手は続ける。

「レディウス・ナディール・フォン・グランディア。シャングリアの真の王として、貴女をたおし、全ての頂点に立つ者だ」

 名乗りが終わるより一瞬先、反射的に、エステルは身体を一歩左へずらしていた。レディウスが左手を突き出した途端、右真横を、目に見えない何かが高速で駆け抜けて、轟音と共に壁に穴が空いた。ぼうっとその場に突っ立っていたら、壁と同じ運命を辿っていたに違いない。どっと冷や汗が吹き出す。

「ああ、いいね」レディウスが顎に手を当てて、くつくつと笑う。「ここまで来て一撃でやられるような『姉上』だったら、がっかりだったから。もっともっと、踊って欲しい」

 言うが早いか、第二波が訪れる。今度は扉が吹き飛んだ。見えないものをかわす、かわさねば死ぬ、という無茶苦茶に過ぎる反応を余儀無くされ、心臓が恐怖にどくどくと脈打つ。

「エステル様!」「エステル!」

 流石に異変に気づいたのか。アルフレッドとテュアン、クレテス、アルフォンスが各々の武器を手に駆けつけた。誰もが、レディウスの姿を目にして、とんでもない事態だという事を察したようだ。エステルを守るように進み出る。

 しかし、皇子はそれを見ても、動じはしなかった。むしろ、余計な横槍が入った、とばかりにがっかりした表情をして、肩を落とす。

「何だよ。僕は『姉上』と遊んでいたかったのに、邪魔をする気か?」

「こんなふざけた遊びがあるか!」

 クレテスがクラウ・ソラスを握り直し。

「君にエステルを姉呼ばわりする資格は無い」

 アルフォンスもロンギヌスを油断無く構える。それでも、帝国皇子の気が変わる様子は無いようだ。

「ヒルデを傷つけた白銀聖王剣の使い手に、『兄上』まで?」

 レディウスが二人に侮蔑するような視線を投げかけると、二回、指を弾いた。それだけで、親指の先大の黒い光が闇を駆け抜け、クレテスの肩を、アルフォンスの腕を貫く。致命傷には到底至らないが、武器を握る力を確実に奪う攻撃に、少年達は呻いてそれぞれの得物を取り落とし、その場に膝をついた。

「所詮四英雄の武器を持っていても、使い手がただの人間じゃあ、僕に敵いっこ無いよ」

 それきり興味は失ったとばかりに、レディウスがエステルに向き直る。直後、クレテス達を撃ち抜いたのと同じ光弾が、左足を貫いて、エステルは言葉にならない悲鳴をあげて、その場に倒れ込んだ。

 痛い、ではなく熱い、の感覚が訪れる。傷口から、どくどくと血が流れ出てゆくのがわかる。衝撃の魔物が体内で暴れ回っているようで、思考がまとまらず、剣を手放してしまう。

「あっはははははは!」

 レディウスが、天井を仰いで哄笑を響かせた。

「弱い、弱いなあ、『姉上』! たった一撃だよ? それでもう動けないのかい? あまり僕を失望させないでくれよ!?」

 アルフレッドとテュアンが両脇から斬りかかる。だが、レディウスはにい、と唇で弧を描くと、転移魔法陣も使わずに後方へ一瞬にして移動し、剣は空を切った。

「邪魔だよ」

 苛立たしげに放たれた光弾を、アルフレッドは聖剣で弾いたが、テュアンは脇腹に食らって、喉に詰まるような唸りを洩らしてくずおれる。

「ああ、つまらないな。所詮人間が、『ヴァロール』に敵わないか」

 心底残念そうに、レディウスが目を細めた。

「もう遊びはお終いにしよう」

 皇子の手が掲げられると、部屋全体に、重力が増したかのような圧力が訪れた。床に身体を押しつけられて、指一本動かす事すらかなわなくなる。

 にやりと嗤うレディウスの顔に、瞳の無い紫の眼球を持った、六枚羽根の異形の姿が重なる。獲物を前にして、『それ』がぞろりと牙の生えた口を開き、喜びを表現したように見えた。

 エステルを一呑みにしようと、異形が迫ってくる。訪れる死神の気配に、目を見開いてただ事態を見つめる事しかできない。その視界に。

 聖剣の輝きを手にした背中が、入り込んだ。


 ああ、死ぬだろう。

 その予感が彼の胸を去来した。

 恐らく、聖剣の守りを持ってしても、この異形に太刀打ちする事はかなわない。闇に呑まれて、終わり。それが全てだ。

 だが、彼の心は不思議と静かに凪いでいた。

 解放軍が挙兵した時から。その前から。この手で守り育てていた日々から。あの女性ひとを守れずに失って、泥雪に塗れた日から。幼い命が生まれ落ちた日から。かの人達が共に道を歩むと知った日から。

 いや、あの女性に出会った、遠き日から。

 彼女と、彼女の大切な人達の為に、この剣と命を捧げたのだ。

 友は泣いてくれるだろうか。強気に「この馬鹿」と詰るだろうか。主の花嫁姿を見てから将来を考えると言ったのに、果たせずじまいの自分を嘲るだろうか。彼女の性格からして、恐らく、全部をしてくれるだろう。

(エステル様)

 黒い異形が顎を開く、その口目がけて聖剣『信念フェイス』を突き出す。

(どうか、立派な女王として、この大陸を)

 大切な人達の為に生き、大切な人達の為に死す。

 それが彼の『信念』であったのだから。

(ミスティ様、兄さん。僕は、グランディアの騎士たり得ましたか)

 遠い日の暖かい陽光の下、かの女性が銀色の髪を翻して振り返り、微笑む幻視が、最期の記憶になった。


 足が、熱い。

 その感覚がまだ続いている事に、エステルは思わず伏せていた顔を上げた。両手を見る。きちんと繋がっている。足からの流血はまだ止まらず、無理に動かそうとすれば、鋭い痛みを強いる。

 だが、どうして。死ぬと思ったのに。不思議に思って床に視線を馳せ、そして、異様な光景に、思わずぽかんと口を開けてしまった。

 至近距離に、聖剣『信念』が落ちている。それを握っている手がある。

 ところが。

 そこから先が。肘から先が、まるで空間ごと削り取られたかのように、無い。

「……叔父様?」

 剣の持ち主の名を呼ぶ。応えは無い。

「叔父様」

 足の熱も忘れて、這いずって近寄る。腕から流れ出す血は無い。だが、無いのだ。この腕の持ち主が。

「へえ」レディウスが、感心したような声を洩らす。「聖剣の守りで、腕だけ残ったか。王国時代の聖剣の祝福も、大したものだね」

 はじめは彼が何を言っているのか、受け止められなかった。だが、じわじわと毒が染み込むように、現実を理解して。

 エステルは、最早意味を成していない悲鳴をあげた。

 自分でも何を言っているのかわからない状態で、腕に取りすがる。そうすれば、彼が帰ってくるのではないかとばかりに。腕は最前までたしかに人がそこにいたのを表すかのごとく温かいのに、もう、繋がるべき身体が無い。それが信じられない。

「――はっはあ!!」

 おかしくて仕方無い、といった笑いが室内に爆発する。

「そうか、『姉上』! 貴女はそうなんだ! そういう方が嫌なんだ!!」

 レディウスが何を言っているのかわからない。何故この腕の先が無いのか、訳がわからない。ただめちゃくちゃに叫んで、戻ってきてと願うばかりだ。

「それなら、ここで貴女以外の全員……」

 再び手を掲げようとしたレディウスは、しかし、後方から飛んできた暗器に目をやり、手の一振りで叩き落とした。そして、胡乱げにそちらを見やる。

「『ヴァロール』」

 エシャラ・レイだった。青と紅のオッド・アイを険しく細めて、レディウスを睨みつけている。

「フォモールの王として、これ以上お前の身勝手を看過するわけにはいかない」

「王だって?」

『ヴァロール』と呼ばれた皇子は、最初こそ軽い驚きに目をみはっていたが、すぐに唇を歪めると、嘲笑を放つ。

「始祖種の死に損ないに、今更僕を止める力があるのか?」

「相討ち覚悟でもやってみせる。それがボクの使命だ」

 エシャは普段の飄々とした態度が嘘のように、真剣さを滲ませた声色で答える。青と紅の視線と、紫の視線は、しばし無言の戦いを繰り広げていたが、やがて、レディウスが、興が失せたとばかりに顔をそむけた。

「まあいい。今日のところはこれまでにしよう。僕の力があれば、お前達など、いつだって殺せるんだからな」

 そして、ブリガンディの時のように、転移魔法陣も無いまま、彼は姿を消す。

 残されたのは、虚空を見すえる歌い手と、壁に開いた大穴と、傷を負って呻く者達と。

「……叔父様」

 聖剣を握る腕だけを手に、放心して呼びかけ続ける、王女であった。

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