第5章:恐怖は紫闇の形を取りて(6)

 聖王暦二九九年が明けた。大陸には、今年こそこの地の行く末が決まる時、という機運に満ち、解放軍への期待はいやが上にも高まってゆく。

 カレドニア北東の街ベルグラードにかかるアラディア大橋を越えれば、いよいよグランディア領内へと足を踏み入れる。ベルグラードを獲得して攻略の足がかりにしたい解放軍と、何としても死守したい帝国軍。激戦になる事は想像に難くなかった。

 その為、エステルは冬の間に何度も軍議を開き、地図上の模擬戦を繰り返した。どこに帝国軍を誘き出して、街に被害を出さず、かつ迅速に制圧せしめるか。それを実現するのに、新たに加わったカレドニア魔獣騎士達の存在も、ありがたい戦力になった。

「ついこの前まで敵対していた軍を味方として数えるなど、王女は甘いとしか言いようが無い」

「所詮理想家の『優女王』の娘か」

 そう嘲って、解放軍を去る者もいた。しかしそれ以上に、解放軍に期待を寄せて、我も理想と共に、と新たに加わる者は後を絶たなかった。

 カレドニア国内の雪が溶け始めると、エステルは国内各地に散っていた戦士達へ再集結の檄を飛ばし、戦士達はそれに応えてノーデへと集う。その数は最終的に、六千を数えようとしていた。

「私はこのような身なので同行がかないませんが、皆様のご武運を祈っております」

「坊ちゃま、お姫様。どうか、帝国に勝って、皆さん揃って無事なお顔を見せてくださいね」

 昨年の戦いで右足の機能を完全に失ったアレサと、彼女が乗る車椅子を押すジャスターを筆頭に、カレドニアの人々に見送られ、解放軍はノーデを発った。

 時に、三月上旬。アイシアの山脈は、まだ深い雪の冠を戴いていた。


 ベルグラード攻防戦は、出立の三日後に始まった。

 ヴァレフ平原で帝国軍とぶつかり合った解放軍は、弓兵が敵の出鼻をくじいた直後、アルフォンス率いる飛行部隊が先陣を崩しにかかる。降下と一撃離脱を次々繰り返す魔鳥騎士アルシオンナイト魔獣騎士グリフォンナイト達に、帝国の騎兵は戦意を削がれかけた。が、腐っても正規軍。魔法部隊による文字通りの援護弾が火球となって飛ぶと、すぐさま態勢を立て直し、味方の屍を越えて解放軍へ吶喊とっかんしてきた。

 兵の数はほぼ互角。しかし、帝国軍の後方には、正規兵以外も控えている。

「隊長!」

 元カレドニア軍『銀鳥隊』副隊長のラヴェル・フライハイトが、魔獣をアルフォンスのガルーダの隣に並ばせて、声を張り上げる。

「敵の後方で、魔族が魔物召喚の準備を始めているようです。俺が何人か率いて潰しにいきます」

「そういう事なら、君達だけに任せるわけにはいかないだろう」

 アルフォンスはロンギヌスを手元で一回転させると、前方を見すえる。

「僕が先頭を飛ぶ。無傷の『銀鳥隊』全員ついてこい」

「ははっ」主の戦意に応えるように青く輝く聖王槍を見て、副隊長は戦場に相応しくない笑声をあげた。「望むところですよ。隊長と武功を競うのも久しぶりだ!」

 飛行戦士が空を征くのを眺める暇もあらばこそ。地上では騎兵と歩兵が帝国正規軍を待ち受ける。セティエの手加減無しの『メギドフレイム』をティムの最大魔力の『ヴォルテクス』が増幅させて、炎の嵐で攪乱したところへ、解放軍の戦士達が突撃する。戦況はたちまち乱戦に持ち込まれ、ヴァレフの草地に続々と赤い花が咲いた。

 エステルは「今回は、状況を見極めて指示を下す事に徹してください」というアルフレッドの言葉に従って、後方に待機していた。刻々と移り変わる戦況を目の当たりにし、または斥候から報告を受ける。そして、敵兵を充分に平原中央へ引き込んだと判断したところで、「伏兵を動かしてください」と告げた。

 魔鳥騎士が、聖王槍と盾を印した、正統なるグランディア王国の血筋を示す旗を振りながら、平原上空を旋回する。すると、アルフレッドとテュアン、それぞれに率いられた増援が、東西の森から飛び出し、帝国兵を挟撃した。

『ベルグラードを守っているワイザー将軍は、帝国じゃあ今時珍しい、筋金入りの真っ当な騎士だ。馬鹿正直にぶつかってくるだろうし、魔族の手助けも快く思っていないはずだろ』

 事前にベルグラードに潜り込んでいたクリフの情報はたしかだった。正面からの敵以外、増援もいないようだし、魔族は魔物を召喚する前にアルフォンスの『銀鳥隊』がことごとく討ち取った。敵将の性格を把握しきった上での搦め手は卑怯かもしれないとは思ったものの、それを軍議で口にしたところ、テュアンが呆れきった吐息をつきながら首を横に振ったのだ。

『こっちは全員が全員騎士様じゃあないんだ。いちいちあちらさんの流儀に合わせていたら、今後の戦を勝てるはずが無い』

 それにあの爺さんの手強さは、味方の時に知ってる。そう付け加えて。

 その台詞に、エステルは納得しきったわけではない。だが、己の感情を先走らせて自軍を瓦解させるのは、もっと悪手である。

(こんな事が、あとどれだけ続くんでしょうか)

 こちらの戦力に押し負けて敗走してゆく帝国軍と、勝ち鬨をあげる味方の姿を、翠の双眸に映しながら、エステルは密かに拳を握り締めた。


 帝国軍がアラディア大橋の向こうまで後退した事で、ベルグラードは帝国の支配から逃れ、解放軍は熱狂的に迎え入れられた。

 エステルは帝国兵が駐留所にしていた砦へ入り、部屋の窓を開け放って、目の前に横たわるアラディアの大いなる流れを見つめる。ヨーツンヘイムのギャラルン河より遙かに河幅が広く、大型の船があれば一気に渡河できそうだ。だが、生憎シャングリア全土では造船技術が発展していない。大陸東端のディスト公国は、大きな商船を有して、南のマルディアス大陸や東のノルン大陸と積極的に貿易を行っていると言われているが、実際に目にしたわけではない。

 やはり、大橋を抜けるしか道は無いか。幾つもの中継所となる建物を備えた橋梁を見つめていると。

「お疲れ様です、エステル様。見事な采配でした」

 軽く扉をノックすると同時に、アルフレッドが入ってきて、深々と頭を下げた。

「あの橋を越えれば、グランディアなのですね」

 エステルには記憶に無いが、叔父やテュアンにとっては懐かしい、十七年ぶりの故郷である。アラディア大橋に視線を馳せたまま呟くと、アルフレッドは隣に並んで、ここではないどこかを見るかのように、目を細めた。

「はい。大陸一栄えた、豊かな王国です。しかし、この十七年の間に、市井は顧みられず、荒れ果ててしまったと聞きます」

 そうして彼は、ぎり、と歯噛みして、拳を握り込む。

「全ては、ヴォルツ・グレイマーのせいで」

 その横顔に、ブリガンディの時に見た隠しきれぬ憤怒が宿っているのを見て、エステルは眉を垂れて問いかけた。

「叔父様は、ヴォルツ皇帝を憎んでいるのですか」

「大切なものを卑怯な手段で奪われて、その相手を憎まずにいられる者などおりません」

 いつもの叔父とは違う、やたら早口で返されて、エステルは思わず絶句してしまう。

「何より、ミスティ様を奪い、『優女王』の名を地に貶めた挙句に死へ追いやった罪は」

 その声音に込められた、怒りと同等以上の感情に、思わず「あ」と声が洩れた。

 わかってはいた。叔父の心の在処は、常に『そこ』であった事を。エステルはふっと視線を逸らし、睫毛を伏せて、秘密を打ち明けるように口を開く。

「叔父様は、お母様を、愛しておられたのですね」

 隣に立つ叔父がこちらを向く気配がしたので、面を上げて、彼の表情を見る。アルフレッドは、何故わかったのか、とばかりに驚愕を顔に満たして、エステルを見下ろしていた。しかし、それを音にして問いかける事は無く、「昔の話です」と首を横に振る。

「身分違いの上に、兄の妻となった女性に横恋慕するような恥知らずです。お忘れください」

 ここは何か慰める一言をかけるべきなのだろうか。逡巡した果てに、薄く照れ笑いを浮かべて、髪を触りながら言葉を紡ぎ出す。

「私がお母様の代わりになれれば良かった。私、叔父様が初恋だったんですよ」

 そう。ブリガンディで、叔父が今も母の幻しか追っていない事は、思い知った。既に諦めもついた、幼い日の憧れだ。少しでも叔父の気が楽になるならば。それ以上の意図は何も無い発言だった。

 ところが、アルフレッドは途端に眉根を寄せ目を細めて、「エステル様」と険しい声色でたしなめてきたのだ。

「貴女はいずれグランディアの女王となるお方です。軽々しくそのような発言をなさらないでください。どこで誰が聞いていて、御身に不利となる噂が立つかもわからないのですから」

「ごっ、ごめんなさい……」

 反射的に詫びて、しょんぼりとうなだれる。たしかにこれは、己の身分を考慮しない言い様だった。アルフレッドの想い人を知る人間の耳に入れば、「立場を利用して、主君の忘れ形見を娶るつもりだ」と悪し様に言われても仕方無いだろう。

 だが、アルフレッドはそれ以上怒りを露わにする事は無く、ゆるい笑みを浮かべると、エステルの頭を軽く撫でた。少女が幼い頃、何かひとつできる事が増えると、そうやって褒めてくれたように。

「エステル様のお気遣いは、ありがたくいただいておきます。ですが」

 一拍置いて、彼は続けた。

「その大事な一言は、いつかエステル様の前に現れる、誰よりも愛する大切な相手の為に、胸に仕舞っておいてください」

「誰よりも愛する、大切な相手……」

 鸚鵡返しに口にすれば、エステルの頭の中で、一人の少年が思い浮かぶ。果たして本当に彼がそうなのだろうか。戸惑いは増し、鼓動を速めた胸に、そっと手を当てる。

 叔父の言葉の意味を深く噛み締める時がいずれ訪れる、それもまだ知らないで。


「残兵は、これだけか」

「はっ……申し訳ございません、閣下」

 ベルグラードを放棄し、アラディア大河の対岸へ撤退した帝国兵の残数を見渡しながら、ワイザー将軍は髭の豊かな口を歪めて、苦々しく呟いた。たちまち、傍らにいた部下が萎縮するので、「いいや」と首を横に振る。

「そなたが詫びる必要など無い。むしろ、この老いぼれの騎士道に付き合って、皆、よくここまで戦ってくれたものだ」

 自軍の兵のほとんどはどこかしら傷つき、重傷の者も少なくはない。それでも、生き延びただけでも儲けもので、大半はヴァレフ平原で戦死してしまった。

 誰も、自分の古くさい流儀に異を唱えず、付き従ってくれた。魔族が敵の魔獣騎士達に討ち取られても、戦力の低下を嘆くどころか、これで正々堂々と戦える、と皆が逆に奮起したのだ。

 その結果が、この惨敗か。将軍はほぞを噛む思いで強く目をつむる。正直なところ、エステル王女の軍がここまで大成しているとは、思ってもいなかったのだ。

 このまま本国に戻れば、自分は敗戦の責を問われて、首を落とされるだろう。しかし、そこに部下達を巻き込むわけにはいかない。独り身で歳を重ねてしまった自分と違って、まだ年若い妻や子供のいる者も少なくはないのだ。

 だからワイザーは、かっと目を開き、いまだ栄光ある騎士としての威厳を保って、部下に告げる。

「そなたらは本国へ帰還せよ。私が全責任を負って、ここで反乱軍を待ち受ける」

「将軍!」たちまち部下が悲痛な叫びをあげた。

「そのような事をおっしゃらないでください。我々は将軍のもとで戦える事が誇りなのです。最期まで、共にあらせてください!」

 この時勢に、帝国軍には勿体無い男だと、ワイザーは思う。自分の人生後半は、ままならぬ戦ばかりだったが、部下には恵まれた。彼らと共に、エステル王女の正しき治世の礎となれるならば、それもまた一興か。

「では」

 ついてきてくれるか。その一言を部下に向けて発しようとした時。

「では、望み通り、主君と最期を共にするがいい」

 突如辺りの気温が、ひどく冷たくなったように感じた。かと思うと、ワイザーの真横を、何かおぞましい感覚が駆け抜ける。

 直後、「ひっ!?」と心底からの恐怖に満ちた悲鳴を残して、目の前にいた部下の姿が消えた。そう、消えたのである。最前までそこにいたという形跡を、何一つ残さずに。

「主の為に、最期まで。今時泣かせてくれる麗しき忠誠心じゃあないか」

 こつ、こつ、と。ワイザーの背後に近づいてくる靴音がある。その声は、グランディア皇城で何度も耳にし、よく知っている。背筋を刃の先で撫で上げられるような悪寒が走り、暑くもないのにだらだらと汗が流れ落ちる。

「……レディウス皇太子殿下」

 振り向けば、勝手に膝が折れて地につく。グランディア帝国第一皇子レディウスは、紫がかった銀髪を風に遊ばせ、底の知れない瞳で、ワイザーを睥睨していた。

 母の腹を食い破って生まれ、父を玉座から蹴落として、グランディアの全権を掌握している。その噂通り、姿を見せないヴォルツ皇帝に代わって、無慈悲な支配の指揮を執り続けている皇子は、くっとひとつ笑うと、愉快そうに唇の両端を持ち上げた。

「戦況は芳しくないようだな」

 家臣の部下を消し飛ばした事など歯牙にもかけないかのように、平然と、皇子は冷たく言い放つ。

「は、申し訳ございません」

 全身ががたがた震える。ただの十六歳の少年なのに、この皇子には、ワイザーの実力を持ってしても、「敵わない」と本能が感じ取っている。そのまま崩れ落ちないように身を律しながら、将軍は何とか先を続けようとする。

「ですが、必ずやこれから挽回を」

「ああ、しなくていい」

 まるで天気の話でもするかのように、レディウスはやたら悠長な声音で告げた。

「後は全部僕がやる。だから」

 やたら指の長い手が、眼前に掲げられる。

「お前達はもう不要だ」

 にたり、と。皇子が嗤う顔に、何かの姿が重なって見える。それはまるで、黒い竜獣ドラゴンのようであり、六枚羽根とやたら長い手足を持った、異形のようでもある。

「弱い人間は、消えろ」

 それが、ワイザーがこの世で聞いた最後の言葉となり。

 異形が、ぐわりとあぎとを開いた。


 アラディア大橋を駆け抜けたはずの帝国兵は、一人残らず消え去っていた。

 戦での負傷による血痕は大地に吸い込まれたのに、それ以外、何一つとして、虐殺の跡などは見当たらない。その中心で、銀髪の少年が、空を仰いで高らかに笑っている。

 やがて、ふっと笑声を止めた少年は、大橋の向こう、ベルグラードの街を見やる。

「『姉上』」

 やけにねっとりとした口調で、少年はここにいない誰かを想うように暗い視線を馳せた。

「次は、貴女がこうなる番だ」

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