第5章:恐怖は紫闇の形を取りて(5)

 大広場の炎は明々と燃えている。その周りでは、人々が酒を酌み交わし、肩を組んで陽気に歌っている。カレドニアも解放軍も関係は無い。それぞれがそれぞれの故郷の歌を吟じて、互いに拍手を送り合っている。そこにはガルドで加わった者も混じっているようだ。

「すごいですねえ」

 エステルは防寒着を着込んでなお白い息を吐きながら、きらきらと翠の瞳を輝かせて彼らの様子を眺め、歓声をあげる。

「トルヴェールで暮らしていたままだったら、こんな光景は見られなかったもの」

「すごいのはいいけど、迷子になるなよ」

 きょろきょろと周囲を見回すばかりで、ともすればはぐれかねない少女の手を、少年が握り込む。一回り大きい、剣だこのできた手に触れて、エステルの心臓がとくんと脈打った。

 そして記憶は、遠い昔に遡る。

「懐かしいですね」

 何が、とばかりにクレテスが眉間に皺を寄せて振り返る。

「覚えてませんか? 子供の頃の事。私が裏山で迷って、貴方が」

 それはエステルが七つの時。叔父の誕生日に果物のパイを作ろうと材料を求めて、『決して一人で入ってはいけない』と大人達に言われていた裏山に踏み込み、ものの見事に迷子になった。

 深い森の中、知らない鳥や獣の声は恐怖心を煽る。足を滑らせ転んで、服は泥んこになり、折角集めた果実も潰れ、心細さは身体を破裂させそうなほどに膨れ上がって、大樹の下でしゃがみこみ、しくしくと泣いていた。

 そこに、一つ年上のこの幼馴染が現れたのだ。

 何故エステルの居場所がわかったのか、後で大人達に訊かれた本人も、『わからない。勘』としか答えなかった。とにかく、いつもガキ大将と喧嘩してばかりで、鋭い蒼の瞳が怖くてたまらない少年を前にして、怒鳴られる、と、涙も引っ込んで固まってしまった。

 だが、クレテスは怒鳴りも詰りもしなかった。少々強引にエステルの手を引いて立たせ、『来た道の木に短剣で疵をつけたから帰れる』とにこりともせずに言い放ち、ずかずかと歩き出す。

『絶対、手ぇ離すなよ!』

 彼は時折エステルを振り返り、ぶっきらぼうながら何度も言った。

『帰るまで、おれが守るから!』

 その真摯さに、エステルのクレテスに対する感情は、恐れから、信用へと変わった。彼は怖くない。頼れる同年代の少年なのだと。

 トルヴェールの村に帰り着いた時には、心底から安堵して脱力してしまったアルフレッドに代わり、テュアンを筆頭とする大人達に二人揃って凄まじく叱られた。だが、あの日はたしかに、エステルにとって、クレテスへ抱く想いが変化を見せた記念日になったのだ。

「あー……、何かあったな、そんな事」

 やっと記憶に思い当たったか、クレテスが繋いでいない方の手で眉間をおさえる。その頬が心持ち紅潮しているように見えるのは、年送りの炎に照らされるせいか、寒さのせいか。エステルにはわからないまま、二人は大通りへと歩を進める。

 祭の盛り上がりの前には、極寒もなんのその。道の両脇には商人達が店を広げ、屋台では食べ物を売り、かなりの人出になっている。

「楽しい事があれば、国なんて関係無いんですね」

 それぞれに祭を楽しむ人々を見回しながら、エステルは感慨深げに洩らす。

「私は、この光景を守りたい。無くしたくないな」

 二人はしばらく、手を繋いだまま大通りを歩く。すると。

「ようよう、お二人さん。見ていってくれよう!」

 道端から威勢の良い声をかけられ、どちらからともなく足を止め、声の方向を振り返る。

「そうそう、あんた達だよう」

 日焼けなのか、雪焼けなのか、元々なのかわからない褐色の肌の商人が、乱杭歯を見せて陽気に片手を挙げている。手招きされるままに近づいてみれば、彼が広げた茣蓙ござの上に、天然石があしらわれたアクセサリが、所狭しと並べられていた。

東の大陸ノルンから取り寄せた、貴重な石を使った品ばかりさあ。見ていくだけでも損は無いよう」

 舶来物かの真偽はともかく、色とりどりの装飾品に目を惹かれるのはたしかだ。エステルはクレテスと並んで、しばらく商品に見入っていたのだが。

「わあ、これ、綺麗」

 銀製のチェインにぶら下がる、エステルの瞳と同じ色の翡翠を羽根のモチーフで包み込んだペンダントを手に取り、じっと見入る。

「気に入ったのか」

「えっ、いえ、そういうわけじゃあないけれど……」

 たまたま目に留まっただけで、欲しいとかそういう気持ちにまで至ったわけではない。エステルは咄嗟に首を横に振ったが、その時にはクレテスは商人に値段を聞き、ディール銅貨五枚を渡していた。「まいどあり」と商人が満足そうに笑みを浮かべる。

「そんな、クレテス」

 自分がもたもたしている間にやり取りが済んでしまった。エステルは慌てて両手をぶんぶん振った。

「欲しいなら、自分で払いますから」

「いいんだよ」

 だが、かつては恐れの象徴だった蒼の瞳は、今は親しみを込めて、優しい視線をこちらに向けてくる。

「お前、こないだ誕生日だったろ。これの礼もしていないし、おれにいいとこ見せさせてくれよ」

 そう言って彼は、左腕を掲げてみせる。彼の誕生日祝いに贈った腕輪が、店先のランプの灯りを受けて、きらりと煌めいた。

 少年に、彼の瞳と同じ色の石を使った装飾品を贈ったのだ。ならば今度は、自分が、自分の瞳と同じ色の装飾品を贈られても、不自然ではない。むしろ風情がある。

「ありがとう……」

 エステルは頬に熱を帯びるのを感じながら、早速ペンダントを身につける。翠の石も、灯りの赤を帯びて、形容しがたい幻想的な輝きを放つ。

「おっ、いいねえ。似合ってるよお、お嬢さん」

 商人がにやにや笑いながら、エステルからクレテスに視線を移す。

「彼女も喜んでくれてよかったねえ、兄ちゃん」

 その言葉に、エステルとクレテスは揃って固まる。数秒の無言の時間の後。

「かっ、彼女じゃない!」

「違います! 私達、そんなんじゃ……!」

 二人同時に耳まで赤くなって、必死に否定の言葉を紡ぎ出す。商人は話半分で、「若いねえ」とへらへら笑いながらうなずいているのだった。

 これ以上ここにいると、体の良い揶揄からかいの対象になりかねない。「まあ、この後もごゆっくり、祭を楽しみなよお」と笑う商人から逃げるように、店を後にしたのだが、何だかしばらく立つとおかしさがこみ上げてきて、エステルは思わず吹き出すと、ころころと笑い転げた。

「やだ、もう。あのおじさんったら。私達、そんな風に見えたんですかね」

 すると、前を行くクレテスが振り返り、不意に口元を緩める。

「何ですか?」

「いや、お前がそうやって腹の底から笑うのを、久々に見たと思ってさ」

 そういえば、厳しい戦い続きで、楽しく笑って過ごす、という事を久しく忘れていた。エステルははにかみ、買ってもらったばかりのペンダントの翡翠を触りながら、頬を上気させて告げる。

「きっと帝国を倒したら、私はもっと笑えるようになります。いいえ、皆が心の底から笑えるように、私、頑張りますね」

 しかし、その言葉に対して、少年から反応が無い。不思議に思い、小首を傾げると、クレテスは人の波の邪魔にならない道端に寄って、足を止めた。蒼の瞳がじっと見下ろし、何かを言いたげにしては、二度、三度、視線を外す。

「どうしたんです?」

 彼が何かを伝えたいのはわかる。しかしその内容に想像が及ばない。ぱちくりと瞬きをすると、クレテスは不意に口を開いた。

「帝国を倒したら……さ」

 通りは人の喧噪で騒がしいはずなのに、周囲の音が急速に遠ざかり、少年の声だけが明瞭に耳に届く。

「エステルは、グランディアの女王になるんだよな」

「え?」

 唐突にそんな事を言われて、ぽかんと口を開けてしまう。

「アルフォンスはカレドニアに帰るんだろ。そうしたら、国を継げるのは、お前だけだ」

「そういう事に、なるのかしら」

 一国を治める。その展望は、これまでエステルの頭の中には無かった。ただひたすらに、顔も覚えていない両親の遺志を継ぎ、圧政を敷く帝国を打倒する為、目の前の敵を退ける事に必死だった。自分が錫杖を持ち、王冠を戴く姿など、想像もつかない。

「お前はグランディアの女王だ。その時おれは、ただの一騎士だ。軽々しく話す事もできなくなるし」

 少年は面を伏せて、唇を自嘲気味に歪める。前髪の下に隠れて、どんな目をしているのかはわからない。

「お前はしかるべき相手と結婚して、こうやって二人でどこかへ、なんてのも、とんでもない話になるよな」

 結婚。更に意識もしていなかった言葉が出てきた。一体この幼馴染は、何を考えてそんな事を突然言い出すのだろう。

「そんな事、言わないでください」

 相手に見えているかわからないが、エステルはぶるぶると首を横に振る。

「私達、トルヴェールで一緒に育った仲間じゃない。それは私が何になっても、変わりません」

 だが、少女の必死の訴えも、今の少年には届かないようだ。唇が諦観にも似た感情を宿して歪む。

「おれだって、そう思いたかった。だけど、周りがそれじゃあ納得しないんだって、わかる歳になったよ」

 心臓が締めつけられるような痛みを覚える。叔父のアルフレッドは、エステルの耳に入らないように苦心しているようだが、軍が大きくなればなるほど、聞こえてくる雑音も多くなる。『王女は親しい人間を依怙贔屓している』と噂する末端の戦士のぼやきは届いた事がある。かつて自分を守ってグランディアを脱出した大人の騎士達も、トルヴェールで共に育った子供達に、「エステル様の身分が明かされた以上、礼儀をわきまえろ」と注意しているというのだ。実際、ケヒトやラケ、ユウェインら年上組は、いつからか「エステル様」と自分を呼び、敬語で接してくるようになっていたではないか。

 周囲が、『変わらない事』を許してくれない。

「……それでも」

 それでも、エステルの心には、年送りの炎より煌々と揺れる火があるのだ。

「それでも私は、周りが強いるからと諦めたくはありません。私のお父様とお母様は、シャングリアの種族の間に横たわる因縁を消そうと努力されていたと聞きます。だから」

 一旦言葉を切って、翠の瞳に決意を宿して、きっぱりと言い切る。

「私は、旧い因習も変えてみせます。種族だけでなく、身分でも、誰もが差別されたり、しがらみに囚われたりする事の無い世界を目指します。その為には、クレテス、貴方にも傍にいて欲しい」

 クレテスが、伏せていた面を上げた。まるで鳩が豆鉄砲を食らったような驚きを宿し、エステルを見下ろしていたのだが。

「貴方に『も』なんだな」

 眉を垂れ、苦笑気味に呟く。何かおかしい事を言っただろうか。エステルはぱちくり瞬きをしてしまう。

「まあ、今はそれでいいさ。お前がおれを必要としてくれるなら、おれはお前の理想の世界の為に、剣を振るうまでだ」

「剣以外でも、頼りにしていますよ?」

 エステルがきょとんとした顔で切り返すと、クレテスはふっと溜息を洩らして、エステルに背を向け再び歩き出そうとする。離れかけた少年の手を、少女は即座に握り込んで、二人の体温が絡み合った。

 目をみはって振り返るクレテスに、エステルは真剣に訴えかける。

「今はまだ、このままでいさせて。子供の頃のように、私の手を引いて歩いて」

 蒼の瞳が、繋がれた手を見下ろす。しばしの沈黙があった後。

「……ああ」

 力強く、手を握り返される。

 城下街は新年へ向けてますます盛り上がりを見せる。少年少女は言葉も無いまま、ただ、今のお互いの温もりを感じていようと、しっかりと手を繋いで歩いてゆくのであった。

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