第5章:恐怖は紫闇の形を取りて(4)

 あの方も、自分の手を離れる時が来たのかもしれない。

 肩を並べて廊下を歩いてゆく少年少女の背中を見送りながら、アルフレッドは、安堵半分、寂しさ半分の溜息をついた。

 赤子の時から、抱っこを求めて泣いていた。歩き出せば、ずっと自分の後ろをついてきた。『親』の概念を覚えれば、恋しがって泣き、眠りにつくまでこちらの手をずっと握っていた。唯一の身内として頼りにされているのだと、母親を思い出す翠の瞳をまっすぐに向けてくる事で感じ取れた。

 そんな姪が、いずれは並んで歩む相手を見つけ出し、自分から離れてゆく日が来るのは、わかりきっていた事だった。しかしいざその時を迎えると、自分が育てたのに、と、嫉妬心が渦を巻く。

 だが、クレテスならば、相手として不足は無い。いまだ彼自身が知らない事情を汲んでも、姪の夫として立つには充分だ。どこの馬の骨とも知らぬ男に取られるより、よほど安心できる。

 そう自分に言い聞かせ、わずかな苛立ちを押し込めて、自室の扉を開いた時。

「よっ」

 馴染みのある顔がテーブルにつき、にやにやと笑みを浮かべて、陽気に片手を挙げてみせる。テーブルの上には、酒瓶と、素焼きのカップが二つ。そしてつまみにナッツの皿。

「……テュアン」

 彼女はいつもこれだ。呆れの吐息を洩らして、ぐしゃぐしゃと髪をかき回す。

「こんな夜だ、いつ何時非常事態が起こるかわからない。僕らまで羽目を外すわけにいかないだろう」

「おや」

 正論を放っても、女剣士は組んだ手の上に顎を乗せて、にやにや笑いを浮かべるばかり。

「マリオス家のお坊ちゃんはお堅いねえ。傷心を慰めてあげようっていう、女性からの誘いも無碍にする気かい?」

 言葉を戦わせて彼女に勝てた事は、この三十数年で数えるほどしか無い。

「全く、フリード家のお嬢さんには敵わないな」

 完全敗北だ。苦笑しながら、アルフレッドはテュアンの向かいの席に着いた。

 芋の香りがする透明な酒が注がれたカップを打ち合わせ、乾杯をする。口に含めば、辛口の酒の中にほのかな甘味が漂って、熱い感覚が喉を滑り落ちてゆく。若い頃は一口二口で酔いつぶれていた下戸だが、今はこの喉越しが心地良い。

「見てて気持ちいい飲みっぷりだねえ」

「貴女は相変わらずだな」

 たちまち一杯目を空にしたテュアンの杯に、酒を注ぎ足す。こちらまでザルになったのは、完全に、二十年近く彼女に付き合わされ続けたせいだ。

「懐かしいねえ」

 カップを振りながら、テュアンはとろんとした目で、遠き日を懐かしむように語る。

「ミスティと、ランディと、あんたとあたし。全員成人したら酒を飲もうなって、茶ばかり飲んでた」

 そもそも二人の縁は、遙か昔に遡る。マリオス家先代当主の私生児として生まれ、早くに母親を亡くしたアルフレッド。そもそも両親もわからず、グランディア王都アガートラムの裏通りで泥水をすすっていたテュアン。二人が出会ったのは、王都一大きい孤児院であった。

 引き取られた時期も、年の頃も体格も近い二人。共に遊ぶには不足が無かった。孤児院内を走り回っては転び、木登りをしては落ち、枝を剣に見立てて打ち交わしてはたまに急所に当たり、大小の傷を作って、シスターに叱られるのも一緒だった。

 その後、アルフレッドは当主となった兄ランドールのはからいで、マリオス家の養子として認められ、テュアンも跡継ぎのいない老騎士ジェイオス・フリード将軍の養女として引き取られたが、交流は変わらなかった。むしろ、それぞれの『親』の後ろについて、堂々とアガートラム城に入れるようになり、そして出会ったのだ。

 人と竜の架け橋となる王女、ミスティ・アステア・フォン・グランディアに。

『家臣は皆、私を特別扱いしてばかりなの。どうか気軽に話しかけてちょうだい』

 自分達からすれば、将来の仕えるべき主君であり、軽々しく口も利けない相手である。だが、彼女は年相応の少女らしく、無邪気に友人を求めたのだ。マリオス兄弟とテュアンは彼女と友誼を交わし、互いにかけがえの無い存在となった。

 だが、世界は変わってしまった。もうこの世にいないのが、二人。残されて酒を飲むのが、二人。

「……なあ」

 一杯目を空にしながら、アルフレッドはぽつりと問いかける。

「何で結婚しなかったんだ」

 途端。ぱん、と威勢の良い音が弾けて、殻に収まったままのピスタチオが額を打った。

「ああ!」

 テュアンが指を弾いたままの格好で眉をつり上げている事から、彼女がピスタチオ弾を打ったのだとわかる。

「悪かったな、どうせあたしはいきおくれだよ!」

「そういう意味じゃあなくて」

 恐らく赤くなっているだろう部分をさすりながら、アルフレッドは苦笑を浮かべる。

「それ以前の話だよ。将軍閣下の娘だ。王国にいた頃なら、縁談も掃いて捨てるほど来ただろう?」

「あー、まあね」

 テュアンは思い出すのも面倒臭い、とばかりに目を細め、腕組みをして宙を仰ぐ。

「何だろうね、嫌だったのかな。騎士の家柄のしきたりに縛られるのが」

 そう、彼女は少女だったいつかの頃に言った。『将来は傭兵になりたい』と。

『騎士なんて、息苦しい生き物を演じるより、自由に剣を振るった方が、ミスティの為になる』

 それを聞いて、アルフレッドも、グランディアでは傭兵身分になる『聖剣士』の道を志した。忠誠の対象はミスティ唯一人だが、己の行動指針は、常にテュアンを手本にしていた。

「大体、似合わないだろ? あたしがスカートを穿いて、赤ん坊を抱いて、屋敷の奥で旦那様に甲斐甲斐しく尽くすなんてさ」

「それはたしかに」

「即答すんな」

 おどける彼女に向けて肩をすくめてみせれば、ピスタチオ第二弾が飛んできそうなので、アルフレッドは咳払いで誤魔化し、カップにわずかばかり残っている酒を飲み干した。

「そういうあんたこそ、どうなんだよ」

 二杯目を注がせろ、とばかりに酒瓶を差し出しながら、テュアンがにやりと笑う。彼女の杯には、いつの間にか三杯目がなみなみと入っている。

「マリオス家の坊ちゃんは、一体何人泣かせてきたのやら。『何とかしてくれ』ってあたしに訴えてきた達を、どれだけ慰めてやったと思ってるんだよ」

「……彼女達は」

 痛いところを突かれた。カップを掲げて酒を受け止めながら、アルフレッドは苦々しく語る。

「僕の見てくれを好きになっただけだ。もしくは、『マリオス家の人間』という肩書きを」

 グランディアがまだ王国だった頃、自意識過剰ではなくアルフレッドはもてた。『ランドール将軍の弟』は、宴の際に踊る相手には困らない。城内を歩いていたらいきなり柱の陰に引き込み、恋文を渡すだけ渡して駆け去っていった女もいた。王国が陥ち、トルヴェールに身を寄せるようになってからも、『グランディアの聖剣士』に頬を赤らめる女性は後を絶たなかった。これで諦めるからと乞われて、一夜を共にした娘もいたが、アルフレッドから誰かを恋う事は無かった。

 もし、彼女らが真にアルフレッドを見つめられたならば、気づいてしまうのだ。心の奥底に、たった一人の女性が棲んでいる事に。

 助けにゆく、という誓いを果たせず失ってなお、銀髪の女性は在りし日の姿でアルフレッドに笑いかける。それは決して自分に向けられる事の無かった、兄一人だけに向けていた、幻影だというのに。

「あのさ」

 急にテュアンの声色が真剣味を帯びたので、アルフレッドの意識は、回想から現在に立ち返る。彼女は笑みを消し、中萌葱色の瞳を細めて、まっすぐにこちらを射抜く。

「あんたは本当にさ、そろそろ自分を許してやっていいんじゃないか。幸せになっても、ばちは当たらないはずだよ」

 その言葉に、彼女は自分の全てを理解しているのだという事を、しみじみと痛感する。

 一番に想う相手がいながら、他の女性を愛するなど、普通の人間に耐えられるはずが無い。それは、想いを拒絶するより酷な仕打ちだろう。

 全てをわかっていながら、それでも対等に付き合ってくれる女性。それは、目の前の幼馴染を置いて他にはいない。実際、ジェイオス将軍に、『そなた、フリード家に婿入りしてくれぬか』とかなり真剣な顔で詰め寄られた事もある。

 だが、わかっているからこそ、彼女とは親友以上の関係にはなりえない。かといって、彼女のように理解ある伴侶をもう一人探すには、人生の年数は過ぎてしまった。

 だから。

「そうだな、僕は」

 アルフレッドは、杯を干して、ゆるゆると頭を振りながら返す事しかできなかった。

「エステル様の花嫁姿を見てから考える事にするさ」

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