第5章:恐怖は紫闇の形を取りて(3)

 ノーデ城内は静まり返っている。皆、めいめいに連れ立って街へ出ていったのだろう。等間隔の燭台に薄明るく照らし出された廊下を、エステルはどこへ向かうとはなしに、ぼんやり歩いていた。

 トルヴェールの幼馴染達は、出かけるなら誘ってくれれば良かったのに。そう思って、彼らも想う相手と過ごす時間が欲しいだろうと考え至る。すると、一人の顔が脳裏に浮かんだ。

(クレテスも、誰かと二人きりで出かけたのかしら)

 何故、彼の事を思い出したのかわからない。だが、彼の隣に、自分ではない女性が並んで、共に笑みを交わしながら城下街を行く様を想像すると、言葉で言い表せないもやもやとした雲が、胸の中に湧いて出る。一体どうしてか。思考を巡らせようとした時。

「あれー、エステル王女様じゃないですか!」

「解放軍の盟主ともあろうお方が、こんなところでどうされたんです?」

 前方から歩いてきた若者二人が、エステルの姿をみとめて、軽薄そうに声をかけてきた。二人ともカレドニアの制服はまとわず、統一性の無い格好をしているから、解放軍の戦士なのだろう。人数が膨大になったので、エステルは彼ら全員の顔を把握していないが、末端の戦士でも、盟主の顔はわかるはずだ。

「折角の祭の夜なのに、お一人で城に残るなんて、勿体無いですよ」

「僕達がお守りしますから、一緒に遊びに出ましょうよ、ねっ?」

 若者達は必要以上にエステルに歩み寄って、顔を近づけてくる。反射的に一歩身を引けば、彼らは一歩踏み込んでくる。もう一歩下がろうとして、冷たい壁が背中に当たるのを感じ、心まで冷えた。

(どうしよう)

 断るのは悪いという申し訳無さがある。だが、知らぬ男達とお祭り騒ぎの中に遊びに出て、万一の事があったら、解放軍は瓦解する、という理性が先に立つ。何とかしてかわす言葉を紡ぎ出そうと頭を回転させ始めると。

「お前ら、何やってんだよ」

 ここにいるはずの無い声が場に飛び込んできて、若者達はぎょっと身をすくませ、エステルは声の方を向き、安堵感で胸が一杯になった。

「盟主様にそれだけ軽々しく声をかけられるのは、礼儀を知らない新入りか?」

 深海色の蒼が不機嫌に細められている。肩を回してこきぽき鳴らしながら、クレテスは歩み寄ってくると、ごく自然にエステルの腕を取り、自分の方へ引き寄せた。

(えええええ何ですかこれどういう事ですかどういう状態になってるんですかこれえええええ!?)

 肩に腕を回され、幼馴染の胸に顔をうずめる体勢になり、エステルの顔が茹で蛸のように真っ赤に上気する。

「ああああのクレ」「しっ」

 何とか離れようともじもじ動くと、耳元で小さく叱咤される。それだけで、大人しく彼に身を任せるしか無くなってしまう。

「無礼講も大概にしろよな」

 戦の場数を踏んで鋭さを増した、つりがちな目に睨まれては、下っ端の戦士はたまったものではないだろう。

「すっ、すみません!」

「失礼いたしました!」

 二人とも、根は小心者だったのかもしれない。ぺこぺこ頭を下げて、あっという間に廊下の向こうへと駆け去った。

「ったく」

 詰めていた息をほうっと吐き出すと、少年の呆れ声が降ってくる。

「お前さ、まがりなりにも一軍の旗頭だろ。いくら味方の城内でも、一人でうろちょろするなよな。ああいう、たがの外れた奴らもいるんだから」

「すみません……」

 たしかに自分が考え無しだった。反論が見つからず、謝罪しか出てこない。

 だが、冷静になって今の自分達の体勢を顧みれば、それこそ「無礼講も大概にしろ」とクレテスが怒られても仕方無い状態になっている。ばくばく大きく心音が聞こえるので、彼のものかと思い、違う自分の心臓だと気づく。これだけ激しく脈打っていたら、彼にも聞こえてしまうのではないだろうか。ぐるぐると頭の中で混乱が渦を巻く。

 エステルの困惑に気づいているのかいないのか、クレテスがそっと腕を離し、二人の距離も拳三つ分くらい離れる。

「……こっちこそ、悪い」ばつが悪そうに目を逸らしながら、少年がぼそぼそと洩らす。「あの手合いを追い払うには、こうするのが一番だと思ったからさ」

「いえ……」

 そう、これは演技だったのだ。クレテスは別に自分の事など何とも思っていない。叔父はエステルに寄ってくる悪い虫を追い払うのに、威圧感で相手を怯ませる。それと同じ手を彼も使っただけなのだ。頭では納得するが、心がちくちくと、何本もの針が刺さったように痛む。疼きよ去れとばかりに胸元をさすっていると。

「あら、お二方。お出かけになってなかったんですの」

 意外そうな声が投げかけられたので、クレテスと共に視線をそちらへ馳せた。ジャスターと言ったか。弟の従者が、顎に手を当て小首を傾げて、親しげな笑みを浮かべている。

「アルフォンスとファティマについていなくていいんですか?」

「坊ちゃまとお嬢様は、『銀鳥隊』に連行されて、街に降りてゆきましたわ。副隊長のラヴェル・フライハイトを筆頭に、隊長をこよなく愛する部下に恵まれていましてね」

 エステルが問いかけると、ジャスターはくすくすと女のような笑いを転がす。そして「そうだわ」と両手を打ち合わせた。

「このままだと、坊ちゃま達の為に作っておいたお夜食が無駄になってしまうの。お姫様と騎士様、召し上がられません事?」

 今度はきちんと信用できる相手の誘いだ。それに隣にクレテスもいてくれる。

「では、お言葉に甘えて」

 丁度小腹も空いてきたところだ。エステルは一も二も無くうなずいた。


「わあ、すごい!」

「これ、本当にすごいな」

 他に誰もいない食堂で、ジャスターが出してくれた夜食は、最早夕飯の延長であった。ブルーベリーのマフィンに、熟成ハムを挟んだサンドイッチ、葡萄の果汁と果実を余す事無く使ったゼリー。そして、根菜茶ではなく、柑橘の香り良い紅茶。カレドニアでは贅沢に過ぎるメニューだ。

「解放軍が持ってきてくれた食材も使わせてもらえましてね。一年の最後だし、良いかなと思いまして」

 エステル達の喜びように、ジャスターは満足げに微笑んで、「どうぞ」と勧めてくる。サンドイッチにかぶりつけば、ハムの旨味が口内に広がる。マフィンは小麦粉の香ばしさとブルーベリーの甘酸っぱさが上手く噛み合い、ゼリーは混じっている果実が歯応え良いアクセントとなる。紅茶は、口の中をさっぱりとすすいでくれた。

「アルフォンス達は、こんなに美味しいごはんをいつも食べていたのですか?」

「いつもではないですわね。お屋敷には専属の料理人がいましたから、あたくしが手を出す事は稀ですの」

 エステルの問いにジャスターは笑顔で答え、空になった少年少女のカップそれぞれに茶を注ぐ。そして。

「それにしても」

 と、懐かしむように目を細めて、エステルの顔を見つめた。

「坊ちゃまもそうだと思っていましたけれど、お姫様の方が、ドリアナ様に似ていらしてね」

 その言葉に、エステルはきょとんと目をみはってしまう。しばらくその名前を探し求めて記憶を辿り、思い当たった。

 ドリアナ・バルクレイ・フォン・グランディア。挙兵後にグランディア王家の系譜でアルフレッドが教えてくれた、亡き祖母の名だ。竜王ヌァザの娘にして、王族の末裔すえとして、北方の森に築かれた竜族の国フィアクラに隠れ住んでいたところ、狩りで森を訪れた祖父のアルベルト王に見初められ、グランディアに嫁いできたのだという。

 だが、祖母が亡くなったのは、エステルが生まれるより遙かに前。年数にして三十年にはなるだろう。どう年上に見積もっても二十代にしか見えないジャスターが、祖母の顔を知っているとは思えない。隣に座るクレテスも同じ考えに至ったのだろう。不審そうに眉根を寄せている。

 二人の疑問はもっともとばかりに、ジャスターは婉然と唇で弧を描く。そして、内緒話のように唇に人差し指を当てて、「ここだけのお話」と片目をつむってみせた。

「あたくしは、お姫様のお祖母ばあ様と『同胞』なんですのよ」

 同胞。その意味を咀嚼して、驚きに目をみはる。祖母ドリアナと同じという事は。

「竜族……!?」

 クレテスが、信じられない、といった声音で呟いた。

「リードリンガーの旦那様と奥様はご存知だったし、坊ちゃまとお嬢様も、薄々気づいてはいらっしゃるでしょうけど」

 竜族の寿命は、シャングリア大陸に存在する、人、魔、竜の三種族の中で最も長い。長命な者は千年を生きたという。その上、人の姿を取っていれば、寿命が尽きる寸前まで、若々しい外見を保っていられる。ジャスターが竜族ならば、人間の常識に照らし合わせて時間を計るのは、野暮な事だ。

「じゃああんた何で、人間に仕えて生きてるんだよ」

 クレテスの疑問ももっともだ。竜族は滅多に人前に姿を見せない。竜獣ドラゴンに変わるのを目の当たりにすれば、人間には恐れられ、魔族には彼らの王を討った仇敵として狙われる。故に、北方に慎ましく隠れ住んでいたのだ。

「フィアクラはもう亡いの」

 だが、ジャスターは軽く目を伏せ、憂いを宿した表情で続ける。

「ドリアナ様がアルベルト王と共にグランディアへと去った後、皆、次々寿命を迎えて。その後、人間や魔族の密猟者連中が踏み込んできて、生き残った者達も、大陸中に散り散りよ」

 言われて思い出す。ブリガンディで現れた、ブリュンヒルデという火竜の女性。彼女も故郷を追われた末に、帝国に辿り着いたのだろうか。

 もし、身を寄せる場所が無いのだとしたら、彼女を説き伏せたい。意に沿わぬ戦いをする必要は無いのだと、その牙を引かせたい。そう考えたところで、彼女を救いに現れた闇を、悪意と挑戦に満ちた瞳を思い出す。彼女は自分の意志でレディウス皇子に従っているようだった。説得など、意味を成さないのかもしれない。

 エステルは黙り込んで、膝の上できゅっと拳を握り締める。心中を察したのだろうか、ジャスターはぱっと表情を明るく切り替えて、「だから」と続けた。

「今生き残っている竜族は、それぞれの思惑でめいめいの場所にいる。それを幸せだとか不幸だとか他者が判断したり、考えを変えさせようとかしなくても、いいんですのよ」

 たしかに彼の言う通りだ。ブリュンヒルデがおのずからレディウスに仕える心を定めたならば、間違っているとか、不幸だとか、こちらから決めてかかるのは、彼女を侮辱する事にもなる。エステル達にできるのは、彼女の意志を尊重して、迎え討つ事しか無い。その結果が、彼女の死だとしても。

 ふと傍らを見やれば、クレテスも紅茶のカップをソーサーに置き、顎に手を当てて何かを思っているようだった。ブリュンヒルデと直接対峙した彼ならば、エステルとはまた別の考えも抱いているだろう。

「はい。難しいお話はここまで。お二人とも、眉間に皺が寄っていてよ」

 ぽん、と。ジャスターが両手を打ち合わせた事で、エステルもクレテスもはっと我に返る。夜食はあらかた片付いて、これ以上ここで深刻な話をしていても仕方が無さそうだ。

「まだ夜は始まったばかりですもの。折角だから、お二人でお祭を見てきたらいかが?」

 その言葉に、エステルの心臓がとくんと高鳴った。クレテスと二人で出かけられる。先程は、知らない男達に囲まれて萎縮してしまったが、クレテスと一緒ならば、気心の知れた相手だし、実力のほども把握している。危険は無さそうだ。

 おずおずと、幼馴染の顔を見上げる。少年も心無しか頬を朱に染めて、こちらを見下ろしている。

「……お願いできます?」

「お、おう」

 お互い、探るように言葉を交わす。断られなかった。その嬉しさがエステルの鼓動を更に速める。

「では、いってらっしゃいませ。雪は止んでいるけれど、寒いから防寒具をお忘れ無くね」

 ジャスターがテーブルの上を片付け始めながら、にこにこと告げる。

「ごちそうさまでした。行ってきます」

「どうもです」

 二人が頭を下げて席を立つと、彼は笑顔で手を振り、見送ってくれるのであった。

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