第5章:恐怖は紫闇の形を取りて(1)
十一月になれば、アイシア山脈は白の帽子を深々とかぶり、王都ノーデにもしんしんと雪が降り積もる。
こうなれば、山脈が自然の要塞と化し、カレドニアに国外から入り込む事も、国内を
その実状と、ジャンヌ王女の遺志やノーデの人々の希望を受け、解放軍はカレドニアで一冬を過ごす事になった。エステルらトルヴェールで暮らしてきた少年少女達には、記憶にある限り、村の外で過ごす初めての冬だ。
とはいえ、流石に数千の兵を王都だけに数ヶ月駐留させるわけにもいかない。いくつかの部隊に分けて各地の支援や砦の守備に向かわせる決定が下された。解放軍が持ち込んだ兵糧の分配と、人手による再興の手助け。また、自給自足による国内警備の強化。これによって、カレドニアの民に大きな負担をかけずに越冬が見込める。それはエステルとアルフォンスが互いの経験を語り合って至った結論であり、グランディアの正統な王族の決断を、カレドニアの民は「『優女王』の子らの英断」と讃えた。
「ジャンヌ王女は、本当に全てを見越していらっしゃったんだな」
雪が深くなる前に各地へ旅立つ部隊を、ノーデ城のバルコニーから見送るエステルの隣で、アルフォンスはそうぽつりと呟いた。
ノーデ城に滞在している解放軍の兵は、戦いが無い間も腕が鈍らないよう、屋内外の訓練場で、お互いに、あるいはカレドニア兵と、武器を交わして体力維持に努める。
十二月になり、王都も本格的に雪に埋もれるようになると、誰とはなしに、剣をスコップに持ち替える。そして、あるいは城の屋根に上り、あるいは連れ立って城下へと降りてゆき、積極的に雪かきを行った。
「ありがとうねえ。お爺さんが亡くなってから、いっつも近所の人に頼んでばかりで、心苦しくてねえ。でもあたしはこの身体だから、どうしようもなくってねえ」
「いいっていいって、気にするなよ、婆ちゃん。こんなの、
リカルドはトルヴェールの子供達一の腕力を披露して、すっかり足腰が衰えて杖をつく老婆の家の雪下ろしを終えた。ぺこぺこと、これ以上腰を曲げたら命に関わるのではないかとばかりに頭を下げる彼女に、親指を立てて応えてみせる。
「お身体がつらいようでしたら」
その傍らで様子を見守っていたロッテが、木彫りのうさぎがついた魔法行使用の杖を老婆にかざし、回復魔法を使用した。
「お、おや……?」
柔らかい光を浴びた老婆は、不思議そうに目をぱちくりさせる。
「おやおや、ずっと続いていた腰の痛みが、すっかり引いたよ」
「永続的なものではありませんが、この冬の寒さをしのぐくらいはできると想います」
それを聞いた老婆の顔が、まるで神にでも出会ったかのようにきらきらと輝いた。
「ありがとう、ありがとうねえ。雪下ろしをしてもらった上に、こんな気遣いまで」
彼女はそれまでのよぼよぼ加減が嘘のように、リカルドとロッテの手をつかみ、ぐいぐいと引く。
「お礼と言ったらなんだけど、うちでお茶を飲んでいっておくれ。ただの根菜茶だけど、店で買った煎餅もあるから。婆の話に少し付き合っておくれよ」
そこまで言われては、断るわけにもいかない。リカルドとロッテは顔を見合わせると、互いに苦笑を交わし、老婆に引きずられるままに家の中へ入ってゆくのだった。
アルフォンスは、対帝国戦以降、エステルとすぐに話し合いができるようにノーデ城へ滞在していた。が、雪深くなってきたのを受け、ファティマとジャスターを伴い、城下にある屋敷へ一時帰宅した。
「奥様の温室が雪で潰されたら、お嬢様が可哀想ですし、奥様も
養父ロベルトは、若き日の功績により、バルトレット王より伯爵位を承った。領地も無い、一代限りのものであった為、家は城下街に置いたままであったが、それでも並の騎士よりは広い邸宅である。父がいかに国王に信頼されていたか。そして自分はどれほど、王の意に沿わぬ生意気な子供であったのか。この家を見上げる度に、アルフォンスはその甘味苦味を噛み締めざるを得ない。
「このおうちを三人では、ちょーっと大変でしょうけど、シーバの力も借りて頑張りましょうか」
いつものカレドニア軍制服から防寒着に着替えたジャスターが、スコップを肩に担いで不敵に笑う。彼以外の使用人達には、アルフォンスとファティマが解放軍に参加する旨を伝えた時に、
ばたばたと、複数人の足音が近づいてきて、アルフォンスはそちらを振り返る。そして、表情を険しくし、ファティマがその儚げな顔に怯えを宿して、兄の背後に隠れた。
城下の若者達が、五人ほど。誰も彼もが見覚えがある。かつて、ファティマの特異性を嘲り、石や心無い言葉を投げつけた連中である。その中の幾人かと、アルフォンスは取っ組み合いの喧嘩もして、お互いに痣を作ったものだ。
だが、今、彼らからは敵意は感じない。それどころか皆、防寒着に身を包み、スコップや、雪を運ぶ為のソリを持参している。
「アルフォンス……いや、アルフォンス、様」
先頭に立つのは、最も殴り合いの回数が多かった青年だ。彼が、ばつの悪そうな表情で、うつむきがちにぼそぼそと喋り出す。
「その、こんな事で、俺達がファティマにした事の罪滅ぼしになるとは思わねえ。けど、あんた達を、少しでも手伝いたいっていうか、その」
分厚い手袋をした手で頭をかき、思い通りの言葉を紡ぎ出せなくてもどかしいのか、「ああ、くそっ!」と足元の雪を蹴る。背後に控える若者達も、互いに不安そうな視線を交わしている。
彼らの心中は察した。だが、許すのはアルフォンスの役目ではない。背後を振り向くと、義兄の視線を受けたファティマはきゅっと唇を引き結び、深く首肯してみせる。そして、アルフォンスの背後から、若者達の前へと、静かに進み出て、毅然と口を開いた。
「以前はわたしも幼稚でした。だけど、お互いに怯えてばかりではいられません。歩み寄りましょう」
彼女は薄く微笑み、右手を差し出す。青年は、寒さではない理由からだろう、頬を赤く染め、「……ありがとう」と小さく爪弾きながら、少女の華奢な手を握る。
アルフォンスの胸中に、半分の安堵と、半分の嫉妬が生まれる。ファティマがこうして周囲に心を開いて、歩み出せる範囲を増やしてゆくのは、兄として純粋に嬉しい。だが、兄以外の立場で彼女を見る自分が、
『こいつには後でシーバを使って頭から雪をかぶせてやろう』
と悪戯心を発揮し、舌を出して笑う。そんな意地の悪いもう一人の自分を抑え込む為、ぷるぷる震える拳を握り込み、面を伏せて歯噛みする。
「坊ちゃま、わかりやすすぎですって」
主の様子に気づいたジャスターが、ころころと笑う。正直なところ、アルフォンスはその後頭部を叩きたいと思ったが、ファティマ達の手前、嫉妬に駆られた無様さをこれ以上表に出さないよう、必死にこらえるのであった。
これまでの厳しい道程を忘れるほど穏やかな日々を経て、年は暮れてゆく。
そして、聖王暦二九八年最後の日がやってきたのであった。
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