第4章:緋翼(8)
あと一押しでグリッド将軍を陥落できる。そう信じた直後、突然身を襲った圧迫感に、クレテスは体勢を崩しかけ、何とか踏み留まった。しかし、身体はそれ以上言う事を聞かず、指一本動かす事も叶わない。目線だけを動かせば、仲間達も同じように動きを封じられているようだった。
魔道に疎いクレテスでもわかる。これは並大抵の業ではない。高度の魔法だ。クレテスが思い至るのを待っていたかのように、室内の一角に赤い転移魔法陣が生じ、黒ローブの男が姿を現した。たちまち満ちる邪悪さすら感じる魔力の気配に、息苦しさを覚える。
「こ、こいつです」
魔道に通じる者の方が、より威圧感を強く受けるのだろうか。その場にくずおれそうな姉セティエに肩を貸して片膝をつきながら、ティムが声を絞り出した。
「ジョルツに魔法の力を与えていた、魔族……!」
「お、おお、ニードヘグ!」
この中で唯一影響を受けていないのか、グリッドがすがるように魔族のもとへ歩み寄ってゆく。それは、この魔族が自分達の敵だという、決定的な証拠だ。
「助けてくれ。そなたなら、この程度の若造共、難無く塵にできるであろう!?」
その言葉に、魔族がフードの下で、にい、と唇を持ち上げた。魔族の証拠である尖った耳介が、ちらりとのぞく。
「元よりそのつもり。グリッド将軍は、反乱軍がカレドニアに侵攻してきた事を、バルトレット陛下に報告し、再戦の準備を整えられると良い。鼠共は、こちらで始末しておきましょう」
『陛下への報告』と『再戦の準備』は、仮にも将軍である男の矜持を保つには充分すぎる言い訳であったらしい。グリッドはこくこくと何度もうなずくと、巨体を揺らし、まろびそうな勢いで部屋を飛び出していった。
「……負け犬が」
ニードヘグと呼ばれた魔族は、その背を見送って嘲笑を洩らす。それから、ゆっくりと視線を室内に戻し、クレテス達を順繰りに見回した。
「さて、エステルに群がる蝿どもは、どう始末してやろう? 一匹ずつ捻り潰すのが、残されてゆく輩の恐怖を煽るには良いか?」
そもそも答えなど求めていないだろうに。動けぬこちらを嬲るように
「貴様らが戻らねば、エステルとアルフォンスは姉弟で殺し合う。その後にこの大地に満ちるのは、悲嘆と絶望と、果てしなき憎悪と殺戮の連鎖。『ヴァロール』の好む、最高の味付けよ」
「な、何言ってるんだよ、こいつ……」
「わかったら苦労はしない……!」
くつくつと肩を揺らして笑う魔族の言葉に、リタとユウェインが戸惑い気味に声をあげる。床に横たわったままのクリフが全く反応しないのは、グリッドに喰らった一撃で気絶しているのかもしれない。
何とかならないのか。何とかしなければ。焦燥に駆られるクレテスの耳に、邪悪な空気を引き裂くような張りのある歌声が届いたのは、その時だった。ニードヘグが明らかに動揺し、全身に絡みついていた見えない糸が一斉に切り離されたかのごとく、身体が統制を取り戻す。
「悪いね、遅くなった!」
全く悪いと思っていなさそうな声色で部屋に飛び込んできたのは、砦内の無力化を依頼していたエシャラ・レイだ。こちらは全滅寸前だったというのに、その呑気さに、笑いすら洩れそうになる。
だが、本当に笑っている場合ではない。クレテスは武器を構え、ニードヘグに斬りかかる。リタとユウェインも続き、立ち直ったセティエとティムが魔法で援護する。しかし、攻撃のことごとくは、魔族が生み出した障壁に阻まれ、炎と風は立ち消え、武器は弾き返された。
「『フォモール』の助力を得たところで、人間ごときが、儂を倒せると思うてか!」
『ヴァロール』同様耳慣れぬ言葉を吐き、ニードヘグが両手に黒い魔力の球体を生み出す。自分に向けてまっすぐに放たれたそれに対し、クレテスは反射的にクラウ・ソラスを振り抜いていた。
白銀の刃が青白い光を放つ。白銀聖王剣の前に魔力球はいともあっけなく四散する。驚いたのだろう、一歩後退る魔族を追い詰めるように踏み込んだクレテスは、クラウ・ソラスを振り下ろした。
致命傷には至らなかった、と今までの戦いの経験から察する。銀の刃は、魔族の右腕を浅く斬り裂くに留まった。ところが。
「クラウ・ソラスを正しく使えるだと? まさか、貴様は……!?」
ぽたぽたと、白い絨毯に赤い血を滴らせる腕を反対の手でおさえながら、魔族が呪詛のような声を絞り出す。
「馬鹿な、貴様は十七年前に死んだはずだ! 何故、何故生きている!?」
言葉の意味をクレテスが呑み込む前に、ニードヘグは転移魔法陣を描き、その場から消えた。部屋中を覆っていた圧迫感が消え、誰もがその場にへたり込む。
「なんっ、なんだよ、あれ!」リタが今更怒りが湧いたかのように声を張り上げた。「帝国には、あんなのがごろごろいるって訳!?」
「私に術をかけた魔族も、相当なものだったしな。ありえない事ではない」
ユウェインが馬鹿真面目に答えて、「認めなくていい!」とリタに後頭部を叩かれる。
「すみません、お役に立てなくて」
「物凄い、闇の魔力を感じました……正直、怖かった……!」
リーヴス姉弟は、セティエが立ち直るのと入れ替わりに、今度はティムが腰を抜かしてしまったようだ。やはり魔道士は、魔族の脅威をより強く感じ取ったようだ。エシャラ・レイは、いつに無く鋭い視線で、ニードヘグの消えた場所を睨みつけている。
一通り見回したクレテスは、手の中のクラウ・ソラスに視線を落とす。白銀聖王剣から光は消え、ただの銀の刃に戻っている。
『正しく使える』『十七年前に死んだはずだ』
ニードヘグの声が脳裏で反響し、疑問符を浮かび上がらせる。そういえば、ユウェインがこの剣を持ってきた際にも、自分を指名して託されたはずだ。
(おれがこの剣を使えるのは、特別なのか?)
心で問いかけても、剣が答えてくれるはずも無い。それに今は、己に隠された秘密より優先させるべき事項がある。クレテスは剣を鞘に納め、背後を振り返った。
グリッドに囚われていた少女は、いつの間にか意識を取り戻したクリフが、縄を断ち切って自由にしてやっていた。クレテスが歩み寄ると、彼女は存外しゃんとした動きで立ち上がり、菫色の瞳でまっすぐに見上げてくる。その瞳を見つめていると、己の中の知らない秘密を暴かれるようで、どこか落ち着かない。
「ありがとうございます、クレテス様。ファティマ・リードリンガーです」
自分は名乗っただろうか。クレテスが疑問を覚えている間に、少女――ファティマは静かに礼をする。所作に合わせて、長い薄緑の髪がさらりと流れた。
「あの魔族ニードヘグは、いいえ、もっと大きな悪しき意志は、兄様とエステル様から、憎悪と破滅を大陸中に広めようとしています。どうかそれを止める為、お力添えをお願いいたします」
彼女が何をどこまで見抜いているのか、クレテスにはわからない。だが今、彼女と自分の願いは同じに重なるのだと信じ、大きくうなずく。
「おれからも頼む。二人を助ける為に、君の存在が必要だ」
クレテスの言葉に、ファティマは一度、二度、瞳を瞬かせて、「はい」と首肯するのであった。
東の空が白んでくる。
緊張か、はたまた肉親に会えた興奮か。シーバの傍らで、アルフォンスと共にぽつりぽつりと言葉を交わして夜を明かしたエステルは、寝不足でややぼうっとする頭をおさえながら、ブレーネ砦の方角を祈るように見やる。そして、瞠目した。
薄明の中、駆けてくる人馬の姿がある。隣でそれに気づいたアルフォンスの方が遠目が利くらしく、「……ファティマ」と零したかと思うと、弾かれたようにガルーダの背に飛び乗る。彼が手を伸ばしてくれたので、同乗しても良いのだと思い至る。振り返れば、全てを察してくれたのだろう、叔父はエステルを見つめてしっかりとうなずいた。
弟の手を取り、幻鳥の背へ。アルフォンスが鐙に蹴りをくれると、ガルーダは銀の翼を広げて、夜明けの空へ飛び立った。
両者がかち合う地点で、馬が止まる。ガルーダは上空で一度旋回して地上に降り立つ。降りる間ももどかしいとばかりにエステル達が飛び降りると。
「アルフォンス兄様!」
クレテスの馬に同乗してきた少女ファティマが、心底からの喜びの声をあげて馬から降り、血の繋がりの無い兄妹は、しっかりと抱擁を交わした。
「良かった、兄様、本当に……」
「ファティマ、ごめん。君を怖い目に遭わせて、本当にすまない」
二人が無事に再会できた事に、エステルは深い安堵の息をつく。
「エステル、間に合って良かった」
そこに優しくかけられる声があって、そちらを振り向いた途端、エステルの中で完全に、緊張の糸が切れる音がした。
「クレテス!」「うおっ!?」
下馬して体勢を整えていない少年の胸に、なりふり構わず飛び込む。彼の背中に回した自分の腕がかたかた震えている事で、自分がこの一晩どれだけ気を張っていたかが、まざまざと感じて取れた。
「あ、あの? エステル? エステルさーん?」
「クレテス、貴方が無事で良かった……!」
クレテスが己の腕のやり場に困って、降参の形を取っているのにも気づかず、エステルはむせび泣きそうにすらなる。リタやユウェイン達も目を丸くしているが、それに気づく余裕も無かった。
のだが。
「ンッンー。二組とも、お熱いところ、そろそろいいかなあ?」
皆の気持ちを代弁したエシャが、わざとらしく咳払いをしたので、エステルもアルフォンスもはっと我に返り、お互いの相手から腕を解く。特にエステルは、茹で蛸のように真っ赤になってしまった。
「エステル」
動悸が治まったところで、アルフォンスが神妙な表情をして、頭を下げてくる。
「本当に済まなかった。ファティマを楯に取られていたとはいえ、僕はとんでもない事をしでかしてしまった。僕に君の弟を名乗る資格は無い」
彼の謝罪に、しかしエステルはしっかりと首を横に振って、言い切った。
「大切なのは、今まで何をしてきたかではなく、これからどうしてゆくかです、アルフォンス。カレドニアを、ひいては大陸全土を救う為に、どうか貴方の力を貸してください」
アルフォンスは軽く目をみはったが、それ以上反論する事は無かった。腹を括ったのか、「わかった」とうなずき、己の胸に拳を当てる。
「カレドニアを離れるのは心苦しいけれど、僕の行動で人々が救われるならば、僕は、僕の心に正直に戦おう」
その言葉にエステルはほっと息をつき、「それにね」と笑み崩れて、アルフォンスとファティマを交互に見つめる。
「こんなに素敵な弟と妹が同時にできて、私は今、すごく嬉しいの」
それを聞いたリードリンガー兄妹は、一瞬揃って虚を衝かれたような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
『優女王』とその伴侶の子供達は、約十七年の時を経て、再び巡り会った。
その再会を祝福するように、昇り始めた太陽は、大地を明るく照らし出すのであった。
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