第4章:緋翼(7)

 馬を走らせている間に身を打った雷雨は、既に去って久しい。丘の上から見下ろすブレーネ砦には、日が暮れてあちこちで篝火が焚かれ、視線を上に向ければ、月が笑みを象って見下ろしている。

「確かに見張りはいるぜ」

 偵察に出したクリフがこきぽき首を鳴らしながら戻ってくる。

「大した数じゃあないけど、この人数で相手をするには、ちょいと骨が折れるかな、ってくらい」

「だろうな」

 見張りの人数を指折り数える少年の報告を受けて、クレテスは静かにうなずき、背後の切り札を振り返った。

「人使い荒いねー」

 役割に気づいたエシャラ・レイが、ふたつに結わいた髪を揺らして、揶揄からかうように笑みを見せる。クリフといいこの歌い手といい、少人数の隠密強行軍にしては、呑気な者が多くないだろうか。

(いや、選んだのはおれだしな。エステルにも信じろって言っちまったし)

 今更後悔しても仕方が無い。折しもブレーネ砦に向けてこちらは風上だ。ティムの風魔法に頼るまでもなく、エシャの歌が届く用意は整った。

 しゃくしゃくと。水滴の残る草を踏み締めてエシャが皆の前に進み出る。すうっと肺いっぱいに空気を吸い込むと、空気を叩くような歌声が辺りに響き渡った。

 不可思議な力を込めた子守歌の前に、ブレーネ砦の見張りに立っていた兵が次々と昏倒してゆく。砦内にどれだけ残兵がいるかはわからないが、自分達の目的は敵を殲滅する事ではない。人質のファティマを救出できればそれで満点だ。

「行くぞ!」

 仲間達に声をかけ、クレテスは馬に再びまたがる。そして、ブレーネ砦目指して丘を駆け下りてゆくのであった。


「将軍! グリッド将軍!」

 砦内の自室で、カレドニア特有の度の強い酒を飲んでいたグリッドは、部下が焦った様子で飛び込んできたので、驚きグラスを取り落としてしまった。たちまち白い絨毯に染みが広がってゆく。

「何事だ、騒々しい!」

 カレドニアの平民なら祭の時でもなければ味わえない貴重な酒を無駄にした事よりも、夜更けの優雅な時間を邪魔された事に苛立って怒鳴りつけると、部下は「はっ、申し訳ございません」と慌てて敬礼し、しかしその間すら惜しい様子で先を継いだ。

「砦内に賊が侵入した模様です。魔道士もいるのか、応戦した兵が次々無力化されてゆきます」

 その言葉に、グリッドは口の中に残っていた酒をぶっと吹き出す。まがりなりにも彼も『緑の楯』の二つ名を戴いたカレドニアの将。ただの賊ではない事はすぐにわかった。

 しかし、「倒されて」ではなく「無力化されて」ゆく兵とはどういう事だ。相手は魔族でも抱えているのだろうか。未知の脅威にうっすらとした恐怖を覚え、でっぷりした身体がゆらあとのけぞりそうになった時。

「わたしを解放してください」

 凜とした声が、グリッドの横から耳に滑り込んできた。そちらに目をやれば、アルフォンスへの人質に連れてきて、手元に置いた少女が、菫色の瞳でまっすぐに見つめている。

「黒い意志が、兄様とエステル様から、災いを広げようとしています。それに巻き込まれるのはお二人だけではありません。貴方にも及ぶでしょう。わたしは、それを止めたいのです」

 首をつかんで力を込めれば容易く骨が折れてしまいそうな、あまりにも華奢な少女から発せられた台詞の全てを、グリッドは理解した訳ではなかった。だが、「災い」が「貴方にも及ぶでしょう」という事だけは、彼の恐怖心をより煽り、しかし長年培った武人の矜持をもって反発させるには、充分であった。

「何をわけのわからん事を言っている!」

 ぱん、と。頬を一打ちすれば、後ろ手に縛られた少女の身体は簡単に椅子から転げ落ち、床に叩きつけられた。それでも尚、彼女は泣き出す事も命乞いもせず、ひしとこちらを見すえてくる。

 何だ、この娘は。

 身の危険とは異なるうすら怖さが、グリッドの背筋を這い上がる。次に彼が取った行動は、腰の剣を引き抜き、少女の首に切っ先を向ける事であった。

「陛下には、お前が妙な行動を取れば、殺しても構わぬと言われているのだぞ。いっそここで切り刻んで、アルフォンスの小僧がどんな顔をするか、見物してやろうか!」

「それは悪趣味な事で」

 突如真横で囁かれた、今ここにいたはずの人間とは違う声、そして頸動脈を違わず狙って突きつけられた鋭利な突起物の感触に、グリッドの顔からさっと血の気が引いた。

 恐る恐る視線を滑らせる。オレンジ色の髪の少年が、いつでもこちらの命を奪えるように、暗器を構えている。報告に来た兵は昏倒させられ、少年の他に五人の闖入者がいた。

「グリッド将軍、この砦は既に制圧した。武器を手にしているのは貴方一人だ」

 先頭に立つ金髪の少年が、銀の剣を手に、一歩ずつ歩み寄ってくる。

「今すぐ剣を引き、その少女を解放すれば、生命までは取らない。それはエステルの望むところじゃあない」

 その名を聞き、グリッドは悟った。こいつらは、反乱軍だ。しかも、エステル王女のかなり近くにいる者だ。それが証拠に。

「エステルの考えとか、どうでもいいじゃん。こいつもやっつけとけば、後々問題無いだろ?」

「何でもかんでも、殺す事で解決しようとするな、リタ。命を失わせない為に、我々はこうして来たのだろう」

 武器を持たぬ拳闘士らしき少女が、頭の後ろで手を組んで物騒な事を言うのを、隣に立つ騎士然とした青年がたしなめる。完全に自分を脇に置いた態度を見て、グリッドの頭に血が上った。

「な、なめおって!」

 暗器を突きつける少年の鳩尾に左肘を喰らわせて怯ませると、アルフォンスの妹めがけて剣を振り上げる。しかしそれは、咄嗟に二人の間に割って入った金髪の少年の刃に阻まれ、弾かれた剣が手の中からすっぽ抜けて、部屋の隅へと飛ばされた。

「あんたはとっくに詰んでる」

 それまでの落ち着いた物言いとは打って変わって、少年がぞんざいな口調になり、彼の握った銀の輝きが、鼻先で鋭く光る。

「おれはエステルほど他人を許せる人間じゃない。悠長に待ってなんかいられない。あんたにできるのは、大人しく降伏して、おれ達が立ち去るのを見逃す事だけだ。その後あんたがどうなろうと、おれは知った事じゃあないし、そうしないってなら」

 一拍置いて、蒼い瞳が、鋭く射抜く。続けられるだろう言葉を想像して、グリッドの背筋をだらだらと汗が伝った時。

『それ』は、訪れた。

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