第4章:緋翼(6)

 雷雨が去った夜空には、半月が笑っている。アルフレッドを伴って『銀鳥隊』が待機する砦に着いたエステルは、やけに所作が優雅なカレドニア兵の案内で、砦の一室に通された。解放軍の大将が来るという事で、即興で簡単に埃を取り払ったのだろう部屋は、まだ少し喉がいがらっぽくなるが、文句を言えた身分ではない。

 部屋を用意してもらっただけでも充分なのに、しとどに濡れた身体を拭く為のタオルが数枚と、着替えの服が与えられた。

「私は部屋の外に待機しております」

 幼い頃は一緒に風呂に入ったりもした叔父だが、流石にこの歳になっては、分別をつけなくてはならない。アルフレッドが一礼して部屋を出てゆき、扉が閉められると、エステルはタオルで髪から身体までを充分に拭き、着替えとして用意されたカレドニア女性兵の制服に袖を通す。濃紺の制服は、事前にエステルの体格を把握していたのかとばかりに、ぴったりと身に沿った。

 それまで身につけていた戦装束は、後で乾かす為にまとめて畳み、テーブルの上に置く。その脇にひっそりと置かれていた茶器に目をやり、大声を出して喉が渇いていた事を思い出した。

 ソファに腰掛け、ポットからカップへ茶を自分で注ぐ。紅茶ではないのだろうか、随分と泥臭い野菜のようなにおいが鼻腔に滑り込む。口に含めば、やはり根菜に似た味が舌に触れた。

「……エステル様」

 少し呆れたようなアルフレッドの声が耳に届いたので、顔を上げる。時間を見計らって部屋に入ってきたのだろう叔父は、声音通り眉間に皺を寄せて、深い溜息をついた。

「仮にもここは敵地です。出されたものを素直に口になさらないでください。毒が仕込まれている可能性があります」

 きょとんと目を瞬かせてしまう。まさかそんな事があるなどとは、全く考えていなかった。いくら何でも彼は猜疑心が強すぎるのではないだろうか。口を開きかけると。

「成程。お姫様はそうして聖剣士様が守っていらしたのですね」

 くすくすと笑う声が聞こえ、先程エステルをこの部屋に案内してくれたカレドニア兵が再び顔を見せた。どう見ても男なのに、女性のようにしなを作って、自分よりしとやかなのではないかという所作をする。

「坊ちゃまがお嬢様を大事にされるように、お姫様にはつよーい騎士がついていらして」

「私は騎士ではない。傭兵の道しか選べなかった」

 アルフレッドが少し気分を害した様子で訂正しても、カレドニア兵は「ええ、ええ。存じておりましてよ」と、唇の両端を持ち上げ、ゆるりとうなずくばかり。

「腹違いの弟君を唯一の家族として愛された、ランドール将軍のお話は、我が主からよくお聞きしましたから」

 そう言いながら、彼はテーブルの横に歩み寄ってきてポットを手に取り、「やっぱり、ぬるくなってますわね」と撫で回す。

「こんなお茶しか出せなくてごめんなさいね、エステル王女。だけど、この根菜茶が、カレドニアでは一般的に飲まれていて、戦場にも持ってゆける限界なの」

 それを聞いて、エステルは気恥ずかしさに頬を染める。たしかに、正直に言ってしまえば美味くはない茶だと思った。だが、カレドニアが貧しい土壌である事は聞いている。紅茶などの嗜好品は容易には入手できず、この山地でも逞しく育つ作物を原料にするしか無かったのだ。今まで自分がどれだけ恵まれた生活をしてきたかを思い知り、ただただ恥じ入るしか無い。

 だが、カレドニア兵はエステルの無知を責めるでもなく、「そうだわ」とポットをテーブルに置き直し、両手を打ち合わせる。

「ごはんも大した物はお出しできないけれど、姉弟きょうだい水入らずでお召し上がりになる? ご用意いたしましてよ」

 ここは彼の厚意に甘えて良いだろうか。隣で叔父が、賛成しかねる、という表情を浮かべている。が、こちらから信用して一歩を踏み出さなくては、向こうが近寄ってくれるはずも無い。「お願いします」と、軽く頭を下げた。

 兵の案内について、砦の屋上へ。そこには、銀の羽根を月明かりにしらじらと照らされる幻鳥ガルーダと、櫛でその毛並みを梳く少年の姿があった。訪問者の気配に気づいて、手を止めこちらを振り向く顔は、やはり自分とよく似ている。

「坊ちゃま、お姉様が貴方とお食事をご一緒したいと」

「ジャスター、だから『坊ちゃま』は……」

 正式な部下だと思っていたのだが、その呼び方に、エステルもアルフレッドも目を丸くしたのを見取ったのだろう。アルフォンスが肩を落として首を横に振るが、ジャスターと呼ばれたカレドニア兵は全くこたえた様子を見せない。

「聖剣士様はいかがなさいます? こちらで?」

「ああ。お二人が見える場所にいさせてもらう」

 邪魔はしないが、万一の時には剣を抜いて飛び出せる距離を保つという事だろう。ジャスターは「賢明なご判断」と口元に手を当てくすくす笑うと、食事を用意する為だろう、階下へ姿を消した。

 アルフレッドが目礼して、離れた場所に腰を下ろす。エステルはゆっくりとアルフォンスのもとへ近づき、隣に並んでガルーダを見上げた。

「綺麗な毛並みですね」

「大事な相棒だからね。手入れは他人任せにしたくないんだ」

 櫛を梳く手を止めて、アルフォンスがこちらを向く。やはり、色は違えど、鏡を見ているような気分になる顔だ。それこそが、自分達に血の繋がりがあるという証なのだろう。そう考えていると、ふわりと柔らかい感触が頬に触れた。吃驚して顔を向ければ、ぼふんと羽毛の中に顔を突っ込む羽目になる。ガルーダが、エステルに身をすり寄せて、気持ち良さそうに目を細めていた。

「驚いた」アルフォンスが、本当に驚愕している様子で洩らす。「シーバは、知らない人間に触れられるのを嫌がるのに」

 きっとわかるんだな、と彼は小さく呟く。何が「わかる」のかまでは、明言しなかったが。

「あの、訊いても良いですか」

 何か話さなくては。しかし、姉弟とはいえ、初めて言葉を交わす相手に対して共通の話題がなかなか見出せず、結局は目の前の生き物に頼る事になってしまう。

「僕に答えられる事なら、何でも」

 同じ思いなのだろう、アルフォンスがまだ少し緊張した面持ちでうなずくのを見届けると、エステルは、気持ちよさそうにごろごろ喉を鳴らすシーバの毛並みを撫でながら、問いかけた。

「ガルーダは、私達のお父様が乗っていた『ブリューナク』以外、もうこの大陸にはいないと言われていたそうですが、この子はどこで?」

 かつて叔父から聞いた話を思い出しながら質問を投げかけると、アルフォンスは一瞬口ごもり、だが、意を決したように語り出した。

「子供の頃、いじめられて街を飛び出したファティマを探しに行ったら、一緒に森で迷ってね」

 これは口を挟んではいけない話だ。そう感じ取って、無言で先を促す。

「陽は落ちて、真っ暗で、寒くて。だけど、僕が泣いたらファティマまで心細い思いをするから、必死に我慢していた。そうしたら、ファティマが」

『お兄ちゃん、こっちに温かい光があるよ』

 そう告げて兄の袖を引く先についてゆくと、樹のうろに産み落とされた卵があり、唯一かえった雛が、兄妹の姿を見て、すり寄ってきたのだという。

「僕らは身を寄せ合って、お互いを温めて一晩を越した。それからこいつとは、八年の付き合いさ」

 エステルは、その巡り合わせの奇跡に目をみはる。だが、アルフォンスの話にひとつ引っ掛かる点を見出して、問いかけずにはいられなかった。

「ファティマさん、は」

 皆まで言わずとも、流石は双子、察してくれたのだろう。アルフォンスは半月を仰いで少し長い溜息をついた後、再度口を開いた。

「ファティマには、時折未来を『視る』力がある。養母上ははうえが、『ウルザンブルン』という、聖王妃セリアの故郷である里の出身で、そういう力を代々受け継いでいたらしい」

 最初は、「この道を行くと危ない」、「明日怪我をするよ」程度の、子供の戯言と笑って流せるものだったという。しかしある時、とある貴族の死期を、死に方まで明確に言い当てた事から、ファティマは気味悪がられ、口さがない大人達に吹き込まれた子供達はこぞって彼女を異端扱いし、石を、心無い言葉を投げつけたのだと。

 それでエステルも理解した。幼い頃から共に過ごした家族であり、陰に陽に虐げられる妹を、アルフォンスは何としてでも守りたいと思ったのだろう。幼い頃から愛おしく思った存在と、まともに言葉も交わした事も無い姉。天秤にかけてどちらに傾くかは、自明の理だったのだ。

 だが、エステルにアルフォンスを責める気は無かった。自分もこの弟の存在を知らない頃に、彼とトルヴェールの幼馴染の誰か、どちらかしか救えないと選択を迫られたら、選び取る道は決まっている。クレテスなら尚更だ。そう考えたところで。

(どうしてクレテスが最初に浮かぶの?)

 自分の思考がわからなくて、少し熱を持った両頬を手でおさえる。『必ずお前を守るから、信じててくれ』と細めた蒼の瞳を思い出すと、動悸が増す。この動揺の意味を求めてぐるぐる思考を巡らせていると。

「坊ちゃま、エステル様。お待たせいたしました」

 二人分の食事の盆を持ったジャスターが、颯爽と姿を現した。礼を言いながら盆を受け取れば、黒麦のパンと、小さめな鳥肉のソテー、そして根菜多めのスープに、ムスペルヘイムでもよく食べていた小林檎が載っている。

「お姫様のお口には貧相かもしれませんけれど」

「いいえ、充分です。ありがとうございます」

 カレドニアの食事情を聞いた今となっては、笑い飛ばす事もできない。エステルはジャスターの揶揄に対して、神妙な表情で頭を下げた。

 彼が下がり、また二人の時間が訪れる。向かい合って腰を下ろした双子は、しばらくの間、黙って食事をしていたが。

「……僕は、両親に捨てられたと思っていたんだ」

 不意にアルフォンスがぽそりと洩らした言葉に、はっとして顔を上げる。お前だけ選ばれたのだと恨み言をぶつけられる覚悟も決めて続きを待つと、そうではない、と示すように、少年は首を横に振った。

「さっき言っただろう。養母はウルザンブルンの出身だと。ファティマほどではないけれど、養母にも同じ力があったんだ」

 十六年前、グランディア王家と懇意にしている一族として、世継ぎの誕生祝いに王都アガートラムを訪れ、ミスティ女王に謁見したリードリンガー伯爵夫人マリアナは、双子の王子と王女の顔を見るなり、深刻な表情をして、女王夫妻に告げたという。


『お子様方は、途方も無い巨大な運命に巻き込まれる未来を背負っています。このままでは、女王陛下にも、騎士団長殿にも、お子様方にも。この大陸の全ての者に死しか訪れません』

 我が子らを抱いて絶句する女王と騎士に、『ですが』とマリアナは更に毅然と語を継いだ。

『お一人を手放せば、未来は変わります。しかし、わたくしには「視えない」不確定な未来へと』


「子供が欲しい夫婦がでっちあげた冗談と、笑い飛ばす事もできただろう。だけど、父上と母上は、悩み抜かれた末、聖王槍と共に、養父ちちへ僕を託した」

 アルフォンスが視線を馳せた先を、エステルも目で追う。見える範囲にはあるが、いきなり手にしてこちらに襲いかかる事のできない場所に、聖王槍ロンギヌスが立て掛けられている。その姿は、月明かりを受けてぼんやりとした光を放っているように見える。

「その話を聞いた時、僕は見捨てられた子供なのかと、病床の養父に思わず詰め寄ってしまった。だけど、養父は言ったんだ」

『貴方のお名前が、ご両親に深く愛されている証拠です』

 それを聞いて、エステルもかつて誰かから聞いた話を思い出す。世界アルファズルの一部、アルやアルフを抱く名は、『世界の全てが敵だとしても、私は貴方を愛している』という、名付け親の思いが込められているのだと。

「僕は、両親に確かに愛されていたんだ」

 アルフォンスの目の端に光ったものを、エステルは顔を伏せスープをすする事で、見ない振りをした。もしかしたら、両親の決断次第では、立場が逆になっていたかもしれない。弟が正統なるグランディア王族として解放軍を率いて、自分がカレドニアの将として対峙していたかもしれないのだ。その時、彼を憎まずに相対する事ができるか。エステルには想像の及ばぬ範囲であった。

「それでも」

 アルフォンスの声が、エステルの意識を思考の輪から現実に引き戻す。

「僕にとって、カレドニアは大事な故郷なんだ。この国の人々が笑顔で生きられる道を探したい。だから、大切な人を見捨てる事もできない」

 すまない、という呟きは空気に溶けて消えそうな小ささで、耳に滑り込む。しかし、エステルには彼を非難する理由が無い。正義は、信じるものは、そして大切な相手は、人によって違う。それをここまでの道程で学んできた。

 どうにかして、肉親の願いを叶えたい。その為にも今は、自分の望む道が続く事を願う。

(クレテス、お願いします)

 彼が同じ月を見上げていると信じて、エステルは祈る気持ちで空を仰いだ。

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