第4章:緋翼(5)
カルミナ上空を覆う暗い雲から、ぽつぽつと雨が降り出した夕刻の事だった。
「エステル様。『銀鳥隊』と思しき部隊が、向かってきます」
執務室で、喉を通らない紅茶のカップを前にぼうっとしていたエステルのもとへ、急いた様子で報告にやってきたのは、数騎の
「あと一日あれば、交戦を避けられたのに」
痛恨の極みに、エステルは唇を噛み締める。今にも泣き出しそうな自分の顔が、カップに注がれた茶の表面に映るが、決してこんな表情を兵の前に見せてはならない。
クレテスはブレーネに着く頃だろう。本隊と『銀鳥隊』がぶつかり合ったのを知れば、『青矛隊』を討ちに部隊を率いて発ったテュアンも動き出すはずだ。今は彼らを信じ、自分にできる全力を尽くさねばならない。
「叔父様、全軍に戦闘準備の命令を。私も出ます」
傍らに待機していたアルフレッドに声をかけ、壁に立てかけてあった剣を腰に佩く。
「エステル様……」
叔父は腕組みし、苦々しい表情で何かを告げかけたが、言わんとしている事はわかる。
「アルフォンスを説得するのは、姉である私の役目です。他の誰にも任せられません」
機先を制して早口で言い切れば、これ以上の口出しは無用と悟ったのか、アルフレッドも腕を解き、無言で低頭した。
にわかに慌ただしくなった砦内を足早に進む。外へ出れば、戦える者達は既に準備を整え、後は盟主の号令を待つばかりになっていた。
握り締めた拳がわずかに震えているのがわかる。喉には激情の赴くままに吐き出したい叫びがつかえている。それらを全て抑え込んで、エステルは剣を鞘から抜き、高々と掲げた。
「我々はあくまで、別働隊が役目を果たすまで持ちこたえれば良いのです。戦意の無い者の命を奪う事は無いように!」
奇しくもアルフォンスと似たような言葉を放ち、エステルはより一層声を張り上げる。
「迎撃を!」
その言葉に戦士達が拳を突き上げて応える。
銀の翼が先頭に舞う魔獣騎士部隊は、最早視認できる距離まで近づいていた。
解放軍と『銀鳥隊』の先陣が激突すると同時、紫色の空を鋭い稲妻が切り裂き、間断を置かずに轟音が響き渡った。雨足はあっという間に強まり、視界を悪くする。豪雨は飛行魔獣の翼を重くする。だが、地上から弓兵が狙いを定める事も難しくなるのだ。
グリフォンナイト達は槍を手に、急降下して敵を突いては再び上空に舞い上がる、一撃離脱の戦法を取る。だが、敵の弓部隊には視界の悪さに慣れた手練でもいるのか。一騎、また一騎と魔獣の翼を矢に貫かれ、くるくる回転しながら地上へ落ちてゆく。
「ザイード、ハルシア、メーレ……」
気さくに、しかし年若い隊長を馬鹿にする事無く接してきてくれた部下の命が、次々と失われてゆく。アルフォンスは墜とされた騎士達の名前を呟き、ぐっと奥歯を噛み締めた。
(すまない。だが、僕もすぐに後を追う)
ぎんと地上を睨みつけ、ロンギヌスを力強く握り締める。聖王の血筋に呼応するかのように、聖槍が青い光を放つ。後は射ち落とされるまで敵を屠るのみ。
雨で狭まった視界に、ぎょっとした顔で弓を構える兵の姿が飛び込んでくる。右手を突き出せば、槍は容易く相手の鎧を貫通し、幻鳥も騎士も共に返り血を浴びる。
動かなくなった敵から槍を引き抜き、手元で柄を回転させる。雨の中を飛んできた矢が、次々と弾き飛ばされた。
再び空を稲妻が走り、一瞬、戦場を真昼のように照らし出す。修羅のごとくぎらぎらと目を輝かせ、また一人討たんとガルーダを急降下させたアルフォンスの眼前に。
「待って! 待ってください!」
武器を鞘に納めたまま、味方をかき分け飛び出してきた少女がいて、彼の意識は、一気に現実に引き戻された。水色がかった銀色の髪。
「シーバ!」少女のもとへ吶喊してゆく相棒に必死に呼びかけ、手綱を引きながら、己の右手にも制動をかける。「駄目だ、止まれシーバ!!」
がくん、と。つんのめりそうな衝撃が訪れる。自分の荒い呼吸だけがやけに大きく耳に届く。
ロンギヌスの穂先は、少女――エステルの眼前すれすれで、止まっていた。
心臓がばくばくと速く脈打ち、全身からどっと汗が噴き出すが、雨に打たれてすぐに感覚がわからなくなる。あと一瞬遅かったら、彼女の身を聖王槍が貫いていた事実に、頭から血の気が引いた。大将同士が向き合い、しかし刃を交わさない事に、両軍の兵が戸惑い、自然と戦いを中断して、二人に注視する。
「アルフォンス、ですね」
生命の危機にさらされた恐怖を押し込めているのか、エステルが、少しだけ引きつった笑みを向ける。
「はじめまして、って言うのも、変かもしれませんけど。一緒に生まれたのだから」
「エステル、王女」
彼女は既に自分達の関係を知っている。それを承知の上で、アルフォンスは他人行儀な呼び方をしながら、槍を持つ手をだらりと下げた。
「頼む、剣を取ってくれ。僕には、退けない理由が、貴女を倒さなくてはいけない理由があるんだ」
「わかっています。ファティマさんの為でしょう?」
何故それを知っているのか。軽く目を見開くと、エステルは懐から一通の封筒を取り出した。封蝋に刻まれた刻印は、よく文を交わして見慣れたものだ。今回ばかりは助け船を出してくれなかったと諦めていたジャンヌ王女が、裏で手を回していてくれたのか。
「愚かだと思うだろう?」
だが、それが何になるのだろう。義妹を人質に取られている事実がエステルに知られたところで、状況は何も変わりはしないのだ。アルフォンスは唇を自嘲気味に歪めた。
「実の姉より、血の繋がりも無い妹の方が大事な弟なんて、貴女にはいない方が良い。退く事も討つ事もできない身なんだ、いっそ貴女の手で、この首を落としてくれ」
エステルが、驚きに目を真ん丸くする。後は彼女が剣を抜き振り下ろすだけで、全てが終わる。両目を閉じたアルフォンスの耳に入ってきたのは、しかし。
「――何て事を言うの!!」
雷鳴すら凌駕する、物凄い剣幕の怒鳴り声だった。予想外の反応に、閉じていた目蓋を持ち上げれば、エステルはまなじりに涙をため、凄まじい眼力でこちらを睨みつけていた。
「貴方が死んだら、ファティマさんはどれだけ悲しむと思うんですか!? 彼女だけじゃないわ。やっと会えた、私のたった一人のきょうだいなのに!」
雨なのか涙なのかわからぬ水分で頬を濡らしながら、彼女はまっすぐにこちらを見すえてくる。心の内を全て見透かすかのような翠の視線を直視できなくて、「それでも」とアルフォンスはうつむき、絞り出すように続きを紡いだ。
「それでも僕は、カレドニアを裏切れない。僕が裏切れば、ファティマが殺される。それに、背後に控えるエルネスト将軍の『青矛隊』が、僕ら両軍を潰しにかかってくるだろう。僕の勝手で、部下まで巻き込む事になる」
「『青矛隊』は来ません」
きっぱりと言い切るエステルの言葉に、またも
「別働隊が撃破する手筈になっています。ブレーネ砦にも、私の信頼する仲間が到着しているはずです」
恐らくジャンヌ王女が、カレドニア軍の情報をエステルに伝えたのだろう。だが、その情報を信じて策を講じ、決断を下して、仲間を信用しているのは、間違い無く目の前の少女だ。細身からは信じられないほどの度量に、アルフォンスはただただ感服するしか無かった。
「お願いです。一晩だけ、戦いを止めて待ってください。明日の朝には、ブレーネへ向かった仲間が、ファティマさんを連れて戻ってきます。どうか彼らを信じてください」
両軍からどよめきが起きる。戦場のど真ん中で敵将の言葉を信じて武器を引けなど、正気を疑うような発言である。しかし、エステルの瞳は真剣で、一切の嘘も欺瞞も含まれていない事がわかる。これも、共にこの世に生まれ落ちた半身であるが故、魂の部分で感じ取っているのだろうか。
両肩から力が抜ける。最早アルフォンスの心から戦意は失われていた。ならば、すべき事は唯一つ。彼は顔を上げると、躊躇いがちに上空を旋回する部下達に届くように、声を張り上げた。
「戦闘停止! 砦に戻り、僕が良いと言うまで、攻撃を再開してはならない!」
魔獣騎士達の反応は早かった。こぞって敬礼するのが遠目に見えたかと思うと、すぐさま砦へ引き返してゆく。いつの間にか雨は止み、稜線の向こうに消えてゆく太陽が、雲間からうっすらと茜の名残を注いでいる。
「一晩だけ、だ。それ以上は、待てない」
ゆっくりと、再びエステルに視線を向け、静かに言い放つ。だが、彼女にはそれで充分だったようだ。安堵の吐息を洩らすのが聞こえる。
「では」
しかし、続けられた台詞に、アルフォンスはまたも仰天してしまった。曰く。
「私もそちらに行って、貴方と共に仲間を待ちましょう」
それには彼女の周囲の解放軍兵がざわめき出す。当たり前だ。一軍の将自らが敵地へ赴くなど、人質として全軍の命運を預けるに等しい。それだけこちらを信用しているのか。それともただの世間知らずの姫君の大胆な発案なのか。どう返事をすべきか戸惑っていると。
「では、私も同行いたします」
いつの間に近づいていたのか、それとも最初から二人の様子を間近で見守っていたのか。ラドロアで見た聖剣士アルフレッド・マリオスが、静かにエステルに寄り添った。
「ですが、叔父様」
「戦闘を中止したといえど、ここはまだ
戸惑うエステルに、聖剣士は静かに告げ、そして、鋭く目を細める。
「お二人の意志に反する輩は、鼠一匹たりとて逃がしはしません」
流石はグランディア王国時代から名を馳せた歴戦の戦士。自軍で良からぬ事を考える者はいないと思っているが、彼の存在が更なる抑止力になるだろうと、アルフォンスは判断し、
「では、よろしくお願いいたします」
と、深々と頭を下げるのであった。
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