第4章:緋翼(2)
秋が始まり、夏の暑さはあっという間に遠ざかってゆく。カレドニア軍がガルドとの国境付近に大規模な展開を敷き始めているとの報が、ウルズに滞在するエステルのもとに入ったのは、数日間しとしと降り続いた雨がようやく止んだ日の夕刻の事だった。
復興を始めたガルドを、これ以上戦禍に巻き込む訳にはいかない。エステルは解放軍の出立準備を整えると、ティファ女王に別れの挨拶を告げた。
「私にとって、貴女はとても大切な、娘のような存在です」
その場で女王は、玉座から降りると、またも優しくエステルを抱き締めてくれた。
「今度はガルドには、遊びにきてくださいね。その時はきっと、グランディアの女王として」
身に余る激励に対する感謝と、母親の温かさとはこういうものかという感動。ふたつの情動に、エステルは目尻ににじむ水分を自覚しながらも、「ありがとうございます」と静かな声で抱擁を返した。
ウルズを出立する解放軍を、ガルドの人々は熱い歓声で見送る。その中には、この国に残る事を決めた、トルヴェールの幼馴染パロマの姿もあった。
「勝って! 必ず勝ってよ! アタシはガルドを守るから!」
彼女は街壁の見張り台に昇って身を乗り出し、恋人のウォルターを初めとする周囲の人間に、危ないからとしがみつかれても、ウルズの街がこちらから見えなくなるまで、解放軍に向かって大きく手を振り続けた。
そして九月中旬。ガルドとカレドニアの国境にあるカルミナ砦に陣を据えたエステルは、主立った者を会議室に集め、今後の対応について語り合う事にした。
ガルディア半島の地図を広げ、クリフを筆頭にした偵察部隊が集めてきてくれた情報を整理する。
「バルトレット王は、動かせる軍を動かせる限り布陣させてる」
垢抜けない盗賊少年から一転、すっかり密偵の長としての責任感を備えてきたクリフが、敵軍の将を指折り数え上げた。
「『青の矛先』エルネスト、『緑の楯』グリッド、『銀の鳥』アルフォンス、そして『緋翼』ジャンヌ王女」
あちらの大将、自分の娘も手駒だぜ、と少年は呆れ気味にぼやく。
草原地帯が広がっているガルド王国と、険しい山脈ばかりが描かれているカレドニア王国。数十年前の地図でも国土の違いが一目瞭然な両国を見つめていたエステルは、ふと顔を上げ、傍らに立つ叔父アルフレッドが、やけに神妙な顔をして、思索に耽っているのに気づいた。
「叔父様?」
小首を傾げて問いかければ、彼はやっと現実に返ったとばかりにこちらを向き、済まなそうに頭を垂れる。
「あ、ああ、申し訳ございません、エステル様。少し、考え事をしておりました」
彼とテュアンには、カレドニアとの和解は難しいと一刀両断されてしまった。この期に及んでエステルがまだ、対話の道を、と言い出すのを恐れているのだろうか。愁眉を曇らせた時。
「エステル!」
「リタ、まずはノックだ。不躾にも程がある」
会議中にも関わらず遠慮会釈無く扉を開いたリタが飛び込んできて、後に続くユウェインにたしなめられる。
「何だよ。そんな暇こいてる内に攻め込まれたらどうするんだよ」
「作戦会議は軍事機密だ。万一敵に漏れたら、真っ先に君が嫌疑をかけられるぞ」
このままでは二人の言い争いが続いてしまう。「で、何なんだ」と、テュアンが腕組みをして眉間に皺を寄せた。たちまち飛び込んできた二人ははっと我に返り、「そうだ」とリタが身を乗り出す。
「カレドニア側から、
「数は?」
「それが、一騎なんだ」
すわ敵襲か。表情を険しくしたエステルに、しかしリタは困惑した様子で首を横に振った。
「しかも白旗を掲げております。ですので、エステル様に対応をおうかがいしようと思いまして」
続きを請け負ったユウェインの言葉に、エステルだけでなく、その場にいる誰もが驚きを隠せず、隣と囁き合う者まで出てくる。敵国とはいえ、戦意の無い者を一方的に射ち落とすのでは、反逆者だからと斬り捨てる、帝国のあくどい将軍と変わらない。ならば、自分が発する答えは一つだ。エステルはそう決意した。
「話を、聞いてみましょう。ラケに砦の屋上へ案内させてください」
それから十数分後、砦の屋上に、ラケの乗るアルシオンに導かれて魔獣騎士が降り立った。ラドロアで敵対した時は、やけに大きく獰猛に見えたグリフォンだが、間近で見てみると、意外に小柄で、その顔つきも普通の鳥のように穏やかに見える。
その背から降りた緋色の鎧の騎士は、ラケに何事かを言われると深くうなずき、帯剣していた武器を彼女に預ける。兜を脱げば、ばさりと長い髪が広がった。
女騎士だったのか。エステルは想定外の事態に目を丸くしてしまう。隣に立つ叔父にちらと視線を向ければ、彼も同じ思いなのか、褐色の瞳を軽い驚きに見開いていた。
エステル達の驚きに気づいているのかいないのか、女騎士はすらりと背筋の伸びた綺麗な歩き方で向かってくる。そして、話し声は充分届くが、決して瞬時にこちらに危害を加える事はできない距離で立ち止まり、深々と頭を垂れた。
「エステル王女、この場を設けてくださった事、深く感謝いたします。カレドニア第一王女ジャンヌ・サリア・フォン・カレドニア擁する『緋翼隊』副隊長、アレサ・セディエルにございます」
騎士アレサの言葉に、驚きは更に募る。一体バルトレット王の娘が、この騎士にどういった用件を持ってこさせたというのか。困惑するエステルだったが、しかし。
「用向きは」
全てを察しているかのようなアルフレッドが、覚悟を決めた声色で、女騎士に問いかけた。
「アルフォンス様の事か」
「はい」
話が早くて助かる、とばかりにアレサは薄く笑む。アルフォンスといえば、ラドロアで出会った幻鳥騎士アルフォンス・リードリンガーの事だろう。だが、何故今、彼の存在が話題に出てくるのか。
「あ、あの」
とんと状況が読めないエステルの戸惑いを、感じ取ったに違いない。アレサが、本当に話を続けても良いのかとばかりに、アルフレッドの顔色をうかがってきた。
「……少しばかり」アルフレッドは、数瞬躊躇った後に、騎士に断りを入れる。「待ってもらっても、良いだろうか」
「どうぞ、エステル様がご納得されるまで」
最初は面食らっていたアレサだが、こちら側の事情を察してくれたらしい。さらりと髪を肩に流す、綺麗な会釈をする。それを見届けた叔父はエステルに向き直り、「エステル様」と口を開いた。
「時が至るまで、と思い続け、今日までお知らせせずにきた事を、どうかお許しください」
アルフレッドは胸に手を当てて頭を下げ、そして面を上げると、話の口火を切った。
「貴女の母君ミスティ様と、我が兄ランドールの間には、貴女の他にもう一人、王子殿下がいらっしゃいました。それが、双子の弟君、アルフォンス様です」
「……はい?」
瞬間、叔父の言葉を咀嚼し損ねて、気の抜けた声を発してしまう。だが、段々とその意味が胸に浸透してくると、今更ながらの納得が訪れた。自分が男だったらこういう顔をしていただろうという容姿。『アルフォンス』の名を聞いて動揺を見せた叔父。自分を討つ事を躊躇った相手の、様々な感情を包括していた表情。そして、父ランドールが駆っていたのが最後とも言われた幻の鳥ガルーダ。考えてみれば、全ての点は容易く線で繋がるものだったのだ。
「何故彼がカレドニアに?」
「わかりません」
至極当然の疑問を発すると、しかしアルフレッドは眉を垂れて首を横に振った。
「十六年前、グランディア王城が陥ちたあの日、私は女王陛下に貴女を託されて落ち延びました。しかし、陛下はアルフォンス様の事には一切言及されませんでしたし、お訊きする時間も無かったので、亡くなられたものと思っておりました」
「私がジャンヌ王女よりうかがった限りでよろしければ」
アレサが控えめに挙手したので、叔父がそちらを向き、「お願いする」と首肯する。
「ミスティ女王は、当時王都アガートラムを訪れていたロベルト・リードリンガー伯に、アルフォンス様を託されていたそうです。伯爵が病で亡くなる際に、アルフォンス様には出自をお伝えしたそうですが、彼はあくまで一騎士として、自分を育ててくれた祖国に報いたいと、カレドニアを離れる事がありませんでした」
「……成程」アルフレッドが顎に手を当てて軽くうなずいた。「リードリンガー家には、グランディア王家の姫君が降嫁した事もある。縁故無き相手に託すよりは、妥当だったのか」
それから、思い至ったのか、顔を上げてアレサに問いかける。
「しかし、第一王女がそれを知っているという事は、バルトレット王は」
「勿論、陛下もご存知の事情です」
「全て承知の上で、エステル様と戦わせたのか。卑劣極まりない男だな」
アレサが痛々しげな表情を浮かべて返した答えに、アルフレッドが珍しく苛立たしげに舌打ちして、吐き捨てるように零す。それを聞いた女騎士は、少し困ったような笑みを浮かべた。
「そのお言葉に対する答えは、胸に仕舞わせていただきます。仮にも国王陛下の血を引くお方に仕える身ゆえ、主の得にならない発言は控えねばなりませんので」
「あ、ああ、すまない」
それを聞いたアルフレッドは、ばつが悪そうに咳払いをして、取り繕うように言葉を重ねる。
「貴女を困らせる気は無かった。身内の
「いえ」
アレサはふるふると首を横に振り、「とはいえ、私も、身分を気にせず率直に申し上げれば」と、唇の端を持ち上げた。
「『我が主が女王になれば、カレドニアの面倒事は九割片付くから、一刻も早くあのクソジジイがくたばりますように』と、毎晩聖王ヨシュアに祈りを捧げておりますので」
思わず目を点にしてしまうエステルとアルフレッドの前で、「ここだけの話でお願いいたします」と、女騎士は唇に人差し指を当て、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。今まで歩んできた道と同じだ。敵と見なしている相手の中にも、様々な思惑を抱えた者がいる。全てが全て、悪として断罪する訳にはいかないのだ。この騎士を見ていれば、主である王女の真意も、薄々想像がついてくる。
「ジャンヌ王女は、私の弟と、懇意にしてくださったのですね」
「はい」
エステルの感謝に、アレサは穏やかな笑みを浮かべて、しっかりとうなずいてくれた。
「お二人がカレドニアの行く末について対話を交わされる様は、将来共に王位に立ってくだされば、我が国が抱える問題は解消されてゆくだろう、と夢想を馳せるに値しました」
ですが、と女騎士は表情に陰りを落とす。
「バルトレット陛下の支配下では、夢想は夢想のままで終わってしまいます。だからこそ、エステル王女殿下がアルフォンス様と手を取り合って、陛下の目を覚ましてくださる事を、我が主はお望みです」
そして彼女は、「こちらを」と、腕の長さほどの紙製の筒を差し出す。
「現状のカレドニア軍の配置を示した地図と、主からのお手紙です。信用できなければ、どうぞ、私を斬り、これも焼き捨ててくださいませ」
「そんな事はしません」
即座に、エステルは首を横に振っていた。虚を衝かれたような顔をするアレサに、力強くうなずき返してみせる。
「貴女のお話に嘘は感じません。本音を言ってくれた貴女も、主であるジャンヌ王女のお人柄も信じます」
そして今度は、自分から腰を折り、頭を下げる。「エステル様」と叔父がたしなめる声色を発したが、ここは解放軍の旗頭ではなく、一人の人間として、礼を述べなくてはいけないと思った。
「ありがとうございます。必ず、ご期待に応えてみせますと、ジャンヌ王女にお伝えください」
ゆっくりと顔を上げる。カレドニア騎士は、大国の王女に低頭されて
彼女はラケが差し出した剣を受け取り、グリフォンに跨がって、愛騎を飛び立たせる。羽ばたきで舞い上がった風にエステルは思わず顔を腕で覆ってしまったが、勇気ある騎士の姿を最後まで見送ろうと、視線を馳せる。
沈みゆく夕陽の輝きで部隊名通り緋色に染まった翼が、どんどん遠ざかり、やがて見えなくなった。
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