第3章:脅威潜む銀炎(9)
「ありがとうございました、エステル王女」
数年ぶりにトレヴィクの手から救出されたティファ・ベルーン・フォン・ガルド女王は、長き幽閉生活のせいで多少やつれてはいたものの、女王の威厳を失わず、再び玉座に掛ける日を迎えた。
「貴女と貴女の率いる解放軍の活躍により、ガルドはトレヴィクの密通による帝国の支配から抜け出す事ができました。心より感謝いたします」
「身に余るお言葉です」
すると、「ふふっ」とティファ女王は愉快そうに笑みを洩らして、
「堅苦しいのは、無しにしましょう?」
と立ち上がったかと思うと、長い栗色の髪を揺らしながら階を降りてきて、エステルに手を差し出した。
「どうか立ってください、エステル王女。友人だったミスティ女王が出来なかった分まで、貴女を抱き締めてあげたいの」
その発言に驚いて顔を上げれば、ティファは目尻に少し皺を寄せて、穏やかに微笑んでいる。この手を取って良いのだろうか。戸惑いながら両脇を見やると、アルフレッドもテュアンも、苦笑しながらうなずいたので、恐る恐る手を伸ばす。剣だこのできてしまった己の手を、女王の細い手が引いて立たせてくれて、肩に腕が回され、優しく抱き寄せられた。
「トルヴェールからここまで、辛い事もあったでしょう。本当によく頑張りましたね」
言われて、脳裏にこれまでの道程が蘇る。初めての命のやりとり。出生を告げられた日。リヴェールで浴びせられた罵声。救えなかった命。近しい人を失うかもしれなかった恐怖。いつか戦わねばならない敵であろう、レディウス皇子。
そんな全てを労わるかのように、ティファの抱擁はエステルを温かく包み込んでくれる。顔も覚えていない母の感触とはこういうものなのかと、じんわりと
女王の肩に頭を預けると、幼子をなだめるかのように、ぽんぽんと優しく叩いてくれる。
「ウルズもトレヴィクの圧政に喘いでいたので、大したもてなしは出来ませんが、どうか今日はこの城を我が家と思って、ゆっくりして」
「あ、ありがとうございます。ですが、どうかご無理は無いように」
完全に母に甘える子供扱いに、エステルは少々赤面しながら返した。
大したもてなしは出来ない、とティファ女王は言ったものの、城下の民が持参してくれた食料で、その晩は充分すぎる歓迎の宴が開かれた。戦士達はめいめいに食を楽しみ、今回の功労者のひとりであるエシャが、解放軍もガルド兵も関係無く観客として、歌を披露する。
その様子を眺めながら、手羽先肉のローストをもしゃもしゃと食べていたパロマは、従姉達が近づいてくるのに気付いて、肉を咀嚼し呑み下した。
「まさか、本当に貴女が来るとは思わなかったわ」
「しかも格好つけた所から、相方と一緒にタイミング見計らって」
ラケが感心半分呆れ半分とばかりに肩をすくめ、リタが揶揄い気味に指差してくる。
「ガルドでも自警団に入って、武術の腕は鍛えていたもの。あんな怠惰な奴に後れなんか取らないわよ」
パロマはぷうと頬を膨らませたが、すぐにそれを引っ込ませると、肉の載った皿を傍らのテーブルに置き、一度、二度、口を開きかけてすぐに閉じ、従姉達から視線を逸らした。すると。
「いいんだよ」
リタが、全てを見抜いたかのような声色で、告げる。
「ガルドに残りたいんだろ。それなら、それでいい」
驚いて向き直れば、「わかるよ」とリタは群青の瞳を細めた。
「守りたいものがどこにあるかの違いだ。あたし達は、失いたくない人が解放軍にいる。お前は、ガルドに大切な人がいる。それだけだ」
目をみはって言葉を失っていると、ラケもゆるりと微笑んだ。
「貴女はガルドで大切なものを守ればいいわ。誰もが皆、救世主になろうなんて考えなくていいのよ」
これが血の繋がりなのだろうか。離れていても、彼女達は自分の心を全て見通している。
「でも」
それでも申し訳無くて、言葉はつっかえつっかえになる。
「アタシ、は、皆と」
「だから、そういうのやめろよ」
リタが呆れ気味に言い放って、一方向を指差す。その先を見れば、恋人が、いつかのペレスタ砦での夜のように、不安げにこちらを見ていた。
「絶対後悔するし、万一お前が死んだりでもしたら、あたし達があいつに何て詫びれば良いか、わからないだろ」
そうなのだ。もし解放軍についてゆけば、いつ命を落とすかわからない戦いに身をさらす事になる。恋人が生きているのか死んでいるのか、わからない日々に、ウォルターを置き去りにする事になる。たとえ共に戦場を駆けたとしても、二人一緒に生き延びる保証はどこにも無い。
パロマは己に問いかける。今、自分が一番守りたいものは何なのか。
答えは、悩むまでもなかった。
「ごめん。ありがとう」
従姉達に頭を下げると、両脇から彼女達が抱き締めてくれる。その優しさが心に痛くて、涙は自然に溢れる。
パロマが守りたいもの。それは、ウォルターが作る美味い料理を提供出来る宿があり続けられる、ガルドの大地であった。
「エステル王女」
宴もたけなわになり、戦士達がめいめいに割り当てられた部屋へと散ってゆく中、ティファ女王に声をかけられて、エステルは足を止めた。
「救っていただいた身でこれ以上のお願いをするのも、おこがましいとは思うのだけど……」
女王は何を言いあぐねているのか、何度か躊躇う。
「構いません、お話しください」
エステルが先を促すと、ティファは少しばかりの困り顔をしながら、話を切り出した。
「出来ればこのまま、しばらくウルズにとどまってくれませんか」
「え」想定外の願いに、思わず素で返事をしてしまう。「何故ですか」
「隣国の、カレドニアの動きが気になるのです」
カレドニアは貧しい国ゆえ、豊かなガルドの領土を、虎視眈々と狙い続けてきた。今までは、帝国に恭順するトレヴィクの支配力が強かったのが、皮肉にも牽制となり、カレドニアが干渉してくる事は無かった。だが、その枷が無くなった今、バルトレット王がどう出てくるか、動きが読めないのだという。
「カレドニアの出方がわかるまでで構いません。どうか、お願い出来ませんか」
カレドニア王バルトレットは苛烈な性格で有名だと聞いた。だが、ラドロアで出会ったアルフォンスという幻鳥騎士の事も同時に思い出す。カレドニア人の全てが、邪悪な侵略者とは限らないのだ。話し合いの余地はあるかも知れない。その為にも、無策にカレドニアに兵を進めず、ガルドに腰を据えてみるのも一つの手だろう。
「わかりました。陛下のお力になれるのならば」
エステルが力強くうなずくと、ティファは年若い少女のように笑顔をほころばせ、「ありがとう」と再びエステルを抱き締めるのであった。
だが、しかし。
「難しいでしょうね」
事後報告になってしまった詫びも兼ねて、ウルズにとどまってバルトレット王と対話に持ち込んでみたい旨をアルフレッドとテュアンに告げたところ、渋面を満たした叔父から返ってきた答えは、それだった。
「バルトレット王は帝国の威を借りて各地の諍いに介入し、益を得ています。甘い汁を吸っている状態を見返り無しで放棄しろと、あの国に言うのは、水無しで砂漠を渡れと強要するようなものです」
「ですが」
「一朝一夕で変わるような情勢じゃないんだよ、このガルディア半島は」
尚も言い募ろうとするエステルを、テュアンが厳しく制する。
「ガルドとカレドニアは共にガルディア半島に属する国だ。それが何故争い続けているか、わかるか」
そこまでの歴史は知らない。エステルが素直に首を横に振ると、テュアンはひとつ溜息をついてから続けた。
「ガルディアは、アイシア山脈を挟んで東西に分かれる。それが貧富の分かれ目だ。百八十年程前か。カレドニアを壊滅的な飢饉が襲った際、あまりにも餓えた子供達が、国境を越えてガルドに入った」
子供達は純粋に、食料が欲しかっただけなのだろう。だが、ガルドの国境守備兵達は、彼らを捕らえて吊るし上げ、皮を剥いでから首を落とす、無惨な処刑を下したという。
「それに怒った時のカレドニア王は、報復にガルドに攻め入った。ガルドはガルドで、侵略行為だと反撃に出て」
そうして女剣士は、武器を交わすのを示すかのように、両の人差し指を打ち合わせる。
「以来二百年近く、事あるごとに戦争さ」
「そんな……」エステルは愕然と呟くしか無かった。「そんな事で、争い続けているのですか」
「そう、最初は『そんな』事なんだよ。だが、『そんな』小さな歪みを深い恨みにして、人々は軋轢を生み、紛争を起こす」
絶句して目を見開くしか出来ないエステルに追い討ちをかけるように、テュアンは言葉を続ける。
「軍事的衝突と、精神的衝突。このガルディア半島で繰り返された歴史だ。それを部外者のあたし達が『やめたまえ』と口出ししたところで、治まるものじゃあないだろうな」
テュアンの言っている事は理解出来る。無茶なのも百も承知だ。だが、それでも、という想いは、今までの戦いを経てエステルの中にしっかりと根を下ろしている。
「それでも、私は、そんな不毛な戦いをやめられると信じたい。バルトレット王とも、刃を交わさなくてもわかりあえると、信じたいのです」
凛と顔を上げて告げれば、アルフレッドもテュアンも、驚きにとらわれた表情をして、エステルを見つめ返すのであった。
「理想論、だな」
廊下に出て扉を閉めたテュアンは、アルフレッドの方を向いて、愚痴るように零した。
「あれの母親もそうだった。ミスティも、理想が過ぎた末に死んだ」
「悪かったよ」
友の不機嫌を感じ取って、アルフレッドは申し訳なさそうに肩をすくめる。
「エステル様がああなったのは、お育てした僕の責任でもある」
だが、彼の胸中では、一つの懸念が渦を巻いているのだ。
「だが、出来れば今回は、エステル様の意を汲んで差し上げたい」
「何だ? 可愛い姪を泣かせたくないってか?」
たちまち女剣士が眉間に皺を寄せて、刺を含んだ発言を浴びせかけてくるが、アルフレッドは「茶化すな」と深刻な表情をして首を横に振ると、友に告げた。
「あの方が生きていらっしゃる。カレドニアで」
それだけを聞いた途端、聡い彼女は一瞬で察してくれた。吃驚に目を見開き、「そんな馬鹿な」と洩らす。
「冗談でこんな事を言うはずが無いだろう」
「そりゃお前、お前がそんな冗談言わないのはわかってるけど……よりによって、カレドニア?」
最悪だ、と付け足し、テュアンが髪をかきむしる。
そう、次に用意された舞台では、最悪の事態を想定しなくてはならない。それを知った時、姪はどうするのか。何と言うか。どういう感情を抱くか。アルフレッドにも想像は出来ないのであった。
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