第3章:脅威潜む銀炎(8)
「ティファ女王を助けにいこう」
翌朝、朝食を摂り終わったエステルのもとにエシャがやってきて、天気の話でもするかのようにあっさりと言い出したので、食後の紅茶を飲んでいたエステルは、噴き出すのを必死にこらえて口内の水分を一気に飲み下し、失敗して盛大にむせた。
吐き出さないようにひとしきり悶絶した後、「で、でも」とエシャの方を向く。
「ウルズは今もティファ女王を慕う兵士達に守られているといいます。下手に動いては、女王を楯に取られた彼らと、望まぬ戦いをする羽目になりかねません」
「だからだよ」
しかしエシャは、白い歯を見せて笑うのだ。
「ボクに任せてくれないか。ああ、風の魔法を使える魔道士がいたら、尚いいね」
彼か彼女かいまだにわからない若者が、何を考えているのかはわからない。だが、ここまで自信満々に進言してくるのだから、エシャの脳内には余程の妙案があるのだろう。
それに傍づいているアルフレッドが、特に嫌な顔も口出しもせずにいるのだ。彼が警戒しないという事は、エシャを信じて良いに違いない。
「わかりました。今日中にもペレスタを発てるように、準備をしましょう」
エステルがそう告げると、エシャは「決まりだね」と器用に片目をつむってみせた。
解放軍がガルド王都ウルズを臨む丘に陣を展開したのは、九月を目前に控えて、風に涼しさが混じり、秋の気配を感じさせる頃の事だった。こちらの接近を知り、ガルド軍もウルズ前に防衛線を張っている。偵察から帰ったクリフらの情報によれば、その殆どが、今もティファ女王に忠誠を誓う者達で、トレヴィクは王城の奥で、自分の腰巾着共に身辺を守らせているとの事だった。
彼らを破らねば、ウルズに突入出来ない。だが、心ある兵達と刃を交わすような真似はしたくない。ガルド兵の鎧と、海龍を描いた旗が織り成す、青の布陣を丘の上から見下ろしながら、エステルが嘆息すると。
「さて、ボクの出番だね」
エシャが悠々と歩いてきて、エステルの前に立った。風使いの魔道士が必要との事だったので、『ヴォルテクス』を使いこなすティムを伴っている。
「そんなに暴風でなくていいよ。向こうに届けばいい」
エシャは殴りかかる訳でもないのにこきぽきと拳を鳴らし、首を回して、「あー、あー」と喉の調子を確かめる。ティムが力を調整して、いつもの激しさは伴わない、しかし確実にガルドの陣まで届く風を吹かせ始めると、大きく息を吸い込んで、そして、歌を奏で出した。
大地に生まれし 子供らよ
空が愛せし 子供らよ
眠れよ眠れ 安らかに
今は全てを 忘れ去り
怒り哀しみ 置き去りて
それは、シャングリアの人間ならば誰もが知っている、子守唄だった。幼子が眠りにつく前に、必ず親が奏でる一曲だ。エステルも、両親を恋しがってぐずった幼い夜に、アルフレッドが枕元でこの歌を歌ってくれた事を思い出し、我知らず目の奥が熱くなる。他の戦士達も、それぞれ思い出すものがあったのだろう。どこからかすすり泣きすら聞こえる。
が、エシャの歌は、解放軍の心を動かしただけではなかった。向かい合うガルドの兵士達がにわかに、欠伸をしたり、眠そうにしょぼしょぼとした目をこすり始めたのである。
大地が抱きし 温もりは
空が与えし 恩寵は
生きとし生ける 者達を
降りし厄より 守りたもう
兵士がその場にくずおれる。騎兵の馬も膝を折って首を垂れる。歌を乗せた風が過ぎ去った頃には、ガルド兵達はことごとく眠りにつき、その場に立っている者は一人もいなくなっていた。
これにはエステルだけでなく、解放軍の誰も彼もが驚きを隠せずに、どよめきが起きる。歌が魔法と同じ効果を発揮するなど、聞いた事も無い話だ。
「魔術士? 幻術士……?」
「魔族でもないのに?」
声を低めて囁き合う戦士達に、エシャは長い髪を翻しながらくるりと向き直り、
「そんな大層なものじゃない」
と、不敵な笑みを浮かべて、言い放つのであった。
「ボクはただの歌い手さ」
眠れる森の美女ならぬ、眠れる平原の勇士と化したガルド兵を後目にすり抜け、解放軍はウルズ城下へと進軍した。
戦いを経ずに現れた解放軍に、ウルズの民は大いに驚いたので、彼らがこちらを侵略者とみなして襲いかかってくるのではないかと危ぶんだ。しかし人々は諸手を挙げて、エステル達を招き入れたのである。
「エステル王女!」
「どうか我々の女王をお救いください!」
「でぶでぶのトレヴィクなんかやっつけちゃって!」
老若男女問わず歓声をあげ、道を開いてくれる民衆に背を押されて、戦士達は駆け、そしてそのままウルズ城内へとなだれ込んだ。
首都前でティファ女王の忠臣達と睨み合いに陥っていると思われた解放軍が攻め入ってきた事に、トレヴィクの部下ばかりで構成された守備兵達は驚愕し、油断して装備も疎かなまま、槍だけを手に突進してくる。しかし所詮、帝国におもねり甘い汁を吸っていた反逆者に追従していた連中。ここまでの激しい戦いをくぐり抜けてきた解放軍の敵ではなく、次々と討ち取られた。
「ティファ女王はどこだ」
武器を放り出して降参した兵をリタが縛り上げ、アルフレッドが聖剣『信念』を突きつけて尋問すると、兵はがたがた震えながらも、
「え、謁見の間だ! トレヴィク様のもとにいる!」
と何とか答えた。
「そうか」
アルフレッドが短く言い捨てて聖剣を振り上げる。エステルは、叔父が無抵抗の敵を斬り捨てるのではないかと肝を冷やしたが、しかし彼は柄で相手の頭をごつ、と殴り、気絶させるにとどめた。
「まいりましょう、エステル様」
脱力しかけた姪を振り返り、アルフレッドは神妙に告げる。
「トレヴィクを討ち取り、ティファ女王をお救いすれば、この戦いは終わります」
たしかに叔父の言う通りだ。エステルはうなずき返し、仲間達と共に城内を駆けた。
敵が湧く道がトレヴィクを守る道、すなわち謁見の間への道と信じて、立ちはだかる者は容赦無く斬り、おののいて退く者には目もくれずに、ひた走る。そうして、立派な木製の大扉を体当たりするように開いた時、エステルの視界に飛び込んできたのは、自分に向けられる十数の鏃の光だった。
「ほほう。ここまで来たか、解放軍」
弓兵に守られたその向こうで玉座に陣取り、ねっとりとした嫌味な声で出迎えたのは、縦にも横にも大きい、髭面の男だった。彼がトレヴィクだろう。その隣には、アルフレッドやテュアンと歳の近そうな、しかし老いは一切見えない女性の喉元に、兵が短剣を突きつけている。彼女がティファ女王である事は、一目瞭然だった。
「街の外の守備兵をどうにかしたようだが、残念だったな。女王はこの通り我が手中だ」
トレヴィクが、その体躯のせいでぴちぴちの騎士服がはちきれんばかりに両腕を広げつつ、玉座から立ち上がる。
「女王陛下を離しなさい」
エステルは翠の瞳に気迫を込めて相手を睨みつけ、剣を握った手に力を込めるが、返ってきたのは嘲るような笑みだった。
「立場をわきまえて物を言うが良い、反逆者の王女よ。この状況でどちらが武器を引くべきかは、一目瞭然だろうて」
その言葉に、ぐっと唇を噛み締める。トレヴィクの言う通りなのだ。女王を人質に取られ、さばき切れない矢が狙っている。逆らえないのはこちらなのだ。
「なあに、大人しく従えば悪いようにはしない。優女王の娘は丁重に扱おう。それ以外の、特に男共の無事は、保証しないがな」
そう言って高らかに哄笑するトレヴィクを前に、エステルは何も出来ず、ただ剣を握る手に力を込める。と。
「エステル様」アルフレッドが素早く耳打ちしてきた。「この場は私が引き受けます。エステル様は一旦兵を引いて、態勢を」
「何をこそこそ話している!」
それを断ち切ったのは、トレヴィクの苛立ちの声だった。
「今更策を弄したところで、貴様らに勝ち目は無いのだ! 大人しく従え!」
そうして彼が手を振り上げ、弓兵が弦を引き絞った、その時。
「――誰が誰に?」
緊迫した場に不釣り合いな、余裕すら感じる声が飛び込んできたかと思うと、ひゅっと空気を切る音がし、「ぐう」と低い呻きをあげて、ティファ女王を拘束していた兵が脱力し、床に倒れ伏す。その首の急所には、一本の矢が過たず突き立てられていた。
一体誰が、どこから。トレヴィクだけでなくエステル達も、矢の飛んできたと思しき方向を見やり、そして息を呑む羽目になった。
「パロマ!」
赤紫の髪、兄とよく似た意志の強い瞳。魔鳥騎士姉妹の末妹レディ・ユシャナハの忘れ形見は、どう登ってきたのか、開け放たれた出窓に陣取って、矢を解き放った体勢のまま、トレヴィクを見すえていた。
「兄さんに言われた。騎士としての覚悟が無いって」
表情を輝かせるエステルの方に向き直り、パロマは言を継ぐ。
「だけど、今度はリタ姉に言われたわよ。騎士であるかどうかは、心だって」
彼女は言いながら、次の矢をつがえる。
「アタシは騎士らしくないかもしれない。それでもアタシは、自分が正しいと思う道を貫く。それが、アタシが騎士で、レディ・ユシャナハの娘である証だ!」
「な、何をごちゃごちゃと」
トレヴィクが動揺に巨体をよろめかせ、腰に帯びていた短剣を抜き放つ。
「畜生、女王の命がどうなっても」「ウォルター!」
だが、凶刃が女王に届くより先、パロマが鋭く叫ぶと、反対側の出窓から一閃が放たれ、驚きに開いたトレヴィクの口を撃ち抜いた。
そちらに目をやれば、線の細い癖っ毛の青年が、身の丈程の長弓を手にしている。
「あ」リタが間の抜けた声をあげる。「パロマの彼氏」
あいつ戦えたのか、と、彼女がぼやく間に、トレヴィクは酔っ払いのようにふらふらと後ずさり、短剣を取り落としたかと思うと、どうとあおのけに倒れ、動かなくなった。
指揮官のあっけない最期に、トレヴィクに付き従っていた兵達が、次の行動を見失って不安げに視線を交わす。
「エステル!」
パロマが得意気に笑いかけてみせた。
「こっちの勝ちを宣言しなよ!」
言われて、エステルははっと気を取り直すと、剣の切っ先をトレヴィクの部下達に向けた。
「貴方がたの将は討ち取りました。大人しく降伏してください。これでもまだ戦うと言うのなら」
そうして、すっと瞳を細めて宣告する。
「我々も容赦はしません」
その隣で、アルフレッドも聖剣を構える。最早戦意を失った兵達は、次々と弓を下ろし、床に投げ捨てて、両手を挙げた。
ウルズ攻略戦は、援軍によるあっけない幕切れで、終了を告げたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます