第3章:脅威潜む銀炎(6)

 その後、ブリガンディの戦いはあっけなく終わりを告げた。

 何とか士気を取り戻し、無事な戦士達を率いて旧王都に乗り込んだエステルを待っていたのは、帝国兵達の降参だった。新たな指揮官であったブリュンヒルデが去り、狡猾な上司ジョルツから彼らを守り続けてくれたフォーヴナの無残な最期を城壁の上から見届けた兵士達は、すっかり戦意を失い、解放軍に膝を屈する道を選んだ。

 そして更に驚いた事に、ブリガンディの住民達から、捕らえた帝国兵を厳しく罰するような事はしないで欲しいと、懇願が上がってきたのである。

「ジョルツ・クレンペラーは非道な男で、街の民をさらっては、暗黒の術の実験台にしていました」

 エステルに拝謁を願い出た、老齢の街長まちおさは、ジョルツの卑劣な行為を思い出したのだろう、しわしわの顔をしかめた後、「ですが」と続けた。

「副官のフォーヴナ殿は、我々の事を考えていてくださった。ジョルツが捕らえた女子供をこっそり逃がしたり、部下達に、無闇に我らに危害を加えぬようきつく言い含めてくださったりしたのです」

 フォーヴナの名を聞いて思い出す。人間とは異なる摂理を持つ竜族の女性を、必要な存在であると信じて守り抜こうとした帝国兵。敵の中にも、心ある者はいるのだ。

「優女王のご息女である王女殿下ならば、ご慈悲をくださる事と、信じております」

 街長がそう言って去った後、エステルはしばらく考えた結果、捕虜達のもとへ行き、王女自ら自分達の前に現れた事に驚愕する彼らに問いかけた。

「貴方達が、帝国から離れて、フォーヴナ殿の分まで、ブリガンディを守り続けてくれますか」

 それには、見張りについていた解放軍の戦士達も唖然としていたが、帝国兵達は一も二も無く頷いて、約束を果たす事を誓ったので、全員の縄を解いた。

 エンゲルやセルヴェン、オットーのように、人々を弾圧する指揮官もいれば、フォーヴナのように、占領者でも慕われる者がいる。ひとえに「帝国兵だから」という理由で斬り捨て続ければ良いものではないのだ。敵即ち悪、ではないのだ。

 語り合える者がいる。それはエステルにとって大きな衝撃であると同時に、言葉を交わせば通じ合えると信じていた母の選んだ道が、ただの夢想ではなかったのだと証明してくれる気がして、胸が温まる想いであった。

 だが同時に、レディウスの紫の瞳を、挑戦的な笑みを思い出せば、ぞっとする感覚が背中を這い上がってくる。

 己の臣民である帝国兵の一人を、視認する事の出来ない力で惨殺し、それを歯牙にもかけない。それでいて、火竜の女性は丁重に扱う。半分血が繋がっているはずの弟なのに、全く彼の意が読めなかった。彼とわかり合える気がしなかった。

 いつか彼とは、真正面から向かい合う日が来るだろう。その時、自分の力で彼に対抗できるだろうか。不安は入道雲のように膨れ上がって、エステルの心を苛む。そしてその一部には、クレテスを失うかもしれなかった、という恐怖がびっしりと根を張っているのだ。

 レディウスの謎の力に巻き込まれた彼は、『クラウ・ソラス』の加護で即死こそ免れたものの、地面に全身を強打し、骨も幾つか折れて、解放されたブリガンディ王城の一室に運び込まれた。ロッテの回復魔法で骨は無事に繋がり、打撲痕も消えたが、頭を打っている可能性があるという事で、大事を取ってベッドで安静にするよう言い含められた。

 彼と仲直り出来ないまま、死に別れるかもしれなかった。それを思うと、身体の震えが止まらない。アルフレッドを失うかもしれなかった時も恐れに囚われたが、幼馴染を案ずる気持ちは、その比ではない。

 その理由が何なのか。答えを求めてぐるぐる思索しながら、エステルは、クレテスが療養している部屋の前へ辿り着いていた。

 扉を叩こうとして、一瞬、躊躇する。また、出撃前のような冷めた視線を送られたら、きっとその場に立ちすくんで何も言えなくなる。握り締めた拳に力を込めて、胸元に引き寄せた時。

「エステル?」

 部屋の中から呼びかけられて、どきりと心臓が跳ねた。

「何やってんだよ、入れよ」

 クレテスの声色はいつも通りで、怒っている様子は無い。何故そんな風に平穏を保っていられるのか戸惑ったが、ここで踵を返して逃げ出しては、もう二度と彼に合わせる顔が無い。エステルは意を決して、扉を開いた。

 窓が開いていて、涼やかな風が、夕暮れ時の光と共に部屋に入り込んでくる。クレテスはベッドの上に身を起こし、金髪を陽光でほのかな赤に染めて、蒼の両眼でじっとこちらを見つめていた。

 入口で突っ立っていても仕方が無い。エステルは後ろ手に扉を閉め、ゆっくりとベッドの傍へ近づくと、近くにあった椅子を引いてきて座した。

「……どうして、私だってわかったんですか?」

 大丈夫ですか、の前にその疑問を口にする。するとクレテスは、得意気に人差し指を立て、

「足音」

 と口の端を持ち上げてみせた。

「アルフさんは意図的にいつも変えてるみたいだけどな。お前も、兄貴も、リタも。トルヴェールの連中の歩き方の違いは、大体わかる」

 立てているかどうか、本人も自覚していない足音で人を区別する。そんな特技をこの幼馴染が持っていたのか。あまりの意外性に目をみはってしまうと、「お前」とたちまちクレテスが半眼になった。

「おれの事、剣を振り回すしか能が無い奴だと思ってるだろ」

「そそそそんな事は無いです!」

 慌てて両手を横に振るが、心の底は見抜かれてしまったらしい。少年は「ま、いいけど」と嘆息し、それから、ぷっと噴き出した。

「まあ、おれ自身も、似合わない技能だとはわかってるよ」

 肩を揺らして笑う彼の態度はいつも通りで、怒っている様子はどこにも無い。だが、それがかえってエステルを申し訳無い気持ちにさせて、顔をうつむけ、両膝の上で拳を握り締めると、

「ごめんなさい」

 とか細い声を絞り出した。

「私が至らないばかりに、貴方をこんな目に遭わせて」

 目がじんわりと濡れてくる。忘れていたはずの震えが蘇ってくる。続く言葉を見失って、涙を流れるに任せようとしていたエステルだったが、不意に頭に大きな手が乗って、落涙は阻止された。

「お前が気に病む事じゃあない」

 わしゃわしゃと、こちらの頭を撫で回しながら、クレテスが神妙に告げる。

「今回は、相手の力量もわからずに自分の力を過信した、おれの失態だ。それでお前の名前を傷つけるところだったんだ、謝るのはおれの方だよ」

「でも」

「それ以上言うな」

 顔を上げて言い募ろうとすると、蒼の視線がまっすぐにこちらを射抜いた。

「お前は解放軍の将だ。おれはただの一戦士だ。どこで誰が聞いてるかわからないのに、軽率に部下に詫びてたら、お前の威厳が無くなるぞ」

 言われて、返す言葉を失ってしまう。彼は大雑把に見えるのに、いつも正論をエステルに浴びせてくる。軍師だったという祖父の能力を、多分に受け継いでいるのかもしれない。

「……わかりました」

 しっかりと瞳を見つめ返すと、クレテスは薄く笑み、

「後はちゃんと、アルフさんと仲直りしとけよ」

 と告げ、ぽんぽんとエステルの頭を軽く叩いて手を離した。

 束の間、部屋の中に沈黙が落ちる。エステルは続く話題を求めて視線を彷徨わせ、不意に思い立って、腰に帯びたポーチから、掌大の小袋を取り出した。

「あの、クレテスに、これを」

 怪訝そうに首を傾げる彼の前で、中身を取り出す。出てきたのは、麻の紐で天然石を組み込んだ、守り腕輪だった。進軍の合間合間に、手先の器用なロッテに習って、リタと一緒に編んでいたのだ。

 腕輪は水晶を基調に、星を抱いた瑠璃ラピスラズリを散りばめている。深い蒼は、目の前にいる少年の瞳を意識した物だ。

「貴方のお誕生日にあげようと思って、作っていました」

 渡しそびれて、お誕生日はとっくに過ぎてしまいましたが。尻すぼみにそう付け足して肩をすくめながら、恐る恐る腕輪を差し出す。クレテスは、虚を衝かれたように目をみはっていたが、不意に口元をゆるめると、

「男に腕輪とか、似合うかどうか考えて作ったのかよ」

 と軽く揶揄しながらも、手を伸ばしてくれた。受け取る時に、指と指が触れ合う。そこから温もりが伝わるような気がして、エステルの頬はたちまち熱を帯びた。

 似合うかどうか、などと言いながらも、クレテスはすぐに左手首に腕輪を通す。

「大事にする」

 彼が腕輪を見せるように左手を振って、笑ってくれる。水晶が夕方の光を浴びて、薄紅に輝いた。

「お前がおれを守ってくれる限り、おれは負けない。おれもお前を守るから、お前も負けない。この先も、絶対に」

 少年が、左手で拳を作って突き出す。瞬間、何を求められているのかわからなくて迷ったが、思い至ると、エステルも微笑んで右手で拳を作り、軽く打ち合わせる。

 心拍数が速度を上げたが、その真の理由を少女が知るには、まだもう少し、時間が必要だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る