第3章:脅威潜む銀炎(5)

 太陽が中天にさしかかる頃、解放軍の渡河作戦は開始された。陽光を反射してきらきら光る水を蹴り、更に鮮やかな水飛沫をあげて、まず歩兵が駆け、その後を、馬を引きながら騎兵がゆく。

 だが、しかし。

「妙だな」

 異変に気づいて眉間に皺を寄せたのは、エステルの隣を行くテュアンだった。

「迎撃が無い」

 言われてエステルも対岸を見やる。河を渡ろうとするところに矢でも魔法でも射かければ、こちらはたちまち、防御に気を取られ、流れる水に足元をすくわれて転び、混乱をきたすだろう。エステルでも考えつくのだから、帝国軍がその策を思いつかなかったはずがあるまい。

 怪訝に思いながらも、すねまで水に浸かりながら河を駆け抜け、ブリガンディ側の岸に上がった時。

「何だ、あの女は?」

 誰かがそう言ったのを耳聡く拾い上げ、エステルは皆の視線の先を振り向き、そして、息を呑んだ。

 旧王都から一人、悠然と歩いてくる女性がいる。防具は一切身に着けず、武器も手にしていない。だが、彼女からゆらりとの立ちのぼっているように見える陽炎、自分と似た銀の髪、そして何より、華奢な身体からは信じられないほどに襲いかかってくる威圧感プレッシャーに、恐怖に近い感情を覚え、エステルは叫んでいた。

「皆、下がって! 距離を取ってください!」

 この感覚がわからないのか、首を傾げる者、敵を討ち取る機会ととらえているのか、武器を抜いて女性に向けて走り込んでゆく者がいる。相手は、緋色の瞳にそんな解放軍の戦士達を映しながら、落ち着き払った声で、宣った。

「お前達に恨みは無いが、あの方の為だ。エステル王女ともども、全滅してもらう」

 彼女が、すうっと片手を掲げる。直後、赤い炎が女性を取り巻き、姿を隠して。

 どん、と空気を叩きつける音と共に、強烈な爆発が起き、女性に近づいていた解放軍の戦士達をことごとく吹き飛ばした。

 だが、それで終わりではなかった。爆発の煙が風に流され、炎が晴れた時、そこにいたものを見て、エステルや若手の戦士だけでなく、歴戦の剣士であるテュアンさえ、言葉を失って愕然と立ち尽くしてしまった。

 鋭い牙を持つ蜥蜴のような顔。大きな一対の翼。一つ一つが剣呑な刃のようである爪を持つ腕。一振りで城壁を破壊しそうな太い尻尾。それらを覆う鱗の色は、血のような深紅。

 竜獣ドレイク

 かつて四英雄がひとりヌァザを王として大陸に生き、彼の死と共に衰退し、エステルの祖母にあたるドリアナ妃を最後に、存在は確認されなくなった竜族。それが今、真の姿を目の前にさらしたのである。

 驚愕に、攻撃どころか動く事さえ忘れてしまった戦士達を、火の竜獣の緋色の眼がぎょろりと見下ろす。それから、宙を仰いでひゅう、と息を吸い込んだかと思うと、解放軍目がけて、その口の奥から高熱で銀にすら見える炎を吐き出した。

「下がって!」

 セティエとティムが咄嗟に魔法を詠唱して、風で威力を増した火炎を放ち、竜の炎とぶつける。鼓膜を破りそうな爆音が辺り一帯に響き渡り、炎は相殺されたが、爆発の熱波が吹きつけ、至近距離にいた者は肌を焼かれて、悲鳴をあげながら地面に倒れ込んだ。

 うずくまり、呻き声をあげる者達を、緋色の眼球がじとりと見下ろす。更なる攻撃を加える気だと気づいたが、エステルの足はすくみあがり、一歩を踏み出す事さえかなわない。

「距離を取れ! まともに相手をするな!」

 テュアンの激昂が、耳鳴りに阻まれてやや遠い。夏の炎天下だからという以外の理由で身体がぶわりと汗を噴き、しかしすぐに冷たくなってゆく。

 同志を助けなければ。震える指を剣の柄にかけようとした時、竜獣に向けて走り込んでゆく人影に見覚えがあって、エステルは翠の瞳を見開いた。

 クレテスだった。『クラウ・ソラス』をしっかりと握り締め、雄叫びをあげて、今まさに竜獣の手に潰されようとしている味方を守ろうと駆けてゆく。火傷の痛みにのたうち回っている解放軍の戦士を、竜獣の鋭い爪が引き裂く直前、クレテスは竜獣と味方との間に割り込み、『クラウ・ソラス』を勢いよく振り抜いた。

 竜の鱗一枚の強度は、鋼鉄製の楯に匹敵するともいう。しかし、『クラウ・ソラス』は銀色の輝きを放ったかと思うと、まるでバターを切るかのように火竜の掌を斬り裂いて、敵は唸り声を洩らしながら手を引っ込めた。

 クレテスが、続く二撃目を踏み込もうとする。だが、それより速く、火竜は傷を受けた報復とばかり、先程より更に強力な炎を吐き出した。

 エステルの心臓が、わしづかみにされたかのようにぎゅっと縮こまる。変な息の吸い方をして、吐き出す事が出来ない。視線を逸らしたいのに、目は炎を凝視したままになってしまう。

 クレテスが死んでしまう。

 その一念がエステルの脳裏をぐるぐると巡り、どくどくと血管が脈打つのが、耳の奥でうるさく響いている。

 失ってしまうのか、幼馴染を。仲直りも出来ないまま。

 歯の根が合わなくなってがちがちと耳障りな音を立て、勝手に涙が溢れてくる。

「――クレテス!!」

 ようやく悲鳴じみた声が喉の奥から絞り出された時、しかし、事態はエステルが――いや、誰もが予想した悲劇とは全く異なる結果を示した。

 銀の炎が吹き飛ばされる。炎が四散した後には、持ち手を守護するように白色に輝く幕を張った『クラウ・ソラス』を掲げて、蒼い瞳で火竜を見すえる、少年の姿があった。

 聖剣中の聖剣、と呼ばれる白銀聖王剣。その加護の力の強さに誰もが驚いて立ち尽くす中、クレテスはすっと表情を引き締めると、『クラウ・ソラス』を握り直し、一歩を踏み込む。振り払った一撃は火竜の脇腹を斬り裂き、噴き出した返り血を浴びて、彼の金髪が赤く染まった。

 解放軍の戦士達からどよめきや歓声が湧き起こる。火竜は痛みの叫びを放ちながら後ずさったかと思うと、弱々しく頭を垂れ、その巨体が縮み、銀髪の女性の姿を取り戻した。いや、竜族は竜獣の姿が真なのだから、人の姿に変じた、と言う方が正しいのかもしれない。

 女性は血の溢れ出す脇腹をおさえ、ぜえぜえと荒い息をしながら、緋色の瞳でクレテスを睨みつける。対するクレテスは、冷静に相手を見下ろしたまま、『クラウ・ソラス』を構え直して、女性に近づいてゆく。

 と、咄嗟に二人の間に入り込む帝国兵がいた。

「お前……」

 女性が、信じがたい、といった様子で声を洩らす。

「ブリュンヒルデ様、どうか撤退を!」

 クレテスに向けて槍の穂先を向けたまま、女帝国兵が叫んだ。

「ここはこのフォーヴナが引き受けます! 貴女様はどうかお下がりください!」

「どうして」

 ブリュンヒルデと呼ばれた女性が、唖然と呟く。

「お前も今しがた見ただろう、私の真の姿を。恐れないのか」

「ええ、しかと拝見しました。だからこそ、貴女様の力は尚の事、帝国から失われてはならぬもの」

 フォーヴナと名乗った帝国兵は、クレテスと向かい合ったまま、口元をつり上げる。

「私の役目は上官を守る事です。ジョルツ将軍は指揮官に値しない男ではありましたが、守り切れなかったのは我が失態。今度こそ私は!」

 その後には、敵ながらも勇ましい口上が続くはずだったのだろう。だが、その場にいる誰もが、彼女の言葉の続きを耳にする事はかなわなかった。

 何故なら、次の瞬間、彼女の身体は風船が割れるような音と共に、あっけなく弾け飛んだのだから。

 それと同時に、見えない謎の力に吹き飛ばされたクレテスが、激しく地面に叩きつけられるのを見て、エステルはまたも悲鳴をあげられずにすくみあがる羽目になった。『クラウ・ソラス』の守りが無ければ、フォーヴナと同じ運命を辿っていた事だけは、容易に想像出来る。

 一体何が起きたのか。呆然とする一同の視界に、一人の少年が現れていた。

 転移魔法陣も、出現する前触れも無く、突如場に登場した人物に、誰もが目を奪われる。紫の衣装を身にまとい、その身に帯びる魔力が、ブリュンヒルデの秘めたる力同様に、陽炎となって見えるようだ。

 だが、その色は彼女のような鮮やかな紅ではない。紫黒しこく。深淵まで相手を引きずり込み、そのまま死の底へと叩き落とす、邪悪の色だ。

「ブリュンヒルデ」

 少年は、紫がかった銀髪を風に遊ばせ、自分が今しがた一人の帝国兵の命を奪った事も歯牙にもかけず、やけに優しい声色で女性を振り返る。その手が脇腹に触れると、瞬時にして出血が止まり、傷は跡形も無く消えた。

「今日のところは退け。今、お前が死ぬ事は、僕が許さない」

「……は」ブリュンヒルデが、軽くうつむきながら神妙に応える。「レディウス様の御心のままに」

 その名を聞いて、エステルは目をみはる。アルフレッドから聞いていた、母ミスティがヴォルツ皇帝との間に遺した、弟にあたる皇子の名前。それが、レディウス・ナディール・フォン・グランディア。

 火竜すら従えるこの少年が、そのレディウス皇子なのだろうか。凝視していると、つと、少年がこちらを向いた。

 エステルを視界にとらえた彼の唇が、にたりと上弦の弧を描く。その笑みには明らかに、深い悪意と、挑戦が含まれていた。

 こちらが何も出来ない間に、レディウスはブリュンヒルデの手を取り、そしてやはり何の予告も無いままに、二人してその場から消える。後には、炎に焦げた草と、人一人分の血だまりが広がる河岸に、圧倒的な脅威を叩きつけられた解放軍が残された。

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