第3章:脅威潜む銀炎(4)

 ヨーツンヘイム旧王都ブリガンディには、異様な緊張感が漂っていた。

 ジョルツ亡き後、一月ほど反乱軍と睨み合いを続けて膠着状態に陥っていた帝国軍のもとに、新しい指揮官が着任した。その上官の容姿が、兵達の戸惑いと興味を呼び起こしていたのだ。

 彼らの前で「ブリュンヒルデ・エルダー」と端的に名乗った指揮官は、男をどきりとさせずにはいられない美貌と魅惑的な身体の線、緋色の瞳、そして、この大陸では竜族の血を引く者にしか現れないと言われる、赤みがかった銀髪を持っていたのである。

「ブリュンヒルデ様」

 空中分解しかねない兵達をまとめていた、ジョルツの副官だった女性、フォーヴナ・ノアルディは、かつて傲慢な上司が居座っていた王の居室で黙々と書類にペンを走らせる新たな上官のもとへ、報せを持ってゆく。

「河向こうの反乱軍に動きがありました。ギャラルン河の水位が下がったので、進撃を開始する模様です。ご指示を」

 その言葉に、ブリュンヒルデはつと手を止め、感情の読めない瞳をじっとフォーヴナに向けると、端的に告げた。

「全軍ブリガンディにて待機。首都防衛に注力」

「……は?」

 紅をのせずとも艶やかな唇から紡ぎ出された命令に、フォーヴナは、彼女が目上だという事実も忘れて、間の抜けた返事をしてしまった。待機、と言ったか、彼女は。

「し、しかし」狼狽えながら反論を訴える。「河を渡ろうと身動きの取りづらいところを狙えば、反乱軍を一気に殲滅させる、千載一遇の機会では」

「要らない」

 返ってきた応えは、やはり温度のこもらない、淡々としたものであった。

「全て私がやる。他を巻き込む必要は無い」

「ですが!」

 フォーヴナが戸惑いながら一歩を踏み出した途端。

「くどい」

 その一言と共に、ぶわり、と熱い空気がブリュンヒルデから噴き出したかのように押し寄せ、フォーヴナは思わず小さな悲鳴をあげながら後ずさっていた。

 驚いて、彼女を凝視する。それまで内面の読めなかった緋色の瞳には鋭い光が宿り、こちらを睨みつけていた。

「私を苛立たせるな。抑制が利かなくなる」

 ゆらゆらと、彼女の周囲にのぼりたつ陽炎を見つめて、フォーヴナは、今浴びた熱波も忘れるような、うそ寒い思いに囚われた。


 七月も半ばを過ぎ、ギャラルン河の水位はかなり引いた。今なら、騎兵も歩兵も、浅い部分を辿れば対岸へ渡る事が可能だろう。そう判断したエステルは、主立った面子を集めて、ブリガンディ攻略の作戦会議を開いた。

「ブリガンディは、ギャラルン河の中州に築かれた首都です。周囲を水で守られ、両端を大橋で繋ぐ事で、進路を限定させた自然の要塞となっています」

 傷はほぼ癒えたもののまだ本調子ではない為、今回の戦線への参加をロッテから止められたアルフレッドが、ブリガンディ周辺の地図をペンで辿り、橋に×印をつけ、続けた。

「橋は落ちましたが、この一ヶ月間にクリフ達が調べた地形によれば、ここと、ここ。そしてこの辺りから、兵を進められるはずです」

 橋からほど近い三ヶ所に丸印が描かれる。その叔父の手元を、エステルはぼんやりと見つめていた。

「エステル様?」

 心ここにあらず、といった様子を見抜かれたのだろう。アルフレッドに怪訝そうに声をかけられて、慌てて我に返る。

「あ、はい、すみません」

 露骨に叔父の顔から目を逸らし、地図上の丸で囲まれた地点を指差す。

「水位が下がったとはいえ、やはり馬を連れた騎兵は機動力が下がるでしょう。まず歩兵で駆け抜けて露払いをした所に、全軍を突撃させるのが良いかと」

「そうですね」

 横目で窺えば、アルフレッドがペンに蓋をして、心配顔でこちらを見下ろしてくる。

「私はこの身体なので、今回はお傍でお守り出来ません。エステル様は突出せず、周りの兵の守りに頼ってください」

 叔父の態度に、今までとの変わりは無い。やはり、先日の事を覚えていないのだ。彼は夢現の狭間に何を言ったのか、自覚が無いだろう。そのせいで今、エステルが彼の顔を直視出来ない事も。

 だから今、エステルに出来る事は、ぐっと拳を握り締め、

「……わかりました」

 と、必死に平静を保って応えるのみであった。


「お前さ」

 作戦会議を終了して、皆が部屋を出てゆくのをぼうっと見送っていたところに、突然背後から声をかけられ、エステルはびくっと肩を震わせて振り返った。

 クレテスだった。元々つり目がちで鋭い蒼の瞳は今、不機嫌極まりなく細められている。

「アルフレッドさんと何があった訳?」

 どきりと心臓が大きく跳ねる。見抜かれていたのか。驚きに目をみはると、「わからいでか」と大きな嘆息が、幼馴染の口から洩れた。

「何年付き合ってると思ってるんだよ。あれだけ叔父様叔父様言ってたお前があんなにびくびくしてたら、おれじゃなくても気づいてるぞ」

 顔をしかめてがりがりと頭をかく彼の腰には、銀の鞘に収まった両手剣が帯びられている。白銀聖王剣『クラウ・ソラス』。三百年前、聖王ヨシュアの弟ノヴァ・クレインが振るったという聖剣は、今もグランディア王家に忠誠を誓う同志達によってユウェインに託され、クレテスの手に渡った。

 しかるべき人間が振るえば、聖剣士の武器さえ凌駕する攻撃と守りの力を発揮するという、聖剣中の聖剣。それを、『クレテスならば扱える』という理由について、ユウェインは、

『私も、同志にただ「クレテスに」と託されただけなので』

 と肩をすくめるばかりであった。

 他にもグランディアには、ヨシュア王の聖王槍『ロンギヌス』が存在していたが、十六年前の王家滅亡の動乱の中で失われ、その行方は今日に至ってもわかっていない。

『あれが手元に来れば、こちらの戦いも大分楽になるはずなんだがな』

 ユウェインの報告を受けて、テュアンが、無い物ねだりだよな、と嘆息したものだ。

 とにかく、今ある四英雄の武器を手にしているのは、クレテス唯一人である。そして部屋にはもうエステルと彼以外誰もいない。今ここで彼が聖剣を抜いてエステルに突きつけたら、反撃したとて敵いはしないだろう。無意識に後ずさると、踵が壁にぶつかった。逃げ場を失くしたエステルを追い詰めるように、クレテスは壁に手をついて、距離を詰めてくる。

「お前が落ち着きを無くしてたら、全軍の士気に響くんだよ。話せるなら話せ。その為におれ達は」

 言いさして、瞬間黙り込み、彼は言葉を続ける。

「おれは、お前についてきたんだから」

 リカルドやケヒトに比べれば大分小柄なはずの身体が、自分より遙かに大きく見える。見つめてくる瞳は真剣そのもので、いやが応にもこちらの本音を引きずり出そうという迫力を感じる。

 怖い。

 その感情にとらわれて、エステルは反射的に幼馴染の胸を突き飛ばし、叫んでいた。

「何でもありません! クレテスには、関係の無い事でしょう!?」

 途端、クレテスの瞳が驚きに見開かれた。しまった、と後悔した時には既に遅く、怒りと失望の入り混じった色が、こちらを見すえてくる。

「……あっそ」

 吐き捨てるように。

 それだけを言い残すと、クレテスは背中を向けて、一度も振り返らずに部屋を出てゆく。

 自分が傷ついている事実ばかりに酔って、確実に彼を傷つけた。今、どう言葉を繕って謝っても、余計に彼を激怒させるだけだろう。

(私は、馬鹿だ)

 両手で顔を覆って、壁に背を預けたままその場にくずおれる。こんな指揮官で、こんな友人で、自分についてきてくれた人々はどう思うかを考えれば、羞恥が胸に訪れる。

 だが、涙は出なかった。泣く資格さえ、自分には無いと思った。

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