第2章:暗黒の侵食(10)

 ラケとアルフレッドを乗せた魔鳥は、ギャラルン大橋の下をくぐり抜け、ブリガンディ城が近づくと、一気に急上昇した。

 突然視界に現れた敵影に、城壁の上にいた守備兵達が浮足立つ。アルフレッドはそんな連中を褐色の瞳で冷たく見下ろしながら、腰の聖剣を抜き放つと、魔鳥の背から飛び降り、その勢いで守備兵の一人を斬り捨てた。

 兵士達が慌てて槍を手に向かってくる。しかし聖剣士は動じる事無く、ラケに『上空に逃れていろ』と手だけで合図を送ると、突き出された槍を身を沈めてかわし、跳び上がる勢いで敵の首をはね、続く兵を袈裟懸けに。背後を取ろうとしていた相手には、回り込まれる前に心臓を一突きにした。

 彼らの背後にいた黒ローブの魔族が三人、慌てて詠唱を始める。おそらくこの場に魔物を召喚する気なのだろう。

「遅い」

 アルフレッドは半眼になると、一呼吸の間で魔族達との距離を詰め、次々と急所を貫いて、全滅せしめた。

 夏に向かう春の終わりの高い気温の中、血のにおいはむわっと濃くたちこめる。その中で、ジョルツ・クレンペラーが尚も余裕を保ちながら、腰に手を当て待ち構えていた。

「兄嫁に横恋慕した、邪道の聖剣士」

 謳うように彼は悠然と手を広げる。

「さっさと手を出せば良かったのに、遠慮などするから。他の男に抱かれた挙句、理想を果たせないで死んだ女に、今も忠誠を誓っているのか?」

「黙れ」

 短く低い一言に、ジョルツは飄然と笑って、尚も言を継ぐ。

「教えてやろうか。ミスティ皇妃の末路を。孕んだ子供に腹を食い破られて」

「黙れというのが聞こえなかったか」

 一段と低い声が、河の流れで湿った空気を強く叩いた。アルフレッドは聖剣を正眼に構え、ジョルツをぎろりと睨みつける。

「僕自身への侮辱なら、いくらでも甘んじて受けよう。だが、ミスティ様を貶める発言は、絶対に許さない」

「ほう、どう許さないのか、見せてもらおうか」

 絶対的優位を確信したまま、ジョルツが詠唱を始めた。掲げた手に黒い光球が集う。

 闇魔法。

 魔族だけが操り、人間は持て余すはずの術が、放たれる。

 だが、黒の球は、アルフレッドに直撃する寸前、彼が聖剣を振り払っただけで、あっけなく四散した。

 驚愕して目を見開くジョルツの眼前に、アルフレッドが大きく踏み込んで、刃を振るう。鋭い銀の輝きは、相手の額から顎までを裂き、「ぎゃあっ!」と悲鳴をあげながらのけぞらせた。

「な、何故だ」ぼたぼたと血を流す顔を両手で覆いながら、ジョルツがわめく。「何故、俺の術が効かない!?」

「効くはずが無いだろう」

 アルフレッドは、普段の穏やかさが嘘のような、子供が見たら確実に泣き出すだろう、歪んだ笑みを浮かべて、己の武器を掲げる。

「グランディア王家の祝福を受けた聖剣『信念フェイス』。貴様ごときの魔力で、その守りを破れるものか」

 上級貴族を父親に持ちながら、私生児故に騎士になれなかったアルフレッドが選んだ道。それは、身分に関係無く受けられる、グランディア王国の『聖剣士』の称号を授かる事だった。聖剣士になる事で、彼は女王の傍に仕え、腹違いの兄ランドールと並ぶ戦士として立つ事が出来たのだ。

 聖剣は、信念であり、誇りであり、加護であり、今もなお衰える事の無い、ミスティ女王への忠誠の証である。それを蔑む者に、聖剣士は容赦するという事を知らない。

「貴様が意味が無いと言い放った、旧体制の守りだ」

「ひっ、ひいい……!」

 静かに放たれる威圧感の前に、尊大な態度はどこへやら、ジョルツは情けない悲鳴をあげながら後ずさり、背を向ける。アルフレッドはその背中に容赦無く斬りつけ、体勢を崩したところに更に一撃、二撃を加え、足の腱を切って、その場に這いつくばらせた。

「くっ、来るな! 来るんじゃない!」

 ゆったりとした足取りで近づけば、ジョルツが恐怖に怯えた蒼白の顔をして、滅茶苦茶に闇魔法を放ってくる。だがそれも、アルフレッドが眼前に掲げた聖剣の輝きの前には、針先ほどの威力も発揮できぬまま弾け飛んだ。

 聖剣の切っ先をジョルツの鼻先に突きつける。相手は完全に恐慌した様子でがたがた震えている。こちらは逆光を浴びて、表情は見えていないだろう。アルフレッドは自嘲気味に唇を歪めた。

「この場にエステル様がいらっしゃらない事に、心底感謝するよ。僕も心置きなく残酷になれる」

 そうして彼は、聖剣を思い切り振り下ろす。断末魔の悲鳴さえあげさせぬまま、敵将の首が床に転がった。

「……それに、あの方にこんな光景を見せたくはない」

 アルフレッドはジョルツの死体から目をそむけ、今更気づいたかのように、べっとりと頬に張りついた返り血を、拳で拭う。

「アルフレッド様!」

 ラケが魔鳥を飛ばしてきたのは、その時だった。

「あれを!」

 彼女の指差す方向を見やる。ここから離れた城壁に投石機が幾台も配備されている。それがギャラルン大橋に向かって、一斉に投射を開始したのであった。


 風魔法が止んだ。

 少年が詠唱を途切れさせて、ふっつりと糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ち、セティエが慌てて駆け寄って抱き起こす。

「……お姉ちゃん」

 疲労しきった顔で、ティム少年は、かすれた声を絞り出した。

「ごめんなさい、身体は思い通りにならないのに、何をしたかは全部覚えています……ごめんなさい」

 弟の謝罪に、セティエは一瞬泣きそうな顔をしたが、すぐに、相手を安心させる笑みを浮かべると、首を横に振り、

「いいの」

 と、ティムの身体を強く抱きしめた。

「今は、貴方が無事だっただけで、充分だから」

 その様子を見守って、エステルも安堵の吐息を洩らす。ティムが正気に返ったという事は、アルフレッドはジョルツを討ったのだろう。敵将が討たれれば、ブリガンディ攻略戦も無事に終える事が出来る。

 ところが。

「――エステル様!」

 そのアルフレッドの、焦り切った声が耳に飛び込んできて、エステルははっとそちらを向いた。ラケの魔鳥に同乗したアルフレッドは、返り血に塗れて凄絶な格好をしていたが、そこを指摘する間も与えずに叫ぶ。

「今すぐに兵を退かせてください!」

 彼の言葉と同時、ブリガンディの方角から次々と、投石機による弾丸が放たれ、着弾する。あるいは解放軍戦士を帝国兵や魔物ごと叩き潰し、あるいは高密度の火薬を仕込んでいたのか、爆発を起こす。

「恐らく、敵味方ごと橋を落とすのが、ジョルツの最後の策だったのです!」

 今、橋が落ちれば、どれだけの損害が両軍に出るか。味方の損耗さえ考慮に入れていないジョルツの、先程の鼠のような狡猾な顔を思い出して、背筋がぞっとする。しかし、躊躇っている時間も無い。

「全軍、一刻も早く撤退してください! 急いで!」

 号令を下して、味方が退き始めた途端、ギャラルン大橋が轟音を立てて崩れ始めた。解放軍も、帝国軍も、魔物も、区別無く瓦礫に呑み込まれ、下方の河へと落ちてゆく。

 クレテスやリタが、負傷した仲間に肩を貸して走る。ケヒトやリカルドは、腰を抜かした者を馬の背に引き上げる。セティエとティムも必死に駆ける。

「急げ! 死にたくなければ全力で走れ!」

 テュアンが檄を飛ばして大きく腕を振る横を、戦士達が駆け抜けてゆく。そろそろ危険を感じたか、彼女も離脱したところで、ギャラルン大橋は遂に崩壊し、河に沈んで、大きな水飛沫をあげた。


 ギャラルン大橋の戦いは、将こそ討ったものの、進路を断たれる形で終わった。

 無事に撤退を果たした解放軍の兵は、全体の八割ほどで、エステルはすぐさま、河に流された者の捜索を始めたが、一命を取り止めて救出される者は、数えるくらいしかいなかった。

 ヨーツンヘイム解放戦は、大きな痛手を残して、膠着状態に陥ったのである。

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