第2章:暗黒の侵食(9)
旧ヨーツンヘイム王都ブリガンディに駐留する帝国軍の間には、動揺が走っていた。反乱軍がラドロアを越えて、この首都に接近しているという情報が入ったからである。
(やはりオットーも役立たずだったか)
王城の奥、謁見の間の、歴代のヨーツンヘイム王が収まっていた玉座にふんぞり返りながら、占領官ジョルツ将軍は、一人唇を歪めた。
(だが、まだ負けた訳ではない)
その唇が、にやり、と上限の弧を描く。
(エンゲルもセルヴェンも、最後は正規軍で勝負をかけようとするから、馬鹿を見たのだ)
ジョルツは既に本国に遣いを送り、三人の魔族を派遣してもらって、キマイラだけでなく、
更に、彼はある大胆な作戦を練っていた上に、手にした切り札がある。くつくつと笑いを洩らした時。
「ジョルツ将軍、状況はいかがですかな」
突如謁見の間に赤い転移魔法陣が出現し、黒ローブに身を包んだ壮年の男が姿を現した。フードの下にほとんど顔が隠れているが、ちらりとのぞく尖った耳介に褐色の肌、黒い前髪と瞳は、魔族の証である。
「順調だ」魔族に笑みを向けながら、ジョルツは鷹揚に胸を張った。
「そなたが俺にくれた力で、準備は万全だ。これまでの連中の失態は、全てこのジョルツが挽回する。朗報をお待ちいただくよう、本国には伝えてくれ」
その言葉に、魔族がフードの下でほくそ笑む。
「そうですか。しかし、くれぐれも足元をすくわれぬよう、お気をつけて」
そうして彼は、来た時と同じように転移魔法陣を描いて、瞬時に消えた。
(所詮、得体の知れぬ奴よ)
魔族が消えた場所を見すえて、ジョルツは軽く舌打ちする。
ジョルツは元々、うだつの上がらないグランディアの魔道士であった。それがある日、あの魔族が彼のもとに現れ、
『人の上に立つ力が、欲しくはありませぬか?』
と、誘いをかけたのである。結果、ジョルツは並の魔道士には持てぬ魔力と術を会得し、帝国軍の中でも地位を上げた。
この力をくれた事には感謝している。だが、魔族の後ろ盾を得てのし上がった事を、あまり多くの人間に知られる訳にはいかない。ジョルツは密かに、自分の強化の秘密を知る人間を、闇に紛れて暗殺していった。そして最後には、あの魔族を始末して、自分が帝国最強の術士になれば良いと企んでいる。
反乱軍を潰せば、帝国内での自分の評価は急上昇し、計画は大きく前進するだろう。
「その為にも、せいぜい役に立ってくれたまえよ」
愉快げに目を細めて、彼は背後を振り返る。
そこには、彼が入手した『切り札』が、無言でたたずんでいた。
ブリガンディは、シャングリア大陸南方の東西を分かつ、ギャラルン河にかけられた大橋の中心に建てられた城塞である。大陸中心のグランディアや、常に小規模な諍いを繰り広げる北方諸国を通らずに、大陸西部へ向かうには、この橋を抜けるしか無い。
そんなギャラルン河を臨む平原へ陣を展開し、天幕のひとつで作戦会議を始めたエステルは、クリフや数人の偵察兵から集めた情報をまとめて、絶句せざるを得なかった。
「おいおい、アンデッドまでいるのかよ。いよいよ帝国が人間離れしてきたな」
帝国から派遣された魔族の召喚した魔物の顔ぶれを挙げて、テュアンが呆れたようにぼやく。
「エステル様」
アルフレッドが机上の地図を指で辿り、ギャラルン大橋を指差す。
「恐らく今回の戦場は、この橋の上になるでしょう。場所が限られ、魔物も大勢いる現状、戦い慣れていない者を前線に出しては、足を引っ張るだけです。こちらも兵を厳選する必要があります」
エステルはその言葉に従い、前回のラドロア戦で芳しい戦果を挙げられなかった者、負傷して今も療養中の者、腕の拙い新兵は、後方に待機させる事を選んだ。
会議が終了して、皆が天幕を出てゆく中、エステルは「クレテス」と幼馴染に声をかけた。
「今回は、貴方も無理をしない方が良いのではないですか」
彼がラドロアでアルフォンスに負けかけた事は記憶に新しい。骨折した足は、ロッテの回復魔法ですっかり治っていたが、少年がまたあんな目に遭ったら、と思うと、エステルの胸はきつく締めつけられるような痛みを覚えるのだ。
自分で選んだ道とはいえ、この戦いに、己が幼馴染達を巻き込んでしまったのではないかという気後れは、常にエステルの胸中にある。銀色の睫毛を伏せて、ひとつ、嘆息すると、ぽん、と大きな手が頭に乗せられた。
「責任を感じてるなら、お門違いだぞ」
目線を上げれば、蒼の瞳が少し不機嫌そうに細められている。
「ラドロアであいつに後れを取ったのは、確実におれの実力不足だ。お前のせいなんかじゃあない」
「でも」
「隣にいさせてくれよ」
尚も言い募ろうとするエステルを制して、クレテスはこちらの頭をわしゃわしゃと撫で回す。
「おれは、後ろに下げられて、お前や皆がどうしているかわからないまま気を揉むより、一緒に前線に出て、助けられる時に手を伸ばせる状況にいたい」
彼の口元が、少しだけ持ち上がる。
「言ったろ。お前が戦うなら、背中はおれが守る。いつでも傍にいる、って。果たさせてくれよ」
トルヴェールで、己の出生を知った日に聞いた、彼の言葉だ。それを持ち出されると、頬が熱くなる。心拍数が上がる。その原因が何なのかわからないまま、エステルは、
「わかりました。でも、くれぐれも気をつけて」
と、返すしか無い。
「了解」
ぽん、と最後に軽くひとつ頭を叩かれて、クレテスの手が離れていった。
ギャラルン大橋上での戦いが始まった。
帝国軍は、正規軍の上に大量の魔物を投入してきたが、これまでの戦いで経験を積んできた解放軍の戦士達も、負けてはいない。素早く上空を飛び交う鳥人間には弓兵や速さのある魔鳥騎士で、固い皮膚を持つ食人鬼や、首を落としても死なない不死者には、魔道士の炎で対抗し、更には、魔物に対抗する者と、正規軍に相対する者を明確に役割分担する事で、着実に敵の戦力を削いでゆく。
だが、一刻ほど経った頃だろうか。まっすぐに向かってくるだけの、思考能力の低い魔物はともかく、傷を負った帝国兵がブリガンディへと後退してゆく中、こちらへ向かって悠然と歩いてくる一人の兵の姿があった。いや、兵と呼ぶには軽装な少年で、背は低く、この戦場にあまりにも不釣り合いである。
撤退する兵と肩がぶつかっても意に介する事無くまっすぐに進んでくる少年が、ぶつぶつと何かを呟いているのが、魔法の詠唱とわかった瞬間、
「エステル様! 皆を引かせてください! 間に合わなければ伏せて!」
セティエが甲高い声で叫びながら飛び出し、短い詠唱で魔法障壁の術を発動させた。言われた通り地面に身を伏せた直後、どう、と周囲の空気を殴りつけるような音が響き渡り、帝国兵や魔物さえ巻き込んだ烈風が吹き荒れながら、ギャラルン大橋を駆け抜けてゆく。
風が過ぎ去った後、のろのろと身を起こせば、辺りには巻き込まれた者の死体が横たわり、地面は風の進路通りに削り取られて、今放たれた魔法がどれだけの威力を持っていたかを、まざまざと見せつけている。もしこれの直撃を食らっていたらと思うと、背筋がぞっと寒くなった。
魔法を放った少年を射ようと、ケヒトら弓兵が矢をつがえる。しかし。
「待ってください!」
前線へ飛び出したセティエが、両腕を伸ばしてそれを制した。
「あれは、あの魔道士は、私の弟のティムです!」
それを聞いた瞬間、誰もが驚きに目を見開いてしまう。
「セティエの弟なのですか?」エステルは翠の瞳をしばたたきながら、彼女に訊ねた。「何故、貴女の弟が帝国軍に」
「わかりません。あの子は故郷のアルフヘイムにいるはずでしたから」
セティエも戸惑った様子で首を横に振る。
「ですが、あの風魔法は、私達姉弟の祖父が編み出した『ヴォルテクス』。あれだけの魔法を使えるのは、弟しかいません」
そして彼女は、エステルに向けて勢い良く頭を下げた。
「お願いです、エステル様。私に時間をください。弟に何があったのか、確かめさせてください!」
顔を上げた彼女の緋色の瞳は、家族を救いたいという切なる願いを込めている。そんな顔で頼まれて、否と言えるエステルではない。だが、この混線を鑑みて、説得の時間をそう長く取れない事もわかっている。数瞬迷った末に、彼女は決断を下した。
「こちらの軍に再び危険が及んだら、すぐに貴女を下げて、彼を射ます。それでもいいですか」
「……ありがとうございます」
セティエが唇を噛み締め、再度低頭すると、踵を返し、弟と二十歩ほどの距離を置いたところまで近づいて、「ティム!」と声を張り上げた。
「私です、セティエです。一体どうしたの、しっかりなさい!」
だが、ティムと呼ばれた少年は、青緑の瞳の視線を虚ろに宙に馳せたまま、反応しない。
「ティム!」
セティエが声量を上げて再度呼びかけた時だった。
少年の斜め前方に、転移魔法陣が生じ、そこに、鼠じみた顔をした中年の魔道士が姿を現したのである。
「これはこれは、初めまして、エステル王女。それに反乱軍の皆様。ご機嫌うるわしゅう」
あまりにも芝居がかった所作で、魔道士は大げさに腕を振り上げ、やたら恭しく挨拶をしてみせる。
「我が名はジョルツ・クレンペラー。以後、お見知りおきを。まあ、これきりの縁になりますが」
「クレンペラー……?」
どこかで聞いた苗字に、エステルが眉をひそめると、ジョルツはくつくつと笑いを洩らした。
「ええ、アルフヘイムでは、我が兄セルヴェンが大変お世話になりました」
「セルヴェンの、弟!?」
ラケが悲鳴じみた声をあげて口元をおさえる。思い出す悲劇があったに違いない。それを横目で見て、ジョルツは楽しげに肩を揺らす。
「別に仇討ちなどとは考えておりませんよ。むしろ、こちらの手を汚さずに邪魔な兄を始末してくださって、貴女がたには感謝の念すら抱いております」
「嫌味な奴だな」
リタが半眼になって舌打ちする。
「貴方、弟に何をしたの」
セティエが表情を険しくして問いかけると、ジョルツは「おお!」と、演者のように大げさな反応をして、両の腕を広げてみせた。
「貴女が彼のお姉様でしたか! いやはや、祖父殿の死を伝える為に、姉君を探しているという健気な少年でしたからな。私も微力ながら捜索のお手伝いをする代わりに、少しだけ協力して欲しいと願ったのですが、すげなく断られたので」
そうして彼は、ちらりとティムを見やる。
「私の術を使って、従順に言う事を聞いてもらえるように、少しばかり、ね」
「傀儡術を使ったの?」セティエが忌まわしげにジョルツを睨みつけた。「傀儡術は聖王ヨシュアが戒めた禁呪でしょう!」
だが、苛烈な視線を浴びても、ジョルツが怯む事は無い。
「聖王ヨシュアですか。四英雄など、今や過去の妄想に過ぎませんよ。時代は今や帝国のものです。旧王国の体制は意味を持ちません。ましてやその理想など、紙より薄っぺらい」
「グランディア王家を侮辱する気か!」
突然、隣でアルフレッドが激昂した事に、エステルは心底驚いて、叔父を見上げる。その褐色の瞳には、いつにない怒りが燃え、普段温厚な彼の表情は、険しく歪められている。
だが、アルフレッドの激怒もどこ吹く風、ジョルツは泰然と続けるのだ。
「おやおや、誰かと思えば、十六年前に尻尾を巻いて逃げ出した聖剣士殿ですか。兄夫婦を救えずに、辺境でめそめそ泣きながら子守をしていたとか」
ジョルツの視線がエステルに向き、ねっとりと舐め回すように頭から爪先までをも見つめる。
「優女王の忘れ形見を解放の旗頭として立てたようですが、帝国の威光の前に勝てる算段はあったのですかねえ? 負ければ女はどれだけ悲惨な道を辿るか、ミスティ女王でさんざんわかっているだろうに、愚かなものです」
その言葉に、アルフレッドの怒りが更に募ったようだった。ぎりぎりと歯噛みし、拳を作った手は、ぶるぶると震えている。そんな彼の様子を面白そうに見やりながら、ジョルツは再び転移魔法を発動させる。
「それでは、ごきげんよう、エステル王女とその取り巻きの方々。貴女がたが、仲間の身内を手にかけた後で、なす術無く全滅してゆく様を、私は後方でゆっくり見物させていただきますよ。お茶でも飲みながらね」
哄笑と共にジョルツの姿がかき消えたかと思うと、ティムが再び風魔法を放った。咄嗟にセティエが炎魔法で相殺するが、魔法の威力はすさまじく、熱を孕んだ風がこちらまで吹きつける。魔物と帝国軍も再びこちらへ押し寄せてくる。
アルフレッドが、迫ってくる帝国兵を斬り捨て、その頭に蹴りを入れて、「ジョルツ……!!」と憎々しげに洩らす。あまりの剣幕に、エステルが声をかける勇気すら失って唖然としていると、見かねたのか、テュアンが彼の肩をつかんだ。
「落ち着けよ、アルフ。子供達が見てる」
言われて、彼は我を取り戻したか、気まずそうにエステルの方を向き、軽く頭を下げる。
「申し訳ございません、エステル様。お見苦しいところを」
「いえ……」
叔父の声はまだ憤怒を包括している。それに少しおののきながら、エステルは戦場を見渡す。
「でも、この状況をどうすればいいのでしょう」
戦場は再び混戦に陥っていた。橋の真ん中では、セティエが必死にティムの魔法を相殺し続けているが、詠唱を連発すれば疲労は蓄積されてゆく。操られて限界を知らないティムより先にセティエが力尽きる事は、火を見るより明らかだ。考えあぐねていると。
「傀儡術は、術者を倒せば解呪されます。城に乗り込んで、ジョルツを討ちます」
アルフレッドが事も無げにそう言って、魔鳥騎士であるラケを呼んだ。まさか、魔鳥で後方に飛び込むつもりか。
「待ってください、叔父様。いくら何でも危険すぎます」
エステルは戸惑い気味に叔父の腕をつかむ。しかし。
「……申し訳ありません、エステル様」
あまりにも静かに返された応えに、息を呑み、固まってしまう。
「今だけは、私の我儘を貫かせてください」
目の当たりにしたアルフレッドの表情はあまりにも穏やかで、耳に滑り込む声はどこまでも平坦で。だからこそ、底知れぬ怖さを秘めている事を、エステルの胸に刻みつけた。
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