第2章:暗黒の侵食(7)

 帝国兵が我が物顔で行き交う道を、深々とフードをかぶって銀髪を隠したエステルは、アルフレッドとクレテスと共に歩いていた。

 次に戦いの場となるだろうラドロアの、近隣の街がどんな現状にあるのか。実態を確かめたいと申し出て、アルフレッドが相当渋い顔をしながらも承諾してくれたのである。

 そうして、兄妹を連れた父子に扮して、三人はラドロア近くの町へと入り込んだ。

「思ったより、賑わっていますね」

 周囲を見渡しながら、エステルはぽつりと洩らす。開かれた店舗は、帝国兵相手に商いをし、笑顔で応対している。しかし。

「表向きです」

 アルフレッドが苦々しく呟いて視線を向けた先にならえば、にこにこしている商売人は、商品の他、すっと兵の懐にディール金貨の入った袋を滑り込ませていた。

「賄賂で身の安全をはかろうってか」

 クレテスが呆れたように嘆息する。

「それで、金の無い奴はああなるんだな」

 彼が目をやった先には、ぼろをまとって道端に座り込み、誰にも顧みられない、憐れな男の姿があった。

 エステルが唖然としている間に、道の向こうから、帝国兵ではない青年がやってくる。彼はエステル達に目をくれる事も無くすれ違っていったが、直後、アルフレッドがはっとして袖を探り、「エステル様」と声を低めて囁いてきた。

「私は急用ができました。しばしお傍を離れますが、どうか騒ぎだけは起こさないようにお願いいたします」

 そう言い残して、彼は先程すれ違った男をごく自然体で追うように歩き出した。

「多分、ユウェインみたいに、隠密をしている奴じゃないか」

 エステルがぽかんと呆気に取られていると、クレテスが横から耳打ちする。

「何か、話があるんだと思う」

 そうして彼は、「はぐれるなよ」と言いながら歩を進めた。

 通りで見かける人間の貧富の差は顕著で、帝国兵に袖の下を渡している者は、身なり良く胸を張って歩いている。だが、それが出来ない者は、うつむいて、道の端をとぼとぼ行くしか無い。

 がりがりに痩せて、古いござの上で身を寄せ合う幼い姉弟が視界に入る。エステルは見るに見かねて、いくばくか持っているディール硬貨を渡そうかと財布を探った。が。

「駄目だ」

 と、クレテスがそれを遮った。

「何故ですか」エステルは翠の瞳を細め、むっとして言い返す。「目の前で苦しんでいる人がいるのに」

「だからだよ」

 返ってきたのは、呆れたような溜息だった。

「目の前の人間だけ助けても、それは一時的なものだし、お前が金を出した瞬間に、他の連中が群がってくる。最悪、もらった硬貨一枚を巡って、あの姉弟が殺される可能性があるぞ」

 思い切り頭を殴られたような気分だった。自分は何て考え無しなのだろう。ほんの少し熟慮すればわかりきっていた事を、思い至りも出来ないほど甘いなど、自分はこの先、解放軍の盟主として立ってゆけるのだろうか。落ち込んでうつむいてしまうと。

「まあ、お前はそうだからこそ、慕われるんだろうけどな」

 クレテスの声が耳に届いて、ふっと顔を上げれば、少年は、手を焼く子供を見守るような目でこちらを見つめていた。

「お前がそうやって優しいから、皆、お前についていくんだ」

 おれも、と小さく聞こえた気がして、エステルは小首を傾げる。

「と、とりあえずさ」

 じっと見つめると、クレテスは何故か気持ち頬を朱に染めながら、近くの軽食店を指差す。

「アルフレッドさんが戻ってくるまで、時間を潰そうぜ。喉が渇いただろ」

 すぐそこでひもじい思いをしている子供達がいるのに、自分達だけ美味しい思いをするのはしのびない。だが、今エステルにできる事は何も無いのだ。ゆっくりとうなずき、クレテスの後について、店へと入っていった。

 店は立ち食い形式で、丁度昼食が終わり、午後の茶の時間で、それなりに賑わっていた。クレテスが給仕にこなれた様子で注文をすると、柑橘類を搾ったジュースと、チョコレートチップを混ぜ込んだクッキーが運ばれてくる。

「あんまりきょろきょろしないで食えよ、怪しまれるからな」

 周囲はどんな物を頼んでいるのだろうという興味から、こうべを巡らせていたところに、そう釘を刺されて、エステルは慌ててテーブルに向き直り、ジュースに口をつけた。途端に甘酸っぱさが口内に満ち、喉が潤ってゆく。

 それからチョコチップクッキーに手を伸ばそうとしたところ、不意に、クレテスの手が重なる形になった。

「わ、悪い!」「いえ、こちらこそ!」

 お互いにしどもどしながら手を引っ込め、そういえば、とエステルは気づいた。

 テーブル一つ一つが小さい事と、店が狭くて隣と肩をぶつけないように気を遣わねばならないせいで、少年との距離が近い。無造作に切って非対称な金髪は、きりっとした顔に似合っていて、蒼の瞳はとても綺麗だ。それなりの身なりをしたら、王侯貴族として通るのではないだろうか。

「……あのさ」

 唐突に、クレテスが決まり悪そうに目を細めた。

「そんなにじーっと見られてると、食いにくいんだけど」

 エステルはそこでようやく、至近距離で彼の顔にまじまじと見入っていた事に気づき、

「ご、ごめんなさい!」

 誤魔化すようにクッキーを口の中に放り込む。顔が熱を持って、染み渡るはずの甘さも、今は何か口の中でもしゃもしゃするもの、としか感じられない。

 何故、こんなにも、この幼馴染の事が気にかかるのだろう。トルヴェールにいた頃は、臆面も無く向き合って、一緒に野山を駆け回っていたというのに。自分の気持ちに戸惑っていると。

「おいおい兄ちゃん、明るいうちから見せつけてくれるじゃあねえか」

 下卑た笑いが投げかけられ、クレテスは鬱陶しそうに顔をしかめ、エステルはきょとんとしながら、声の方を向いた。紋章のついた銀鎧。帝国兵だ。今の時間から酒のにおいを漂わせて、ややろれつが回っていない。足元もふらついている。

「お嬢ちゃんは、そんなフードをかぶって、恥ずかしがり屋さんなのかあ? ちょっくら顔を見せてくれよ!」

 帝国兵の手がエステルのフードをはぎ取ろうと伸びてくる。ここで自分の銀髪を見せる訳にはいかない事は、重々わかっている。咄嗟に身を引くと、クレテスが即座に少女と男の間に割って入り、帝国兵の腕を取って、背中に回し締め上げた。

「いででででで!」「ガキが! 何しやがる!」

 近くに仲間がいたのだ。抜剣しながらこちらへ向かってきて、店内が騒然とする。『騒ぎだけは起こさないように』とアルフレッドに言い含められた事を思い出し、身を固くした時。

「一体何事ですか、これは」

 血気に逸る帝国兵の肩をつかんで引き留める、年若い男の声が耳に届いた。

「いたずらに民に危害を加える事が、帝国臣民のする事ですか」

「ぐっ、それは……」

 帝国兵が言葉に詰まり、舌打ちしながら剣を鞘に納める。その後ろから出てきた相手を見て、エステルは、継ぐべき言葉を失って立ち尽くしてしまった。

「申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました」

 そう言ってきっちりと頭を下げてから、おもてを見せたのは、エステルと同い年くらいだろう少年だった。彼が、遙か年上だろう帝国兵を退かせた事も驚きだったが、何より、その容貌にエステルは息を呑む。

 髪に銀と金、瞳に翠と青の違いこそあれど、少年は、もしエステルが男だったらこうだろうという姿そのものをしていたのである。

「こちらは収めるので、そちらも手を離していただけるとありがたいのですが」

 エステルの驚きを置き去りにして、少年はクレテスに声をかける。クレテスも、エステルと同じ事を思っていたのか呆然としていたが、はっと我に返ると、「あ、ああ」とうなずいて、帝国兵の腕を解放する。脱臼しかけたのかもしれない、兵は「くそっ」と悪態をつきながら腕をさすりつつ後ずさった。

「こんな所にいたのか」

 アルフレッドの声が耳に飛び込んできたのは、その時だった。

「あれほど、帝国の方々にご迷惑をおかけするなと言ったのに。帰るぞ」

 いつもと違う口調で叱咤されながら腕を引かれて、戸惑うと。

「今、正体を知られる訳にはまいりません。合わせてください」

 そう小声で囁かれたので、「はい、お……父様」と、エステルはしどろもどろに返した。

「申し訳ございませんでした」

「いえ、こちらこそ」

 アルフレッドが頭を下げると、少年も軽くこうべを垂れ、そして、名乗った。

「自分は、カレドニア騎士アルフォンス・リードリンガーと申します。何か不都合があったら、ラドロアまで問い合わせてくださるとありがたいです」

 エステルは、アルフレッドがすぐさま自然に話を流すものだろうと思っていた。だが、叔父は、びくりとエステルの腕をつかむ手を震わせ、

「アルフォンス……リードリンガー……」呆然と少年の名を反芻している。

「何か?」

「い、いえ」

 アルフォンスが怪訝そうに眉をひそめると、アルフレッドは自失していた事にようやく気づいたようで、取り繕うように首を横に振った。

「知人と勘違いしていたようです。ご無礼を」

「いいや」対するアルフォンスは、不敵な笑みを口の端に浮かべる。

「エステル王女に付き従っているという聖剣士殿の知人と間違われるのは、むしろ光栄な事ですね」

 途端、場の空気が凍った。アルフレッドが咄嗟に腰の聖剣『信念フェイス』の柄に手をやる。だが、対するアルフォンスは、泰然としたまま動かなかった。

「ここは剣を抜き合う場所ではない。早く行かれると良い」

 アルフレッドがアルフォンスを見すえたまま、一歩、二歩、身を引き、踵を返す。彼に腕を引かれるまま、エステルは店を後にし、クレテスもちらちらと振り返りながら追いかけてきたが、アルフォンスはその場に悠然とたたずみ、姿が見えなくなるまで、追撃をかける気配を一切見せなかった。


「てめえ、どういう了見だ!」

 エステル達が去った店内で、帝国兵が、ばあん、とテーブルを平手で打って、アルフォンスに詰め寄った。

「反乱軍の聖剣士っていやあ、アルフレッド・マリオスだろ!? 奴を討ち取る千載一遇の機会だったじゃねえか!」

「気づきませんでしたか?」

 アルフォンスは青い瞳を細めて、三人が去っていった店の入口を見やる。

「彼が連れていた女性、あれは、エステル王女です」

 たちまち兵達に動揺が走る。酔いはすっかり吹っ飛んだようだ。

「なら、尚更だ! エステルを捕まえれば」

「それを戦場ではない、相手に圧倒的に不利な状況で行っては、帝国の威光に傷がつくと思いますが」

 ぐっと返答に詰まる兵達に向けて、「それに」とアルフォンスは続ける。

「エステル王女を奪おうとすれば、あの聖剣士が黙っていません。彼の剣の腕は、旧王国でも一、二を争うと言われていました。貴方がたの身の危険もあった」

 最早反撃を封じられて、帝国兵達は歯噛みしながらも口をつぐむしか無い。その様子を見渡して、アルフォンスは思い返す。フードの下から、驚愕を込めてこちらの顔を見ていた、翠の瞳を。

 彼女は、自分の姿を見て何を思っただろう。その心を推しはかる事は、アルフォンスにはできなかった。

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