第2章:暗黒の侵食(6)

 アルフヘイムを解放した解放軍は、一路街道を南下し、ヨーツンヘイムへと入った。

 ヨーツンヘイムはかつて、リュングヴィ家が治める一王国であったが、帝国の各地侵攻の際、ムスペルヘイムのメリアイ女王を援護する為に出陣した時の王ハティが、道中臣下の裏切りに遭い殺害され、王都に残っていた王族も皆処刑されて、一族の血は途絶えた。

 ヨーツンヘイムは今や、帝国将軍ジョルツの支配する地となり、人々は搾取され、命すら奪われて、圧政に苦しんでいる。

 その腐れた空気は、旧王都ブリガンディから遠く離れた地でも、ふんぷんたる悪臭を放っていた。


 反乱軍がアルフヘイムを攻略した報が届き、ラドロア砦のオットーは動揺していた。奴らの進軍行路からして、次に攻め込まれるのは、このラドロアだろう。

 死ぬのは誰だって怖い。オットーは恐怖し、ヨーツンヘイム旧王都ブリガンディのジョルツ将軍に援護を求めた。それに対する上官からの返答は、三体のキマイラと、帝国の同盟国であるカレドニア王国からの一軍を寄越す、というものであった。

 そして数日後。

 ラドロアの空を数十騎の魔獣グリフォンが埋め尽くした。

 もし、目の良い者が見ていたら、その先頭を飛ぶのが、茶色い羽根を持つグリフォンではなく、銀色の翼をした魔鳥である事に、気づいただろう。


 ラドロア砦の屋上に次々と降り立つグリフォンを、帝国軍の兵士達が物珍しそうな表情で見守っている。カレドニアは土壌が貧しく産業で国を興せない事で有名で、その代わり、野生の魔獣グリフォンを飼い馴らして騎乗用とし、軍事力を高めている。その力で、他国を攻めたり、他所の戦に傭兵として介入する事で、益を得て、大陸有数の軍事国家として君臨した。その勢いは、かつてグランディアが王国であった頃、ミスティ女王が外交の問題点として常に抱えていた命題でもあった。

 とにかくカレドニアは、その戦力をもって帝国からの侵略にも耐え、瓦解しきる前に現王バルトレットが恭順の道を選び帝国傘下に入るまで、勇猛なる魔獣騎士達は徹底抗戦を続けたのである。

 そんな猛者達の駆るグリフォンがやってくる様は壮観で、オットーも、これが敵でなくて良かったと内心冷や汗をかいていたが、努めて平静を装い、カレドニア兵を率いる将が降り立つのを待っていた。

 だが、やってきた隊長を見た時、オットーは怪訝そうに眉をひそめた。隊長らしき人物が騎乗していたのは、筋骨逞しいグリフォンではなく、すらりとした銀色の魔鳥だったのである。

 魔鳥アルシオンは飛行戦士の乗用する生き物の中で最も身体が小さく、小回りが利く素早さを誇り、魔法に対する耐性も高い。しかしそれ故に、力任せの戦闘になった時の馬力はグリフォンに及ばず、故に「弱い」とみなされる。そんな魔鳥騎士が隊長の一団を寄越すとは、カレドニアは帝国をなめているのか。苛立ちがオットーの胸に湧いて出た。

 彼の胸中など露知らず、魔鳥騎士の主は鞍から降り、まっすぐこちらへと向かってくる。その姿を見た時、オットーは更なる驚きで目をみはった。

 太陽光に映える金の髪。空の青を映し込んだロイヤルブルーの瞳。そしてその顔立ちは、まだ十六、七であろうかという、少年だったのである。

「お初にお目にかかります、オットー卿」

 発せられた声も、年相応の張りのある声であった。

「カレドニア遠征軍隊長、アルフォンス・リードリンガーであります」

 背筋をぴんと伸ばしたまま腰を折って深く頭を下げ、はきはきと物怖じせず挨拶する姿に、オットーは、四十路という年齢に見合わず気圧された。だが、何とか己を律すると、胸を張り鷹揚に返す。

「ほ、ほおー。貴君がこの部隊の長か。若いのに、なかなか立派な兵を率いておられる。しかし……」

「何か?」

 意味ありげに言葉尻を濁すと、アルフォンスが瞳を細めて怪訝そうな表情を見せる。乗ってきた。オットーはにやりと笑って、顎髭に手をやった。

「こう言うのも何だが、隊長殿がグリフォンより弱いアルシオンに乗る部隊を派遣するとは、バルトレット王は、我ら帝国との絆をないがしろにしておられるのではないか、とも思うてな」

 相手は若造だ。これで機嫌を損ねて「帰る」と駄々をこねれば、所詮そこまでのお子様だ。カレドニアから違約金をふんだくればいい。

 だが。

 少年隊長は、すっと真顔に戻ると、「お言葉ですが、卿」と言を継いだ。

「自分の乗騎は、アルシオンではありません。幻鳥ガルーダであります」

 その単語に、オットーは目をみはり、帝国兵達がざわめいた。

 ガルーダは、グリフォンに引けを取らない耐久性と、アルシオンに並ぶ機動力を有する。だが、『幻の鳥』と呼ばれるほどその絶対数は極端に少なく、旧グランディア王国の女王騎士ランドール・フォン・マリオスの『ブリューナク』が主と共に墜ちたのを最後に、大陸からは最早絶滅したものと思われていた。その伝説の幻鳥を、こんな若造が操っているというのか。

「ほ……ほう、それは素晴らしい、しかし……」

 オットーはまたも勿体ぶって顎を撫で、アルフォンスが眉間に皺を寄せるのを見届けると、口元をつり上げた。

「どんなにガルーダの性能が良くとも、その乗り手に実力が伴っているかどうかまでは、すぐにわかるまいて。いや、決して貴公の力を疑っている訳ではないのだがな」

 それを聞いたアルフォンスは子供じみた激昂を返すもの、とオットーは踏んでいた。しかし少年はまたも平静を保ち、逆に問い返してきたのである。

「では、どのようにすれば、卿の信用を得られますでしょうか」

 予想とは少し違うが、かかった。オットーは心の内でほくそ笑む。

「簡単な事よ。我ら帝国の誇る魔物と戦ってもらいたい。伝説の幻鳥騎士ガルーダナイトならば、キマイラごとき、造作無く倒せるだろう」

 実際のところ、少年がこの挑発に乗る可能性は零だと、オットーは踏んでいた。戦場へ引っ張り出す兵すら頭から食らう事があるほど獰猛なキマイラを相手取るのは、生命の危機だ。怖気づいたところで揚げ足を取れば、「気弱な指揮官を寄越した」とカレドニアにけちをつけられる。オットーの脳内ではとにかく、いかにして金を得るかの貪欲な策が飛び交っていた。

 ところが。

「かしこまりました」

「そうだろうそうだろう。……へ? あ痛ッ!」

 アルフォンスから返ってきた予想外の答えに、断るものと信じ切って顎髭をいじりながらうなずいていたオットーは、目を真ん丸くし、勢いで髭を数本むしり取ってしまった。

「十分で準備を済ませます。その間に、魔物のご用意を」

 少年の青い瞳はどこまでも冷静で、決して自棄になっているようにも見えない。何故、そうも平然としていられるのか。もしかして自分は、とんでもない相手に喧嘩を売ろうとしているのではないか。そんな恐れすら胸に訪れたが、一度吐き出してしまった言葉はもう取り消せない。

「わ、わかった。しばし待たれよ」

 オットーは、抜けてしまった髭を名残惜しそうに屋上の風に流してから、部下に魔物を連れてくるように指示を下した。

 やがて、鎖に繋がれながらも必死に首を振って暴れるキマイラが、兵六人がかりで引きずられて、屋上に姿を現す。アルフォンスはそれを横目で見やると、槍を手にひらりと幻鳥の背へ飛び乗り、鞍を蹴って、上空へ向け銀の翼を羽ばたかせた。

 一拍遅れて、鎖から解き放たれた魔物が、餌を得た歓喜に吼えながら、その後を追う。

 屋上の誰もが固唾を飲んで見守る中、獅子の顔が背後に迫るまで、幻鳥騎士は動じなかった。だが、魔物の鋭い牙が首をもぎ取ろうとした瞬間、アルフォンスの手にした槍が太陽の照り返しを受けてきらめき、獅子の首が飛んでいた。

 キマイラの悲鳴が山羊の口からほとばしる。蛇の顔が慌てて炎の球を吐き出したが、ガルーダが翼の一打ちでそれを消し飛ばし、振り回された蠍の尾は、即座に高度を下げる事で避けられた。標的を見失ったところで再び槍が一閃し、尾を払い飛ばす。圧倒的機動力で即座に上手を取った幻鳥騎士は、力強く槍を振り払い、魔物の片翼をもぎ取った。

 憐れな悲鳴をあげながら、飛行を保てなくなった魔物が地上へ向けて落下してゆく。それがどういう末路を辿ったか、屋上にいる者には音となって耳に届いた。瞬きする間も無いほどの、あっけない勝負であった。

 幻鳥が屋上に戻ってくる。その背から降りたアルフォンスは、汗ひとつかかず、呼吸も乱れずに、再びオットーの前に立つと、深々と頭を下げた。

「卿、貴殿の戦力を減らしてしまいました。申し訳ございません」

 その言葉に、目を見開きぽかんと口を開けていたオットーは、ようやっと我に返ると、「い、いや」と何とか居丈高に格上を保とうとした。

「こちらこそ、貴君の実力を侮っていてすまなかったな。その力で、必ずや反乱軍を打ち倒し、エステルの首を取ってくれたまえ」

 これなら大丈夫だ。オットーは安心していた。この幻鳥騎士が率いる魔獣騎士団なら、きっと反乱軍を壊滅させてくれる。その間に、自分の軍はいつも通り略奪に勤しめば良い、と。

 だから、彼は気づかなかった。

 低頭するアルフォンスが、エステルの名を聞いた瞬間、何か苦痛を耐えるように、唇を噛み締めた事に。

 ましてや、彼の胸中に渦巻く思いなどには。

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