第2章:暗黒の侵食(5)
四月十七日。解放軍は、セルヴェン・クレンペラー将軍が待ち構えるオアンネス砦に肉薄した。
「今回は、魔物が出てくる可能性が非常に高いです」
砦を見下ろす丘の上に陣を張って作戦会議をしている時、アルフレッドが神妙にエステルに告げた。
「私も魔物と対峙した経験はありませんが、戦に慣れていない初心者はこと注意してください。距離を取り、近づかない事。でなければ初手で殺されると、聖王伝説には語られています」
自己の出自を知ってから紐解いた、子供向けの絵本ではないれっきとした史書であるヨシュア王の戦記を読んだため、現在のエステルにはその知識がある。ヨシュア王も解放運動の初期、魔物への知識不足が原因で多くの同志を無惨に死なせる失態を犯していた。
伝説の英雄とて万能ではないのだ。指揮官どころか一人の戦士としても未熟な自分に、皆の命を預かる役目が果たせるだろうか。ひとつ、溜息をついた時。
「それでも、やるしか無いだろ」
地図を広げた卓を囲んで一緒に話を聞いていたクレテスが、声をかけてきた。
「魔物との戦闘経験が無いのは、皆一緒なんだ。お互いに補い合えば、きっと何とかなる。聖王ヨシュアに出来た事が、おれ達に出来ないはずが無いさ」
その一言で、鉛の塊が落ち込んでいたような心が、すっと軽くなる。この幼馴染は、旅立ってからこちら、常にエステルを気遣って、安らぐ言葉をかけてくれる。昔はとても喧嘩っ早くて、乱暴者にすら見えた少年の、意外な成長に、エステルは素直に感謝した。
「ありがとう、クレテス。頑張りましょう」
笑みかけると、クレテスは心なしか紅潮し、
「ま、まあ、やれるだけの事はやらないとな」
と、そっけなくそっぽを向く。礼を述べただけなのに照れるとは、彼らしくないと思い、小首を傾げる。
そんな姪達の様子を微笑を浮かべて見守っていたアルフレッドが、不意に笑みを消し、「ラケ」と魔鳥騎士を名指しした。
「君は今回の出撃を禁止する」
途端に、ラケがさっと青ざめ、「何故です!?」と普段の落ち着きからは想像もつかぬ大声をあげて、卓に身を乗り出してきた。
「私は戦えます! リヴェールの皆の仇を取らせてください!」
「それだから駄目だ」
アルフレッドは眉間に皺を寄せ、首を横に振る。
「先日の戦闘で、君は突出しすぎていた。ケヒトの補佐が無ければ討ち取られていた可能性も否めない。戦場でそんなに感情的に武器を振るう者を抱える事は、味方全員を危険にさらす事になる。士気も乱れる」
彼の瞳がすっと細められ、冷たく宣告された。
「これは頼んでいるのではない。命令だ」
そう言われては、抗う術は無い。ラケは歯をくいしばり、ぐっと拳を握り締めたが、
「……わかりました」
とうなだれながら、ようよう返事を紡ぎ出した。
ラケの気持ちは、エステルにも痛いほどわかる。どんなにか、自分の手でレナードの仇を討ちたい事だろう。だが、その為に味方を危機に陥れ、最悪ラケ自身の命をも落とす羽目にはなって欲しくない。アルフレッドの言い分も、エステルの心には重々響いているのであった。
かくして、解放軍とセルヴェン将軍率いる帝国軍の、オアンネス砦を巡る戦いは幕を開けた。
セルヴェンの弓騎隊は、馬の機動力を活かして急速に目標に近づき、攻撃を仕掛けてすぐに後退する、一撃離脱を得意とする。その戦法に持ち込まれては、解放軍に勝ち目は無いので、エステルは一度砦に近づけた兵を、岩場の多い岩石砂漠に退かせて騎馬兵を引き込む事で、彼らの特技を封じ込める事に成功した。
たかが雑兵と侮って岩石砂漠に乗り込んできたものの、思い通りに馬を操れない帝国兵へ、矢やセティエの魔法を浴びせかけ、それを逃れた者には白兵戦を仕掛ける。
「リヴェールの皆の仇だ!」
前線を走るリタが、次々と拳を振るって、相手を馬から叩き落とし、クレテスやリカルドがとどめを刺す。
だが、幾人かを戦闘不能にしたところで、彼らは異変を察知し、空を見上げた。さっきまで雲一つ無かった青い空に、赤い魔法陣が不吉そのものの空気をかもし出して浮かんでいる。召喚の陣だ。
「来る!?」
リタの驚きの声に応えるかのように、魔法陣を乗り越えて、異形の怪物――魔物キマイラが一匹現れ、地上の餌を見つけた喜びに、咆哮をあげた。
「固まるな! いっぺんに殺られるぞ!」テュアンが檄を飛ばす。「散開しろ! 奴の目標を散らせるんだ!」
その言葉に、戦士達はめいめい岩場に身を隠す。どこから攻撃すれば良いか迷ったのだろう。キマイラの動きがたちどころに鈍る。そこへセティエが炎魔法を放って、山羊の頭を吹き飛ばし、弓兵が矢を撃ち込んで、翼の傷ついたキマイラの高度が少しずつ下がっていった。
「ええい、役に立たん!」
帝国兵の後方で、魔物と反乱軍の戦況を見ながら舌打ちする者がいた。明らかに弓騎兵とは違う黒いローブをまとい、黒髪黒目に、褐色の肌と長い耳介を持つその姿は、人ですらない。
魔族。
三百年前、魔王イーガンが破れて以降、大陸北部のニヴルヘルに身を隠していたが、帝国に召し抱えられ、再び権威を持ちつつある伝説の種族は、更にキマイラを召喚しようと、転移魔法陣の印を組む。
が、そこに暗器が飛来し、彼の手に突き刺さった。いきなりの痛みに、魔族は低く呻いて手をおさえる。
「はい、そこまで」
その首筋に、背後からダガーが押し当てられた。冷や汗をかきながら視線だけを動かせば、オレンジ色の髪の少年が、「
「まさか伝説の魔族様に出会えるとはね。あれ、召喚したのあんただろ。あんたを倒せば、これ以上の魔物は戦場に出てこない訳だよな?」
「させると思うか?」
こんな若造に後れを取りはしない。魔族はにやりと笑って攻撃魔法の印を組む。だが。
「だよねえ」
呑気な口調とは裏腹に、相手の行動の方が遙かに速かった。灰色の瞳がすっと細められたかと思うと、容赦無くダガーが魔族の喉笛を引き裂く。言葉にならない息を吐き出し、飛び散る血を己の物と認識出来ぬまま、魔族は絶命した。
上空にいたキマイラが、解放軍の戦士達の必死の応戦で、ゆっくりと地上に落ちてゆく様を、丘の上に張られた陣からラケは睨みつけていた。
今なら、空を阻む者はいない。魔鳥を駆ってセルヴェンを討ちにいける。
「――スズリ!」
魔鳥アルシオンにしか聞こえない波長の笛を吹き、愛鳥の名を呼ぶ。ピュイー、と鳴き声がして、白い翼の魔鳥が彼女の前に降り立った。その背に飛び乗ろうとした時。
「ラケ!」
馬を駆って背中を追いかけてきた声に、ラケは振り返り、そして驚きに目をみはった。
ケヒトだった。遠距離攻撃を行える弓騎兵である彼は、今回の戦力の中核を担うはずだったろう。何故、ここにいるのか。
「ケヒト、止めないで!」
ラケは少々ヒステリックに叫ぶ。自分が戦いに出るだろう事を見越して、引き留める為に残っていたというのなら、余計なお世話だ。首に縄をかけられても、その縄を引きちぎって出撃してやる、という気概が、今のラケにはある。しかし。
「止めないさ」
幼馴染から返ってきた答えは、彼女の予想外のものだった。
「アルフレッド様に頼んだのは、君が出撃する時、君の援護を確実に出来るように、だよ」
ラケの驚きが去らない間に、ケヒトは神妙な顔をして、言を続ける。
「小さい頃からずっと、君を見てきた。だから、君がどんなにか真面目で、どんなにか危なっかしい子か、俺は知ってるつもりだ」
でも、と目を細め、ケヒトは己の想いを吐き出した。
「いつからか、君はレナードの方だけを見ていて。正直、心苦しかったよ」
涙がこぼれそうになった。こんな時に、そんな告白をするなんて。こんな時に、従兄の名を引き合いに出すなんて。何てずるい男なのだろう。
だが、こんな時だからこそ言葉にせずにはいられなかったほど、彼が愚直なまでに真面目な人間である事は、ラケも知っている。それでも今は、その想いに応えられるところまで、ラケの心の傷は癒えていない。
だから、彼女に出来たのは、潤んだ目をしばたたいて誤魔化し、不敵な笑みを見せる事だけだった。
「ならば、ケヒト・シュタイナー。その弓で私を守ってちょうだい!」
そして、彼の瞳をじっと見つめて、小さく付け加える。
「絶対に、死なないで」
ケヒトが大きくうなずく。今は、お互いこれが精一杯だ。ラケは今度こそ魔鳥の背に飛び乗り、空へ舞い上がる。それを追って、弓騎兵も丘を駆け下りていった。
こんなはずではなかった。
壊滅した自軍の惨状を目の当たりにして、セルヴェン将軍は青ざめ、唇を震わせていた。立派な鞍をつけた青馬も、傍から見たら、敗北寸前の将として、滑稽にしか映らない。
リヴェールを壊滅させて、反乱軍には戦力的にも精神的にも打撃を与えたと思っていた。ところが奴らは、凹むどころか逆に勢いづき、今、セルヴェンを最大の危機に追い込んでいる。頼みにしていたキマイラが消えて、続きが補充される気配が無いのは、本国から遣わされた魔族も倒されたという事か。
こうなればもう、なりふり構ってなどいられない。彼は、自分の周りを守る残り少ない兵に向けて、喚くように指示を下した。
「お、お前達はここで反乱軍を迎え撃て! 戦い続けろ! その間に私は援軍を呼んでくる!」
たちまち悲鳴じみた声をあげる部下達から視線をひっぺがし、馬の首を返す。援軍などどこにもいない。よしんばいたとしても、この状況をひっくり返すのに間に合いはしない。怒号が背中を追いかけるのを必死に無視しながら、セルヴェンは馬を走らせた。
そうだ。ヨーツンヘイムへ行けば良い。弟がいる。あいつに頼み事をするのは癪だが、弟が帝都に取りなして、新しい部下を寄越してくれれば、反乱軍など赤子の手をひねるようにあっけなく倒せるはずだ。
捕らぬ狸の皮算用にほくそ笑んだ時、背後から迫る蹄の音を聴いて、セルヴェンは嫌な予感を覚えて振り返った。
瞬間、二の腕に鋭い痛みが走る。矢が突き刺さったのだとわかったのは、足だけで馬を操り、弓弦から手を離した状態でこちらを睨みつける青年の姿を視界にとらえてからだった。
いつの間に追いつかれていたのか。いよいよ混乱するセルヴェンの頭上から、羽ばたきの音が聴こえる。
「レナードの、仇!」
その声が、彼のこの世での最後の記憶となった。
セルヴェン将軍が討ち取られた、という報せは、クリフを通じてエステルのもとへと届けられた。
「貴方達の指揮官は討たれました。もう、戦う必要は無いでしょう。戦闘行為を中止してください!」
エステルの高らかな呼びかけに、一人、また一人と帝国兵が、岩場の陰からのろのろ姿を現す。敵前逃亡した将に失望して、既に士気を失っていた彼らは、たちまち解放軍の戦士達に囲まれ剣を突きつけられると、がっくりとうなだれ、武器を捨てて両手を頭の上で組んだ。
アルフヘイムに脅威をもって轟いたセルヴェンの弓騎隊の名も今は虚しく、最終的に捕らえた兵は、二十にも満たなかった。
「リヴェールを侵略した連中!」
「アルフヘイムを苦しめた連中だ!」
「エステル様、こいつらに裁きを!」
特にアルフヘイム出身の戦士達が、口々に断罪を求める。だが、しばし考えたエステルは、ゆるゆると首を横に振った。
「無為な殺戮に無為な殺戮を返しては、いたずらに憎しみを広げるだけです。どうか今はこらえてください」
場がどよめく。捕虜の兵士達も驚いた表情を見せている。
「エステル様、それは」
アルフレッドが戸惑い気味の声をかけてきた。彼の言いたい事もわかる。敵に情けをかけては、苦しめられてきた人々の救いにはならない。許すと言って背を向けた瞬間に、その背中を撃たれる可能性もあるだろう。
だが、それでも。
戦いの無い世界を望んだ母の道を追いかけるには、時に、振り上げかけた剣を引かねばならない事もあると思う。既に血をかぶった自分がそれをしては、偽善だと罵られる事がわかっていても。
それでも、反発を買う事も承知で、エステルは言うのだ。
「貴方がたを裁くかどうかは、私ではなく、アルフヘイムの人々の意志に委ねます。どうか、下された決断を受け入れて、そして、償ってください」
凛と告げるその姿に、最早誰もが言葉を失って黙り込む。
岩石砂漠が夕陽に照らされ始める頃、アルフヘイム解放戦は、静かに終焉を告げた。
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