第2章:暗黒の侵食(4)

「ロッテちゃん」

 今日も今日とて負傷者の手当てに当たって、栗鼠りすのように忙しく動き回っていたロッテは、耳慣れた声をかけられ、足を止めて声の方を振り返った。

「リカルドさん!」

 しばらく会っていなかった身近な人の無事を確認して、心底安堵した、という吐息を洩らしながら駆け寄る。

「テュアン様と一緒に孤立していたと聞いて、心配しました」

「いやー、エステル達が来てくれたからね、間一髪」

 リカルドはそう言って歯を見せるが、がりがり頭をかく利き腕に切り傷があるのを、ロッテは目ざとく発見した。

「リカルドさん、怪我をされています」

「ああ、大丈夫大丈夫。こんなのなめてりゃすぐ治る」

「大丈夫じゃありません!」

 途端に烈火のごとく声を荒げたロッテの剣幕に、リカルドが驚いて目をみはった。その間にも、少女は、うさぎのお守りがついた杖を、リカルドの傷口にかざす。淡い光が降り注ぎ、瞬く間に傷は消えた。

「悪いな、疲れてるとこに力を使わせちまって」

「怪我が元で命を落とすような事になっては、後悔してもしきれませんから」

 どこか遠慮の入り混じった会話を交わしてしまうのは、やはり、もういない人間の存在が、二人の間に横たわっているからだ。お互い、次の言葉を探し求めて沈黙に陥っていると。

「リカルド。君はうちの妹に、何の迷惑をかけているのかな?」

 声は爽やかだが、どこか険を帯びた呼びかけに、リカルドがびくうっと身をすくめ、反対にロッテはぱっと顔を輝かせた。

「お兄様!」

 ロッテと同じ、赤に近い茶色の髪をした青年が、リカルドの肩に手を置いて、口の端に笑みを浮かべている。だが、完全に、目が笑っていない。

「よ、よお、ユウェイン! お前いつこっちに来てたんだよ?」

「ついさっきだ」

 ロッテの兄ユウェイン・サヴァーは、トルヴェールの子供達の中でも特に生真面目だ。言われた事をきちんとこなすその性格を買われ、特別な役目をアルフレッドから与えられて、村を離れていた。その役目とは、グランディア帝国の中枢である帝都アガートラムに、帝国兵を装って入り込み、今も国内に生き残っている、旧王国派の家臣との繋ぎを取る事であった。

 敵の膝元に入るなどあまりにも危険すぎる、と、ロッテは気を揉んでいたのだが、妹の心配をよそにユウェインはかなり上手く立ち回って、何度も同志の情報を持ち帰ってきたのだ。

「それにしても」

 ユウェインが端正な顔を曇らせて、ロッテの小柄な身体を見下ろしてくる。

「お前まで解放軍に同行していたとはな」

 心優しく、故に心に傷を持つ妹の従軍は、彼の望むところではないだろう。だが、いや、だからこそ。

「私一人、トルヴェールでめそめそ泣いている訳にはいかないと思ったのです」

 ロッテは毅然と兄を見すえて、己の決意を口にする。

「もうこれ以上、身近な人を失わない為に、私の力が役に立つのなら、エステル達と共に行くべきだと、決めました」

 普段は、幼馴染達の後ろからよろよろついていくだけの気弱な妹が、これだけの決心を見せた事に、ユウェインも驚いたのだろう。目をみはった後に、軽い溜息をつく。

「お前の頑固さは父上に似たな。私が止めても聞かないだろう」

「だあな」彼に顔を向けて、リカルドがにやりと笑う。「お前にもそっくりだぜ」

「一言多い」

 悪友の頭を小突き、ユウェインは妹に向き直る。

「そこまで意志が固いならば、私は止めたりも、トルヴェールに帰れと言ったりもしない。だが、死ぬな」

「お兄様も」

 兄妹は見つめ合い、そして同時にうなずくと、「では、またな」とユウェインが踵を返した。


「では、またな」

 妹に別れを告げて背を向ける幼馴染を見届けたリタは、思わず柱の陰に身を隠した。

 何と言って話しかければ良いのだろう。「久しぶり」はありふれた気がする。「元気だったか?」いやこれは同じ質問を返された時、今の自分では答えに窮する。ぐるぐる考えを巡らせていると。

「リタじゃないか。そんなところに隠れて、どうしたんだ」

 背後から、話しかけるかかけまいか今まさに悩んでいた人物に名を呼ばれ、リタは目に見えてすくみ上がってしまった。

「よ、よお……」「やあ」

 おずおず振り返ると、ユウェインはそれだけで女性をとりこにしそうな、晴れ晴れとした笑顔を見せる。だが、すぐにその表情を曇らせた。

「先程、エステル様に報告をした時、リヴェールの事も聞いた。ルディ様がご無事だっただけでも何よりだ」

 本当は、生死の境を彷徨うほどの大怪我で、『無事』とは言いがたい状態だったのだが、ロッテが回復魔法を使ってくれたおかげで、後遺症が残らない程度にまでは回復した。レナードを失ったラケには申し訳無いが、唯一無二の母を失わなかった事に関して、安心したのは事実だ。

 だから、出てくる言葉は一つである。

「ありがとう……」

 小さく、爪弾くようにその一言を紡ぎ出せば、相手はゆるく微笑み、そっとリタの手を取った。何を、と引っ込める前に、掌に、青いリボンで口を結った白い小袋が置かれる。これにはよく見覚えがある。アガートラムの菓子屋『アルテア亭』の菓子小袋だ。そして、その中身は。

「生姜の砂糖漬け」ユウェインが口元をゆるめる。「君の好物だろう」

「よく覚えてたな」

 かつても、彼が報告にトルヴェールに戻ってくる度、これを幼馴染達に土産として買ってきてくれた。『辛い』とクレテスが顔をしかめる隣で、リタはとりわけ気に入ってもりもり食べていた。それを覚えていてくれたのか。

「覚えているさ、君の好物なら」

 その台詞に、心臓が跳ねる。何か特別な意味があるのか、それは。

 どぎまぎして礼を言う事も忘れてしまうリタに、「じゃあ、私はこれで」と言い残し、彼が立ち去る。

「思わせぶりなんだよ、馬鹿」

 仲間を失って、哀しみに包まれていたはずなのに。

 ときめきを感じて心臓が暴れるのが恥ずかしくて、更には、死んだ同志達に申し訳無くて、リタは小袋を取り落とし、熱い両頬をおさえて、柱によりかかるようにずるずるとその場に崩れ落ちた。


 天幕の中で、ユウェインから聞いたグランディア首都アガートラムの現状に、エステルは言葉を失って唖然とするしか無かった。かねてより、アルフレッドとテュアンが彼の報告を聞いて愁眉を曇らせているのは知っていた。だが、エステルの挙兵後、事態はより深刻になっていたのだ。

 帝都となったアガートラムでは、魔王イーガン・マグハルトが倒れて以降、北方に隠れ住んでいた魔族を呼び寄せ、魔物を呼び出す儀式が当然のごとく行われているという。かつて魔族が大陸に席巻していた時代、彼らの尖兵として使役されていた、異形の存在。それを帝国が侵略の徒として利用しているのは、リヴェールでキマイラが召喚されたという事実からも明らかだ。

 だが、帝国が、アガートラム近辺の集落を魔物に襲わせ、その実力の程をはかっていると聞いた時には、誰もが絶句して青ざめた。

 ユウェインが扮している、帝国に組み込まれた旧王国兵は、国内でも、『古びた理想に死した女王に傾倒する愚か者ども』と蔑視され、発言力も、命令を拒否する権利も持ちえない。魔物の召喚を止めるどころか、実験の為に魔物を集落に放つ汚れ役を背負わされ、人々の悲鳴と惨状を前に逃げる事も許されず、『人殺し』『売国奴』と民に罵られているという。

「一刻も早く、そんな事態は止めねばなりません。アガートラムへ向かいましょう」

 エステルは焦れて叔父と女剣士に訴えかける。しかし、大人二人は揃って首を横に振った。

「急いては事を仕損じる、です。今の我々には、帝都にいる万の兵を相手取る力はありません。それどころか、魔物という未知の存在に立ち向かう力さえも」

 アルフレッドが苦々しい面持ちで告げれば。

「リヴェールの魔鳥騎士団でも、たった三匹のキマイラに敵わなかった。魔物との実戦経験が無い連中を突っ込ませるのは、自殺行為だよ」

 テュアンも腕組みして眉間に皺を寄せる。

 二人の言う事は至極まっとうだ。反論の余地を失って、エステルはぐうの音も出ない。

「とにかく今は、目の前の敵を倒し、順当に各国を解放してゆく事です。その為にもまずは、セルヴェン将軍を討ち、アルフヘイムから帝国兵を追い出しましょう」

 叔父の言葉に納得しきった訳ではない。だが、己の力不足を痛感しているエステルは、顔をうつむかせ、膝の上で拳を握り締めて、

「……わかりました」

 と応えるしか無かったのである。

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