第2章:暗黒の侵食(2)

 地獄絵図。

 エステルの視界に飛び込んできたのは、そうとしか形容できない光景だった。

 家々が焼かれ、あちこちに血の跡や片付けきれなかった死体があり、親を亡くして泣き叫ぶ子供の声が聞こえる。吐き気をもよおしそうな血と煙のにおいは、トルヴェールが襲撃された時の比ではなかった。

 ふらふらと町に踏み込んだ時、焼け落ちた家の傍らで膝を抱えて呆けている男がいるのに気付いて、エステルは歩み寄ってゆき、声をかける。

「大丈夫ですか」

 気遣いの言葉に返されたのは、ぎょろりとした睨み顔だった。

「……人殺しめ」

 呪詛の言葉が、男の口から洩れる。

「ムスペルヘイムの生き残りを匿ったせいで、この町はめちゃくちゃだ。お前達、解放軍を騙る連中が関わったせいで」

 ずきり、と胸に鋭い刃が刺さったような痛みを覚える。だが、罵りはそれだけでは終わらなかった。

「何が救世主だ。調子に乗りやがって」

「ただの人殺しじゃあないか」

「さすがは魔女の娘だな!」

 人々が、口々に貶めを浴びせてくる。言葉は途中で酷い耳鳴りに変わって何を言われているのかわからなくなり、視界がぐらつく。よろけたところをクレテスが咄嗟に支えてくれたが、彼に礼を言う為に口を動かす力さえ出ない。

「……皆は」ラケがふらふらと進み出る。「騎士団の皆は、レナードは、無事なの? ねえ、無事だと言って!」

 すると、罵倒に参加していなかった老人がゆっくりと進み出てきて、ゆるりと首を横に振った。

「ルディ様は瀕死のところを助けられたが、あとはみいんな、魔物に食われちまった。残った死体は回収したが、とても見られたもんじゃない。見ない方がええ」

 あっという間に、ラケの顔色が蒼白になった。がくがくと震え、意味をなさない叫びが口からほとばしり、頭を抱えてうずくまる。傍らのケヒトが肩に手を置いて口を開きかけ、しかしそれ以上を出来ずに、唇を噛み締めて顔を伏せた。

「あー、あー。あんたら、解放軍か」

 誰もが二の句が継げずに立ち尽くす、悲愴な空気を打ち破ったのは、場に不釣り合いなほどに呑気な声だった。

「あんたが、エステル王女?」

 解放軍総大将を前にしても怖気づかずに片手を挙げてみせたのは、オレンジ色の髪を持つ少年だった。歳の頃は、エステルやクレテスと同じ、十六、七といったところか。

「オレはクリフ・マレット。ルディ様に頼まれて、今回の襲撃を手引きした犯人を捜していたんだけど」

 そうして彼は、領主の館を親指で指し示す。

「とりあえず、捕まえてふんじばってるから、処遇は任せていい?」

 その台詞に、エステルの中の理性が戻ってきた。解放軍の旗頭が、衝撃を受けて固まっている場合ではない。取り乱したラケの介抱はケヒトに任せ、民家で保護されているルディのもとへ向かうリタにロッテを付き添わせて、エステル自身はクレテスとアルフレッドを伴うと、まだふらふらする視界を律しながら、クリフの導きで領主の館に向かった。

 そして、案内された先で待ち受けていた犯人を見て、エステルは絶句する羽目になったのである。

 領主の執務室で、椅子に縛られて猿轡をかまされていたのは、中年の男だった。

「領主のホルトだ」クリフが呆れた様子で男を指差す。「こいつが帝国のセルヴェン・クレンペラーと連絡を取って、魔鳥騎士団の動向を全部横流しにしていたのさ」

 エステルの背中をぞっとしたものが走る。それが本当ならば、よくエステル自身の情報が洩れなかったものだ。ルディがどれだけ自分に気を遣っていてくれたかがわかると同時、もしそこまでセルヴェンに伝わっていたのなら、今のリヴェールの惨状は、いつかのトルヴェールになりかねなかったのだという恐怖が胸に訪れる。

「リヴェールの領主は、ムスペルヘイムのメリアイ女王と懇意にしていたのではなかったのか」

「んー、まあそれ、先代の話でしょ? 女王も亡くなって久しいし、代替わりした息子のこいつが馬鹿だったんだろうね」

 アルフレッドが唖然として呟くのにクリフは飄々と返しながら、

「セルヴェンとのやり取りの手紙は、集められるだけ、ここに」

 と、手紙の束をばさりとテーブル上に投げ出した。クレテスが、上の方だけでもざっと眺めて、舌打ちする。

「帝国での優遇に、成功報酬は百万ディール。欲に目が眩んだってとこか」

「斬り捨てられても文句は言えないな」

 アルフレッドが絶対零度の光を瞳に宿して、腰の聖剣に手を伸ばす。しかし。

「待ってください、叔父様」

 横から手を伸ばして押しとどめたのは、他でもない、エステルだった。

「裁きを下すのは、私の手で」

「ですが」

「お願いします」

 姪の頼みに叔父が逆らえない事を承知の上で、エステルは強く言い切る。心中複雑そうな表情をしながら彼が引き下がると、エステルはクリフに「話が出来るように」と頼み、クリフが猿轡を外した。

「疫病神が!」

 即座に、悪罵が真正面からエステルを叩いた。

「何が優女王の娘だ! お前の存在が、この町に不幸をもたらしたんだ!」

「何言ってやがる、そもそもお前が」

 クレテスが蒼の瞳を鋭く細めて言いさすのをエステルが制すると、ホルトは水を得た魚とばかりに口上を続ける。

「お前が、大陸の解放だの帝国を打倒するだのと言い続ける限り、こんな事は大陸中で繰り返されるぞ。お前の存在が多くの死を招くんだ!」

 それは、エステルも最早わかりきっていた事だった。戦えば、血が流れる。命を落とす人がいる。両手は赤く汚れてゆく。身近な人も、知らない誰かも。

 ――それでも。

「それでもです」

 エステルは毅然と言いながら、静かに剣を鞘から抜き放った。

「どんなに血をかぶっても。どんなに恨まれようとも。きっとその先に変わる世界があると信じて、私は戦います」

「その為に、まずは私を殺すか」

「貴方は許されざる罪を犯しました。私の手で裁きます」

 ホルトは喉の奥でくっと笑った。

「呪われろ」

「その呪いも甘んじて受けます」

 そうして、剣を振りかぶり、一息に振り下ろす。悲鳴は無く、小さな呻き声を残して、返り血が頬にかかった。

 エステルは刃についた血を払うと剣を鞘に戻し、事切れた領主の顔を見下ろしていた。が、やがて、その肩が細かく震える。

「エス……」「エステル様」

 クレテスが名を呼ぼうとした時、アルフレッドがそっとエステルに歩み寄って、主君の背中に声をかける。

「お辛いでしょうが、これが今の現実です。どうか、気に病まれませんよう」

 それを聞いて、エステルの震えは止まった。まだ翠眼を潤ませながらも、しゃんと胸を張って、頬の返り血を拭い、叔父を振り返る。

「いいえ、私は忘れません。哀しみがある事も。私を恨む誰かがいる事も。全てを受け止めて、それでも私は戦います」

 クレテスが何とも言いがたい複雑そうな感情をはらんだ表情を見せ、アルフレッドが無言で低頭する。そして、一部始終を見ていたクリフが、頭の後ろで手を組んで、ぴょうと口笛を吹いた。

「めそめそ落ち込むお姫様かと思ったら、案外強いんだな。見直した」

 彼はにやりと笑って、己を指差す。

「オレもあんたについていくぜ。帝国には育った孤児院を焼かれてるから、一泡も二泡も噴かせたくてな。盗みに鍵開け、偵察、潜入。黒い仕事は任せな」

「盗賊崩れがエステル様の近くにいるのは感心しないな。悪影響しか考えられない」

 アルフレッドが渋面を作るが、当のクリフには微塵もこたえていないようだ。

「あ、偏見いけませーん。ちゃんと役に立ちまーす」

 その悪びれない態度に、エステルは小さく笑う。まだ、胸の痛みは消えていない。それでも今は、前に進むしかない。それだけは、よくわかっていた。

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