第2章:暗黒の侵食(1)

 ムスペルヘイムを帝国の支配から解放したエステル王女の名は、瞬く間に大陸の人々の知るところとなった。

『優女王の遺志を受け継ぐ者』と称える者、『やはり戦乱をもたらす悪女の跡継ぎか』と非難する者。世間の評価は真っ二つに割れた。

 それらに対して、帝国の表向きの反応は、非常に淡泊なものであった。

『滅びた王国の血筋を騙る反逆者には加担せぬように』とのふれが各国に出回っただけで、エステルを捕らえろだの、殺せ、だのといった過激な内容は発表されなかったのだ。

 とはいえ、長い圧政に苦しんだ人々の胸に宿った、自分達を救ってくれるかもしれない英雄への期待は、いやが応にも高まってゆく。

 ムスペルヘイムの南に位置するアルフヘイム自治区の一地方、リヴェールに身を潜めていた、ムスペルヘイム魔鳥騎士団の生き残りも、解放軍との合流を目指して着々と準備を進めてゆく。

 だが、帝国の黒い手は、水面下で静かに、しかし着実に、希望の芽を刈り取ろうと、不気味に伸ばされていた。


 アーデン解放により志願兵が増え、新たな戦力を得たエステルは、ムスペルヘイムの事後処理と治安の維持をデヴィッドら心ある騎士達に託して、四月の春の太陽うららかな日に、旧王都を発った。目指すは一路、南のリヴェールである。

「リヴェールでは、ルディおばさまが兵を集めていらっしゃるんですよね」

 栗毛の馬の背に揺られながら、エステルは、幼い頃よく面倒を見てくれた、幼馴染の母親に思いを馳せる。リタの母ルディは、ムスペルヘイム騎士団の生き残りの筆頭としてアルシオンを駆り、子供達が幼い頃から、同志を求めて国内外を文字通り飛び回っていた。彼女はリヴェールにいる事がほとんどだったが、たまにトルヴェールに帰ってきた時は、ムスペルヘイムでは手に入らない珍しい菓子を差し入れてくれて、子供達は大いに喜んだものだ。

『エステル様は本当に、お母様に似てきましたね』

 果物のパイを嬉々として頬張るエステルをまぶしそうに見つめながら、彼女はそう微笑んだ。

 期待をかけてくれていたのだ、と今ならわかる。そして、その期待に応えられるだけの力を、今、自分は手に入れた。しゃんと背を張って、彼女と向き合うべきだ。

「リタも早く、お母様にお会いしたいでしょう?」

 並んで馬を進める親友に水を向ければ、「べっつにー」と群青の瞳が細められる。

「会えばいっつも、魔鳥騎士としての訓練はしているかーってぎゃんぎゃん突っついてばかりだもの。あたしは拳を振るってる方が性に合うんだ、騎士の自覚が云々言われるのにはうんざりだよ」

 そうして、魔鳥の翼をたたんでぽてぽてと地上で歩を進める従姉を振り向く。

「嬉しいのは、ラケ姉なんじゃないの? レナード兄に会えてさ」

 いきなり話を振られたラケが、ぼっと顔を赤くして、手綱を握る事も忘れて両手を振った。

「な、何を言ってるのよ、リタ。私は別に……!」

 とはいえ、ラケが従兄と懇意にしている事を知らないトルヴェールの子供達はいない。下手な誤魔化しに、周りから笑いが起きる。

 ただ一人、破笑に参加せず、切なげに目を細めてラケを見つめる、ケヒトの姿には、誰も気づかずに。

 そして、この笑顔の交わし合いが消える日が来る事を、まだ誰も知らずに。


 黄砂舞う中に存在するリヴェールの、領主の館が、ムスペルヘイム魔鳥騎士団に貸与されている事は、町の公然の秘密だ。前領主が亡きメリアイ女王と親交を交わしていたので、息子のホルトの代になっても、繋がりは残っていたのだ。

 その館の一室で、ルディ・ユシャナハは紫の瞳を細め、大陸地図と睨み合っていた。

 テュアンより知らされ、アーデンから飛んできた魔鳥騎士が報告した通り、エステルがムスペルヘイムを解放したのは、一週間前。その後数日で首都を発ったので、二、三日後にはここリヴェールに到達するだろう。

(メリアイ様、姉さん、レディ。ようやくここまで来ました)

 胸に手を当て、今はもう亡き、親しい人々へ思いを馳せる。と、扉が叩かれ、甥のレナードが茶器を持って姿を現した。

「伯母上、お疲れさまです。どうぞ一息ついてください」

 レナードは母親に似た柔和な笑みを見せ、てきぱきとした所作で紅茶を注いでルディの目の前に出してくれる。

「ありがとう」

 礼を言って口に含めば、ベリーの香りが心地良く鼻を抜けてゆく。ベリーの紅茶は姪のラケが好きな味だ。ひそやかに想い合う二人に相応しいと思ったが、その事で今彼をからかうのは野暮ったいと思い、ルディは二口目と共に言葉を呑み込んだ。

「出陣の準備は出来ている?」

「八割方完了しました。万が一敵襲があっても、すぐに対応出来ますよ」

 代わりに質問を舌に乗せれば、レナードが得意気に胸を張る。少々甘えん坊のきらいがあった妹から生まれた割には生真面目に育った、この甥らしい反応に、思わず笑みがこぼれた時。

「ルディ様、敵襲です!」

 その『万が一』の事態を知らせる部下の報告が、飛び込んできた。

「アルフヘイム駐屯軍指揮官、セルヴェン・クレンペラーの弓部隊です!」

 顔面蒼白の騎士の報せに、ルディは愕然と目を見開き、カップを取り落とした。床に落ちたカップは、高い音を立てて砕け、中に残っていた紅茶が、ベージュの絨毯に染みを作る。

 エステルの存在は、挙兵まで確実に隠さねばならなかった。だからルディ達魔鳥騎士の集結も、トルヴェールから離れたリヴェールで、長い時間をかけて、葡萄酒を熟成させるがごとく、静かにじっくりと進めてきたのに。

 誰が知らせたのか。いや、今は責任の所在を探っている場合ではない。この町が危険にさらされるならば、自分達が責任を持って守らねばならない。

「レナード」甥に素早く指示を下す。「全員に出撃準備の命を」

 レナードが敬礼をして部屋を飛び出してゆく。ルディも部下を引き連れて廊下に出て、足早に歩く。すると、途中で、腕を組んで壁にもたれかかっている、オレンジ色の髪の少年の姿が見えた。決してくつろいでいたわけではなく、自分を待っていたのだとわかる。

「クリフ」

 リヴェールでの活動中に、帝国兵相手に盗みや偵察を繰り返していたその腕を買った義賊の少年だ。声をかけると、彼は顔を上げて灰色の瞳をこちらに向けた。

「ルディさん、オレに出来る事はあるよね?」

 少年の意図はわかっている。ルディは力強くうなずき、「貴方の一存に任せるわ」と言い置いて、少年の脇を通り過ぎる。

「りょーかい」

 呑気とも受け取れる声が背中を撫でる。彼は、普段の態度はなあなあだが、その実、腕前は非常に信頼できる。

 だから今は、自分は自分に出来る事をするだけだ。ルディは表情を険しくして、唇を固く引き結んだ。


 白い翼持つ魔鳥アルシオン十数騎が、リヴェールの空に飛び立つ。砂塵舞う上空から見下ろせば、帝国兵の銀の鎧姿が数十騎、町からほど近い平原に見えた。

「迂闊に近づかないように。弓で狙い撃ちされたら、勝ち目は無いわ」

 空を舞う飛行兵に地上の剣や槍は届かないが、弓矢や魔法は話が別だ。無防備に飛んでいれば格好の的である。魔鳥か騎乗している本人に直撃して落とされれば、高度によっては命は無い。それゆえ、ルディは仲間達や、これが初陣であるレナードら子供達に声をかけ、慎重に高さを保って地上の様子を窺う。

 だが、違和感を覚えたのは、すぐにだった。

(攻撃を仕掛けてくる気配が無い?)

 こちらが一定の高度を保っているとはいえ、相手も、弓騎兵ならば矢を放って一撃離脱の戦法が取れる。だが、彼らは積極的に動き出す気配を見せず、うろうろと馬を歩き回らせながらこちらを見上げているばかりだ。

 おかしい。何かがおかしい。ルディの手綱を握る手が、じっとりと汗でにじむ。

 すると、彼女がその予感に至るのを待っていたかのように、ぶお……んと背後で異音が生じた。振り返れば、赤い魔法陣が出現している。その数、三。

(――転移魔法!?)

 高位の魔道士が扱える、空間の法則を無視して彼我の距離を超える術。そこから生じたのは、まず獅子の顔だった。そして山羊、蛇の顔が現れ、鳥の翼が羽ばたき、蠍の尾が出てくる。

 自然の摂理をねじ曲げて造られた魔獣、キマイラ。それが、一匹だけではなく、二匹、三匹と現れた。これは絶対に、偶然ではない。

(帝国は、魔物さえ従えたの!?)

 魔王イーガンが大陸を支配していた三百年前、魔族の尖兵として各地に放たれた眷属。魔王が四英雄に倒されて以降、その姿を隠しほとんど見る事の無かったその存在が今、帝国の配下として現れたのだ。

 ルディら魔鳥騎士が愕然としている間に、獲物を見つけた魔獣は、それぞれが三つの口を同時に開け、嬉しそうに吼えた。そうして、次々と魔鳥騎士達に飛びかかったのである。

 最初に狙われたのは、戦に不慣れな若手だった。悲鳴をあげる間もあらばこそ、ごりっ、と骨の砕ける音と共に、魔鳥ごと獅子の口内に呑み込まれる。

「取り乱さないで! 応戦するのよ!」

 たちまち恐慌に陥る仲間達を叱咤して、ルディは槍を握り直した。蛇の顔がすうっと息を吸い込み、炎の玉を吐き出してくるが、たん、と足で相棒に合図を送り、咄嗟に高度を下げる事で何とかかわす。そして、再び浮上して、そこだけは柔らかい魔獣の腹に槍を突き立て、振り抜く。キマイラは痛みにもがき苦しみ、無闇に翼を、尻尾を振り回して、直撃を食らった数人が地上へと真っ逆さまに落ちていった。

「伯母上!」

 レナードが慌てて魔鳥を飛ばしてくる。焦りと恐怖であまりにも視野が狭くなっていたのだろう。横から迫る脅威に、彼は気づいていなかった。

 ごう、と炎が魔鳥と騎士を包み込む。自分の身に起こった事がわからないとばかりに横を振り向く首が、獅子に食われて消えた。乗り手を失い炎に焼かれた魔鳥が、きりもみしながら地上へと落下してゆく。

 己の判断ミスで、甥を殺してしまった。その恐怖がルディの胸に訪れる。だが、後悔したり悲しんだりする時間は、彼女には与えられていなかった。一瞬呆けた間にも、キマイラ達は次々と魔鳥騎士達を貪り、多くの餌を得られた歓喜の声をあげている。

 ルディはぐっと歯噛みし、強く、強く武器を握り締めた。セルヴェンは卑怯者だ。自ら前線で命のやりとりをする事無く、常識を超えた存在を持ち出して、こちらを踏みにじった。

 雄たけびをあげて、ルディはキマイラに突っ込んでゆく。炎の弾がかすめて火傷を負い、その爪で身が傷つこうとも、必死に槍を振るって、何とか挽回をはかろうとする。だが、振り回された太い尾が彼女のアルシオンを打ち、ごきり、と大きな骨が折れる音がして、彼女の魔鳥はぐらり傾いで落下を始めた。

 あっという間に地面が迫る。長年の相棒が、最期の最期に気を遣って下敷きになってくれたが、すさまじい衝撃が身を叩いた。骨もいくつか折れただろう。

 はっきりとしない意識の中、蹄の音が聴こえた。町を守る盾を失ったリヴェールに向けて、帝国兵が進軍を開始したのだ。最初から、彼らの狙いはこれだったのだ。ムスペルヘイムの生き残りをあぶり出し、狩り切ったところで、守る者のいなくなった町を蹂躙する、という。

 今更辿り着いた答えに、絶望で胸が黒く塗りたくられる。何とか手を伸ばそうとしても、指一本言う事を聞かない。最早動けないとわかっていてか、帝国兵はルディを見向きもせず、悠々とその横を通り過ぎてゆく。

(皆、ごめんなさい……)

 ぶわりと涙が溢れ出すが、その感覚さえ虚ろで、つかめない。

 全てが遠ざかって、そして、闇が訪れた。

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