第1章:翠の瞳に決意が宿る(6)
ムスペルヘイム旧王都アーデンは、震撼に包まれていた。
北の辺境で兵を挙げたエステル王女の軍がテュール砦を突破し、この首都に近づいているという報が届いたのだ。ゆえに、占領官のエンゲル将軍は完全に取り乱し、次に討たれるのは自分だと、大いに恐れたのである。
「ああ、くそっ! どいつもこいつも役に立たん!」
ムスペルヘイムの民に圧政を敷き、重税を課して、自らは欲に溺れた怠慢な将軍は、豪華な食事が載ったテーブルを強く打ち叩いて激昂した。
「デヴィッド! デヴィッド・ルースはどこだ!?」
癇癪を起こした将軍の前に呼び出されたのは、褐色の肌をした禿頭の大柄な男。アーデン守備隊長のデヴィッドであった。
「いいか、死ぬ気でこの首都を、いや、儂を守れ。最後の一兵になっても退く事など許さんからな!」
それはつまり、反乱軍相手に死んでこい、も同義だった。デヴィッドがわずかに、苦虫を噛み潰したように口元を歪めると、そういうところは見逃さないエンゲルが、忌々しげに言い放った。
「何だ、儂に意見でもあるのか? 雑兵ごときが!」
がしゃん、と料理皿が禿頭を打ち、割れた欠片で皮膚が切れて血が流れ出す。それでも、デヴィッドは動揺する事無く、深々と低頭して、その場を立ち去った。
しかし、廊下に出て扉を閉めた途端、
「――
頭の血を拳で拭いながら吐き捨てる。
グランディア騎士になるのは、デヴィッドの幼い頃からの夢だった。弱冠十五歳で『ブリューナク』を駆って女王の為に戦ったランドール将軍の、美しい幻鳥の舞。あの姿に惹かれて、騎士を志したのだ。
だが、今の現実はどうだ。ランドール将軍はもういない。彼が生涯守り抜こうとしたミスティ女王も、彼女が理想と目指した世界も、亡い。守る事など、できなかった。
ならば、と自嘲の笑みが口の端に浮かぶ。
せめて彼らの娘に討たれる事が、罪滅ぼしになるだろうか、と。
アーデンの戦いは、ノルゲン草原で幕を開ける事となった。
これまでは、小規模な戦闘続きだった。だが今回は、ムスペルヘイムの支配者エンゲル将軍が相手だ。戦場は城下街にも持ち込まれるだろうし、兵の数も違う。味方や一般人に被害を出さずに乗り切れるだろうか。そして、一晩かけて仕込んだ策が通用するだろうか。
草原を渡る風に銀髪をなびかせ、遠くに見えるアーデン城下街を見すえるエステルの肩を、ぽん、と叩く者がいて、彼女は振り返ろうとし、ふにっ、と頬を指で差されて、「ぷう」と変な声を出してしまった。
「顔、固まってるぞ」
クレテスだった。今回、策の原案を出したのは彼で、エステルの祖父アルベルト王の軍師ムスタディオ・シュタイナー卿の孫である才能を遺憾無く発揮したと、感心したものだ。
そのクレテスが、エステルの両頬をつまみながら、「少し、肩の力を抜けよ」と笑いかける。
「にこにこしてろってのは立場上無理だと思うけどさ、総大将が緊張しきった顔でいたら、不安はあっという間に下まで伝わるぜ」
彼の言う通りだ。指揮官の心の揺れを、兵達は敏感に感じ取る。それは時に、軍の致命的な瓦解に繋がりかねない。
「深呼吸」
言われるまま、深く息を吸い、吐き出す。少しだけ気持ちが軽くなった気がして、エステルはおずおずと笑みを返す。
「ありがとう、クレテス」
クレテスも歯を見せて親指を立てる。トルヴェールからこちら、彼には何度も救ってもらっている事に、エステルは感謝した。
三月十五日昼、解放軍と帝国軍のノルゲン草原での戦いは始まった。
解放軍百に対し、帝国軍は五百。圧倒的不利は明らかだ。だが、数に物を言わせて反逆者を叩き潰そうと進軍してきた帝国軍に対して、解放軍は突如散開し、方々に逃げたのである。
「それ見ろ、所詮寄せ集めの群れだ!」
「残党狩りだ、一人残らず首を落とせ!」
「エステルだけは殺すなよ、お楽しみだからな」
帝国兵達はげらげらと笑いさえ爆発させながら、追走を始める。しかし彼らは気づかなかった。一見散り散りに見える解放軍の逃走先が、一律である事に。それを察せず馬を踏み込ませた帝国兵は、がくんと地面が沈み込む感覚と共に、仕掛けられた落とし穴に次々とはまっていった。
「何だ!?」「こんな古典的な手を……」
穴は意外と深く、何とかよじ登ろうとした彼らの手に、べとべとする液体がこびりつく。それが油だと気づいた瞬間、彼らの耳に、朗々とした呪文の詠唱が届いた。魔法を発動させる為の文句だというのは、魔法を使えない一般兵でも知っている。そして、この状況で使う魔法といえば。
青ざめて穴から這い出ようと躍起になる彼らの頭上に、複数の火の玉が出現する。それは容赦無く降り注ぎ、油に触れて炎の海を生み出し、帝国兵の悲鳴はたちまち草原に満ちた。
それを踏み越えて、解放軍はまた一丸となって、首都への進撃を開始する。
「ありがとうございます、セティエ!」
「いいえ、お役に立てて、何よりです!」
エステルが大役を果たした魔道士の隣に駆け寄って声をかければ、少々規模の大きい火炎魔法を使った彼女は、肩で息をしながらも、途切れ途切れに返してくる。
魔法はその威力が増すほどに、術者に負担をかけるという。それでも、この役目を彼女が引き受けてくれた事に感謝しながら、エステルは城下街への道をひた走った。
アーデンの城門前には、重装歩兵の一部隊が陣取っていた。重量のある鋼鉄の鎧を身にまとった兵は、それだけで威圧感を与える。
だが、その先頭に立って槍を構える人物を見て、エステルと共に最前線を走ってきたアルフレッドは、目をみはり、声をあげた。
「デヴィッド! デヴィッド・ルースじゃないか!」
「ランドール将軍の弟か」
騎士と聖剣士という立場の違いはあったが、兄という共通の目標を持って、友好を交わした仲だ。十六年会わずにいてもわかるくらいに、お互い顔は変わっていなかった。だが、デヴィッドの瞳は、希望に輝いて理想のグランディア王国を語っていた頃とは打って変わり、諦観に曇っている。
「剣を構えろ。今は敵だ」
「それはお前の本意か?」
アルフレッドが眉間に皺を寄せて問いかければ、デヴィッドは自嘲気味に口元を歪める。
「ランドール将軍とミスティ女王が目指した世界は幻想だった。今更誰に仕えようが、いつどうやって死のうが、俺は気にしない」
「そんな事を言うな!」
アルフレッドが一歩を踏み出した。途端、城壁の上に並ぶ弓兵の鏃が一斉にこちらを向いた。だが、デヴィッドが片手を挙げてそれを制し、ぎろりと睨んでくる。
「何が言いたい」
「デヴィッド、エステル様が、ミスティ様と兄さんのご息女が兵を挙げられた。エステル様ならきっと、お二人の目指した世界を取り戻してくださるはずだ」
「悪女の誹りを浴びてもか?」
喉の奥で揶揄するように笑うデヴィッドに対し、アルフレッドは「そうだ」と力強くうなずいた。
「エステル様はそれを覆してくださると、僕は信じている。だからお前も、エンゲルのような輩に義理立てする必要は、もう無いだろう」
デヴィッドは禿頭をつるりと撫で、しばし腕組みして考え込んでいた。が、不意ににやりと笑みを浮かべる。
「そうだな。どうせ捨てる命なら、つまらん奴と心中するより、己の信じるものの為に費やす方が、面白かろうよ」
そして彼は、城門の上にいた兵に向けて声を張り上げた。
「門を開けろ!」
「し、しかしデヴィッド様、我々はエンゲル将軍の命で……」
狼狽え口ごもる兵に、デヴィッドは更に追い討ちをかける。
「俺達が仕えるのは、エンゲルか、グランディア王国か」
その言葉に、兵ははっと表情を引き締め、きちりとした敬礼を送る。彼が開門装置に取りつくと、重たい音を立てて城門は解き放たれた。
「慕われているんだな」
アルフレッドが表情を緩めてデヴィッドに歩み寄ると、彼も白い歯を見せて親指を立てる。
「俺の下にいるのは、帝国で爪弾きにされて、野垂れ死ねとばかりに送られてきた連中ばかりさ。心はグランディア王国にある」
「デヴィッド、恩に着る!」
十六年の時を経て、友人達は、がっしりと固い握手を交わした。
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