第1章:翠の瞳に決意が宿る(5)

 解放軍は、エンゲル将軍の支配からムスペルヘイムを救うべく、旧王都アーデンを目指して、トルヴェール村を発った。そして、一路街道を南下し、途中にそびえるテュール砦を急襲した。

 ウッドチャックがトルヴェールに向かってなかなか戻ってこないかと思えば、いきなり襲撃を受けて、砦を守る将であるヴェスパは、履きかけた靴の左右を間違えてすっ転ぶほど、慌てに慌てた。

 命令伝達の機能は上手く働かず、乗り込んできた解放軍の戦士達に帝国兵の戦力は分断され、砦内はたちまち混戦に陥った。

 エステルは長剣を手に自ら先陣を切り、向かってきた帝国兵と切り結ぶ。かれこれ十数年アルフレッドによって鍛えられた剣の腕は伊達ではなく、長の支配で安穏と腐れていた帝国兵の力を軽く凌駕した。

 つばぜり合いに焦れた帝国兵が、舌打ちしながら一歩引き、大きく踏み込んでくる。それが好機だ。エステルは翠眼を鋭くきらめかせ、軽く身を翻す事で、敵の渾身の一撃を容易く避ける。高い位置で結った銀髪が、汗と共に宙を跳ねる。

 必殺撃をかわされてたたらを踏む敵に斬りかかる。力のこもった刃は胴を薙いで、敵は血を噴き出しながら、信じられない、という表情を顔に満たして倒れていった。

「エステル!」

 間髪入れずにクレテスの叱咤が飛んできた。振り返れば、ぎらりと光る槍の穂先が迫る。だが、その武器がエステルの身を貫く事は無かった。「ぐふう」と呻き声が耳に届き、敵が槍を取り落として、前のめりに倒れてゆく。その後ろに、剣を振り抜いたままのクレテスの姿が見えた。

「油断するなよ」

「わかっています!」

 勝ち星をひとつあげてにやりと笑うクレテスに、大きな声で返し、エステルは彼と共に砦内を駆けた。

 敵将ヴェスパは、戦いの途中で砦を放棄して逃げ出そうとしたようだが、誰に斬られたのかもわからぬまま、階段の途中で死体になっているのが発見された。その靴が左右逆で、見つけた解放軍の戦士に失笑されるという、屈辱のおまけつきで。

 とにもかくにも、指揮官を欠いたテュール砦の帝国兵は、士気を失って次々と降伏し、二百の兵に対し、百の解放軍は圧勝せしめたのである。


 降伏した敵兵の処遇を叔父に任せ、彼に勧められるままに砦の一室で休息を取るエステルのもとに、客人がやってきたのは、夕刻になってからだった。

「エステル、いよいよだな」

 長い茶髪をうなじのところでひとつにくくり、革の軽鎧に身を包んで、腰には剣を帯びている女性が姿を見せると、エステルは笑顔で椅子から立ち上がり、

「テュアン!」

 と相手の名を呼びながら駆け寄っていった。

 テュアン・フリードは両親のふるい友人で、グランディア王国でもアルフレッドと並び立つ名剣士として名を馳せた歴戦の戦士であり――と知ったのはつい先日で、それまでは、『叔父同様、優秀な剣の師匠』と認識していたのだが――、アルフレッドと同じく四十路を目前にしているとは思えない若々しさと剣の腕前を誇っている。

「よくやったな。あたしも待ちかねたぞ」

 トルヴェールの子供達の一人であるリカルド・オルフェンを連れ、各地の状況を視察して回っていた彼女は、姉のように親しげな笑みを見せると、エステルの頭を軽く撫でて、戦いの労をねぎらった。

「もう、子供扱いしないでください!」

「ああそうか、お前はもう一軍の将だもんな。こんな扱いはしちゃいけないか」

 エステルが頬を膨らませてみせても、テュアンはからからと笑いながら、今度はその膨らんだ頬をつまむ。エステルは「ぷくう」と変な声と共に空気を吐き出したが、こんな事で拗ねるのももうおしまいだと、軽い苛立ちを引っ込める。そして、期待を込めた瞳で、少しだけ背の高いテュアンを見上げた。

「これからは、テュアンも一緒に戦ってくれるのですよね?」

 しかし、その言葉に、女剣士はゆるゆると首を横に振った。

「悪いな。お前が挙兵した事で、大陸の勢力図は今後大きく変わる。しばらくは、その変化を見届けなくちゃあならない」

「そう、ですか」

 たちまち眉を垂れてしょんぼりするエステルに、テュアンは苦笑を向ける。

「そんな顔をするな。ルディにお前の挙兵を伝えたら、すぐにでも戻るさ」

 そして、「代わりにと言っちゃなんだけど」と彼女は前置きし、「入っといで」と入口に向けて呼びかける。すると、薄桃色の髪を持つ、きりっとした顔立ちの少女が入ってきた。歳の頃も背丈も、エステルとそんなに変わらないだろう。

「ヨーツンヘイムを旅している時に、帝国兵と戦っているところを援護した縁で知り合った、セティエだ。グランディアの生き残りに魔道士はいないだろう? このの炎魔法をあてにするといい」

 魔道士。その単語にエステルは目をみはる。この世界には、魔法が遍在する。それを扱えるかどうかは生まれつきの才能に定められ、幼馴染のロッテは回復の術に才を発揮したが、攻撃魔法を使う人間を見るのは初めてだ。

「はじめまして、エステル様。セティエ・リーヴスと申します」

 少女がにっこりと笑い、深々と頭を下げる。

「ミスティ女王のお話は、幼い頃、祖父に聞かされて育ちました。帝国を打倒して、エステル様の母君の目指された世界を取り戻す為に、どうか遠慮無く私の力をお使いください」

 そうして顔を上げた彼女は、ぱちんと指を鳴らす。たちまち手から現れた小さな炎に、まるで手品のようだとエステルが目を丸くしていると。

「これくらいの火花から、草原を焼く炎までは制御できます。どうかこれからよろしくお願いいたしますね」

 セティエはさっと炎を仕舞い、再度丁寧なお辞儀をした。

 その様子を笑みを浮かべて見守っていたテュアンが、踵を返す。

「じゃあな、エステル。お前の武運を祈っている」

「テュアンも、どうかお気をつけて」

 エステルの言葉に、女剣士は背を向けたままひらひらと右手を振った。


「よっ、ロッテちゃん」

 大部屋で負傷者の治療に駆け回り、一段落ついて、部屋の片隅でふうと息をついたロッテは、努めて明るく声をかけてくる青年の存在に気づき、顔を上げた。黒髪をオールバックにし、濃紺の鎧を着込んだ、やたらと大柄な男が、入口で手を振っている。

「リカルドさん、ご無事だったんですね」

「あー、まあね」

 たたっと駆け寄れば、青年はどこか決まり悪そうに頬をかいた。

 リカルドの槍斧ハルバードの腕前は秀逸で、膂力にかけてはトルヴェールの子供達の中でも群を抜いている。その実力を買われて、テュアンと共に各地を巡っているのだ。

 だが、ロッテの中では、彼は『強い仲間』それだけの認識では終わらない。

 自分が死なせた少年の、兄、なのだから。

 リカルドの弟マイスは典型的なガキ大将で、最も歳の近い男子であるクレテスと何かと張り合っていた。ロッテがクレテスに淡い恋心を抱いている事も、彼を苛立たせた要因だったのだろう。

 そんなある日、薬草摘みに出かけたロッテが帝国兵に捕まり連れ去られそうだったところを、マイスとクレテスが助けにきたのだ。マイスはクレテスにロッテを託すと、二人を逃がす為に囮となり、敵に捕らえられ、そして生きながら地獄を味わった末に無惨に殺された。あの時の恐怖はロッテの心に、身近な人をあっけなく失うおそれを、強烈に刻み込んだ。

 そして同時に、マイスの兄であるリカルドへの申し訳無さも。

 そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、リカルドはロッテを常に気にかけ、何くれと世話を焼いてくれる。ロッテの実の兄ユウェインが、数年前に特命でトルヴェールを離れて、少女が寂しい想いをしている事も、察してくれたのだろう。だから彼は、

「平気か?」

 と様々な意味を込めて、訊ねてくるのである。

「エステル達が最前線で戦っているのに、私が怖がっていたら、筋違いです」

 彼の厚意に甘えてはいけない。寄りかかってはいけない。彼に弱音を吐いてはいけない。自身にそう言い聞かせてきっぱりと返せば、「あー……そうか」とリカルドはがりがり頭をかき、それから、「手、出して」と言うと、素直に従って差し出したロッテの右の掌に、小さな木彫りのうさぎの飾りを落とした。

「アルフヘイムで見つけたんだ。うさぎは幸運を呼ぶ守り神なんだと」

 思わず泣き出しそうになる。こんな彼の気遣いが、嬉しくて、でも、心苦しくて。だからロッテはぎゅっと木彫りのうさぎを握り締めて、顔を隠すように深々と頭を下げるのだ。

「ありがとう、大事にしますね」

 そうして、魔法を行使する際の媒介となる杖に、飾りについていた紐を通してくくりつける。それを満足そうに見届けたリカルドが、背を向けた。

「じゃあ、オレ、もう行くわ。あんまり油売ってると、テュアン様にどやされるからな」

「お気をつけて」

 遠くなる彼の背中を見送りながら、ロッテは確実に赤く火照っているだろう頬を、杖を持っていない左手でおさえた。

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