第1章:翠の瞳に決意が宿る(4)

「無事で良かったわ」

 アルフレッドの話が終わり、皆が各々の家への帰路につくところで、従姉のラケに話しかけられて、リタは群青の視線を、従姉の紫のそれと絡み合わせた。

「大方、貴女が皆をけしかけたんでしょう」

「失礼だな。エステルが一番乗り気だったよ」

 手を焼く子供を見るかのように肩をすくませるラケに対し、リタはむっとした顔を作ってみせた。

 ラケとリタの母達は、ムスペルヘイム女王メリアイに仕えていた三人の魔鳥騎士、リディ、ルディ、レディのユシャナハ三姉妹として、国内外に名を馳せていた。

 しかし、帝国の侵攻を受けた際に、ラケの母リディはメリアイ女王と運命を共にし、炎の中に消えた。リタの母ルディがその後、彼女らの遺志を継いで生き残りを集め、ムスペルヘイムの南、アルフヘイム自治区の一都市で再起をはかっている。

 末の妹レディは数年前に病死し、遺された二人の子供のうち、兄のレナードはルディと行動を共にしているが、妹のパロマは、些細な理由から兄と仲違いをして、トルヴェールを飛び出し、行方は杳として知れない。

「パロマは今、何をしているのかしら」この場にいないもう一人の従妹の名を出して、ラケが嘆息する。「戻ってきて、一緒に戦ってくれたら良いのだけれど」

「戦う、のかな」

 リタは亜麻色の睫毛をそっと伏せて、ぽつりと呟いた。

「エステルは、戦うのかな。グランディアを取り戻す為に」

 共に育った親友の背負うものの重さを思い、溜息が洩れる。だが、彼女が決意を固めた場合、それについて行かない、という選択肢はリタには無い。今まで、多くの仲間を帝国兵に殺された。復讐は何も生まないと、聖王神ヨシュアを信じる司祭は説く。それでも、帝国に一矢報いたい気持ちが自分の中にある事を、リタは誤魔化せない。そう、エステルの祖である聖王と竜王でさえ、戦う事で平和を勝ち取ったのだから。

 ぐっと拳を握り込む。従妹の心中を察したか、ラケが軽くこちらの肩に手を置いて、まっすぐに見つめてきた。

「それは、エステル様次第だわ。貴女自身がどうするかと同じように」


 クレテスは台所で、無言のまま鍋と睨み合っていた。エステルの為に夕飯を作ろうと始めたのだが、思考はどんどんよそへ逸れていってしまう。

 小さい頃からよく知っていたと思っていた幼馴染が、大陸最大国の正統なる跡継ぎだと聞いて、複雑な思いが胸の中で渦を巻く。隣に立って、手をつかんで引っ張っていてやらねばならないと思っていた少女。彼女が、戦いの矢面に立ち、世界の期待と悪意を一身に受ける様を想像すれば、結局自分は何もできないのではないかという無力感が、湧いて出る。溜息ひとつ、零した時。

「よく、エステル様を守ったな」

 後ろから、こつんと拳で軽く頭を小突かれた。

「兄貴」

 振り返れば、実の兄ケヒトが立っていて、温和そうな顔を更に緩めた。

 クレテスとケヒトは似ていない。クレテスが三歳の時に、偵察に出たまま帰ってこなかった父ディアスは、茶髪に焦茶色の瞳をしていた。ケヒトは父に生き写しだと、父を知る古参の騎士達にはよく言われていたが、クレテスは見事なまでの金髪に深海の蒼の瞳だ。グランディア脱出時に死んだ母エレノアも、そんな色は持っていなかったというので、クレテスはどこかの先祖返りなのだろうと言われた。

「兄貴は知ってたのか。エステルの事」

「まあ、な」弟の問いに、ケヒトは肩をすくめる。「俺とラケとリカルドは、聞かされていた」

 リカルドとは、トルヴェールの幼馴染の一人だ。かつて、クレテスに何かと張り合っていたガキ大将がいた。その兄である。

 いた、なのは、彼がもう存在しない故だ。ある暑い夏の日、連れ去られそうだったロッテを助けようとして帝国兵に挑んで捕まり、彼らの玩具にされた挙句に川原に打ち捨てられたのだ。あの時、木のうろに身を隠して、果てしない恐怖に打ち震えるロッテを抱き締めながら、徐々に弱くなってゆく悪友の悲鳴を聞き、自分の無力を思い知った記憶は、魂にこびりついて離れない。

「あいつの仇を討つ為にも、おれは戦いたい」

 だが、その私情に、エステルを巻き込んで、その名を利用して良いものかどうか。迷いは尽きないのだ。

「伝えてみろよ。鍋、噴きこぼれるぞ」

 兄にふたつの事を同時に言われ、はっと我に返り、慌てて鍋に向き直る。

「お前の思う本音をぶつけて、エステル様が何と答えるか。自分の気持ちに従えばいいさ」

「自分の、気持ち」

 呟きながら見下ろすスープは、ことことと音を立ててよく煮え立っていた。


 日が暮れて、三日月が空に昇った。村人達も後片付けを終えて、無事な建物で夜を過ごすようだ。その様子を窓辺から見渡しながら、エステルは深々と息をついた。

 この事態をトルヴェールに招いたのは、自分の存在が原因だ。

 大国の王女。大罪人の娘。明かされた事実が怖い。自分がグランディア王女を名乗って世間に出てゆけば、今日より更に多くの血が流れるのだろう。窓辺から離れ、壁にもたれかかって、何度目かわからない溜息を吐き出した時、部屋の扉がノックされた。

 応えれば、食事を持ってクレテスが入ってきた。白パンと、玉葱のコンソメスープ、大麦の茶が盆に載っている。

「腹減っただろ? 食えよ」

 そう言って、少年は盆をテーブルの上に置いた。

 シュタイナー家の兄弟は、幼い頃から両親がいなかった事もあって、料理が得意だ。人並と言えばそれまでだが、砂糖と言われて塩どころか小麦粉を取り出し、普段表情を崩さないアルフレッドをして、育て方を間違えたのではないかと本気で落ち込ませたエステルからしたら、充分に得意の域だ。

 温まった食べ物のにおいが、昼前から何も食べていなかったすきっ腹を刺激する。椅子に座り、「いただきます」と手を合わせて口にすれば、玉葱はとろとろで、パンももちもちしている。緊張に冷えていた身体が、腹の底から温かくなってゆくようだった。

「エステル」

 あらかたを食べ終えて、茶を飲んでいると、いつの間にか向かいの席についていたクレテスが、神妙な顔つきで告げた。

「おれは、戦いたい。帝国を倒す事でこの大陸が変わるなら、泣いたり死んだりする奴が減るなら、この手にある力を役立てたい」

 エステルが目をまたたかせると、深海色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめて、だから、と言葉を重ねる。

「もしエステルが戦うなら、背中はおれが守る。いつでも傍にいる。お前の力になる。お前が迷ったら、おれも一緒に道を探す」

 やや早口に紡ぎ出された幼馴染の意外な情熱に、エステルは思わず、返す言葉を失ってしまった。

 彼は幼い頃は、気が強くて、喧嘩っ早くて。よく泣いてばかりだったエステルは、彼を苦手にしていた時期もあった。

 だが、ある幼い日、トルヴェールの裏山で迷って二人きりになった時、彼はぎゅっとこちらの手を握って、

『おれが守るから! だから手ぇ離すなよ!』

 と叱咤してくれた。

 それからだろうか、彼を苦手に思わなくなり、むしろ頼もしく感じるようになったのは。

 今も、瞬間戸惑ってはしまったが、真摯に見つめてくる瞳が、こんなにも心強い。

「ありがとう、クレテス」

 茶のカップを盆に戻し、エステルは微笑む。迷いは晴れた。彼が信じて力を託してくれるならば、自分は胸を張ってそれに応えよう。

 心は、決まった。


 この時が、来た。アルフレッドはそう痛感しながら、天空の月を見上げた。

 十六年前の二月、ミスティにエステルを託されたあの日の事は、思い出す度に苦痛を伴う。

 迎えにゆくと、必ず助けると約束を交わして、叶わぬまま永遠に別れてしまった、あの女性の忘れ形見が、この腐れた世界を変えてくれるのか。

 だが、と嘲笑する自分もいる。

 失われた命は戻らない。決して、あの頃には戻れはしない。元の形には直らない。己の心に常に棲んでいたのは、復讐だ。全てを奪ったヴォルツを、この手で討つという。そこに、何も知らなかった姪を巻き込んで良いのだろうか。

「叔父様」

 逡巡を断ち切ったのは、その姪の声だった。母親に果てしなく似ているが、母親よりもやや透明度の高い声。その声に振り向いて、アルフレッドは一瞬、幻視にまばたきをしてしまった。

 しゃんと背を伸ばして立つその姿は、かつての優女王と同じく、見る者を惹きつけて離さない牽引力を持っている。

「考えました」

 エステルが、決然と口を開いた。

「お母様は、真実この大陸の平和の為に、力を尽くしておられたのですよね。それを途中で断ち切られて、どんなにか無念だった事でしょう」

 銀色の睫毛を一瞬伏せて、ならば、と彼女は続ける。

「私はそれを受け継ぎます。今は戦火を広げるだけだとしても、その先に、お母様の目指した世界があると信じて、反逆者の誹りを受けてでも、戦いの先陣に立ちましょう」

 アルフレッドは驚きに目をみはった。よちよち歩きで舌ったらずにこちらの名前を呼びながら後をついてくる幼児だと思っていた姪が、これだけの事を考えて、決意を固めてくれた事に。

 これはもう、自分も言い訳を繕って逃げている場合ではないだろう。

「エステル様」

 胸に手を当て、ひざまずく。頭上から戸惑いの気配が降ってきたが、構わずに言葉を紡ぐ。

「ご決意、たしかに受け取りました。私はこれから一人の臣下として貴女を支え、戦い抜く事をここに誓います」

「アルフさんだけじゃないよ!」

 突然場に飛び込んできた声に振り向けば、リタ、ロッテ、クレテス、ケヒト、ラケが雪崩れ込むように姿を現した。

「あたしだって、エステルと一緒に戦う!」

「逃げ隠れするだけなのはもう嫌。皆と一緒に行く」

「言っただろ。おれはお前を支えたい」

「だ、そうです。こいつは言い出したら聞かないから、俺が手綱を握っていないと」

「ムスペルヘイムを帝国の支配から解き放つのは、亡き母の願いでもありますから」

 子供達もそれぞれ決心をしている。アルフレッドは大きく息をつき、再び姪に向けて頭を垂れた。

「エステル様。解放軍の盟主としてお立ちください。貴女の名の下に、兵が集うでしょう」


 アルフレッドの言う通り、翌日には、トルヴェールだけでなく、周辺村に隠れ住んでいたグランディア王国の騎士やその子供達が、まがりなりにも装備を整えて馳せ参じ、その数は百を超えた。

 帝国の戦力数万に比すれば、まだ吹けば飛ぶような数。

 しかしそれでも、やがてその差を覆す事になるエステル王女の伝説は、この北の辺境から始まったのである。

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