第1章:翠の瞳に決意が宿る(3)
気がつくと、夕陽差し込む部屋の中、ベッドの上だった。
「大丈夫か」
心配そうにかけられる声の方へ視線を動かせば、蒼の瞳がこちらを覗き込んでいる。
「クレテス……」
ぼんやりと相手の名前を呼べば、少年はこちらの額に手を当て、「熱は無さそうだな」とぼやくように言った。
そこで、泉が湧くように記憶が蘇ってくる。初めて人を殺した。この手で斬り捨てた。そして彼らが呪詛のように言い放った名前。グランディア。
「私、は」
ベッドの上に半身を起こし、今更震える両手を見下ろしていると、部屋の扉が開く音がして、リタとロッテが姿を現した。
「エステル、平気か?」
「お茶を持ってきたから、飲んで。落ち着くと思うの」
リタが決まり悪そうに片手を挙げ、ロッテがお盆に載せたマグカップを差し出す。彼女が好きな、カモミールとブルーマロウのブレンドを口に含めば、甘い熱が喉を滑り落ちてゆき、昂っていた気持ちが鎮まってゆくのを感じた。
「エステル様、お目覚めですか」
人心地ついたところで、アルフレッドが、クレテスの兄ケヒトとリタの従姉ラケを連れてやってきた。叔父はシャツを着替えていたが、血のにおいがする。実は自分にこびりついたものではないのかと今更気になって、自身のにおいをかぎ、そうではない事を実感して、不謹慎にも安堵の吐息をついた。
「叔父様」
それから、叔父をまっすぐに見すえて、問いかける。
「帝国兵は、私を探していました。教えてください、叔父様。私は一体、何者なのですか」
アルフレッドが諦めたように深々と息をつき、
「本当は、もう数年は機をはかるつもりだったのですが、こうなってしまった以上、仕方ありません」
と、重たい鉛を吐き出すかのように口を開いた。
「あたし達は、いない方がいい?」
何にでも首を突っ込みたがるリタが、彼女にしては珍しく控えめに訊ねると、「いや」とアルフレッドは首を横に振った。
「丁度いい機会だ。お前達も知るべき時だろう」
そうして叔父は、エステルに向き直る。
「四英雄の伝説は、ご存知ですね」
その言葉に、エステルはしっかりとうなずく。三百年前、シャングリア大陸を支配していた魔族の王イーガン・マグハルトを打ち倒し、人の世を築いた、聖王ヨシュア・イルス・フォン・グランディアの名は、シャングリア大陸に生きる者として知らぬはずが無い。子供が枕元の御伽話として必ず聞く伝説だ。
聖王ヨシュア、その弟ノヴァ、竜族の王ヌァザ、魔族でありながらヨシュアと共に戦った英断魔将リグ。彼らを総称して、『四英雄』と呼ぶ。
「貴女の母君であるミスティ様は、聖王ヨシュアを祖とするグランディア王国の、第十九代国王であらせられました」
ミスティは、ヨシュアの血を引くグランディア国王アルベルトと、竜王ヌァザの娘ドリアナの間に生まれた混血で、稀有なほどに強大な魔力を持っていた。だが、彼女はその力を決して他者を傷つける為に振るう事は無かった。適性の無い者が使えば生命力を削る回復魔法の才に恵まれた事もあって、彼女は自身の魔力を、ただただ、人々を癒す為に用いた。
大陸の平穏と他種族との相互理解を目指していた、父アルベルトと母ドリアナの志を、ミスティは引き継いだ。大陸の各国に友好を呼びかけ、魔族、竜族ら大陸での
「偽善者、と嘲笑う者も当時からいました。しかし、彼女を支える人間の方が多かった。その先頭に立っていたのが、私の兄ランドールでした」
アルフレッドの二つ年上の、腹違いの兄、ランドール・フォン・マリオスは、ミスティの幼馴染として、また、銀色の翼を持つ
だが、彼女の理想は、そんな生温い妄想、とばかりに打ち砕かれる。十六年前の冬に起きた、宰相ヴォルツ・グレイマーの反乱であった。
ランドールは、ヴォルツの仕掛けた僻地での反乱を鎮めに赴いた先で、ヴォルツ側に引き込まれていた部下に裏切られ、『ブリューナク』ごと撃ち落とされた。
女王騎士を失ったグランディア城は炎に包まれ、アルフレッドはミスティから赤ん坊のエステルを託されて、生き残った仲間達と共に、この北方ムスペルヘイムに落ち延びた。グランディアと懇意にしていたムスペルヘイム女王メリアイ・エリューニスは、彼らを快く迎え入れ、トルヴェール村とその周辺の集落を、身を隠す場所として提供してくれた。
その後、グランディア王国はヴォルツを皇帝とする帝国と化し、ミスティは望まぬ皇子を一人残して逝去。メリアイ女王も討たれて、ムスペルヘイムは帝国の圧政下に置かれた。
「ミスティ様を、戦乱を止められなかった魔女として謗る者は後を絶ちません」
褐色の瞳に一瞬怒りをにじませて、アルフレッドは「ですが」と続ける。
「ミスティ様の血を引く、正統なグランディア王国の後継者であるエステル様が、帝国へ立ち向かう旗頭となれば、その評価を覆す事も可能でしょう」
そうして彼は、エステルに向けて深々と頭を下げる。
「エステル様、どうか、解放軍の盟主としてお立ちください。このトルヴェールだけでなく、周辺には、グランディアの心ある兵の生き残りや、その子供達が、多く住んでおります。その誰もが、エステル様のご成長をお待ちしておりました」
そして一拍置いて、叔父は力強く、告げた。
「どうか、我々を希望へとお導きください」
その姿を前に、エステルは困惑を隠せなかった。
この叔父が、普通の身内が取るような態度ではなく、姪を『様』づけで呼び、あたかも従者が主人に仕えるかのごとく恭しい態度を崩さずに接してきた理由は、今わかった。村人達が時折、期待に満ちたまぶしそうな目で自分の剣技を見守ってきた理由もわかった。
それでも、だ。
自分に、帝国という巨大な岩を打ち砕く力はあるのだろうか。そんな大それた行動を起こす事は、可能なのだろうか。
茶を飲み落ち着いて忘れたはずの、人の肉を裂く感触が、生々しく掌の内に蘇って、毛布を握り締める手が震える。
叔父から顔を逸らしてうつむき、痺れたようにもつれる舌を励まして、ようよう出てきた言葉は、
「……考えさせてください」
その一言であった。
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