第1章:翠の瞳に決意が宿る(1)
十六年前に興ったグランディア帝国は、その侵略の版図をシャングリア大陸全土へと広げていた。
支配下に置かれた国の状況は悲惨で、各地の占領官は重税、重労働を人々に課し、役人の横暴は日常茶飯事。袖の下に手を伸ばして何とか生命の安全を図ろうとした者は、安堵しつつ砦を出ようとしたところで背後から心臓を突かれて崩れ落ちる。帝国兵は、民への暴虐や略奪を平気で行い、女を襲い、泣き叫ぶ子供を吊るし上げて手足を削ぎ、残虐極まりない行為に笑声をあげた。
帝国への非難の声を聞き届ける者など無い。いまだ反抗を試みる勇敢な心ある者もいるにはいたものの、どれもまとまりのない小規模反乱のまま叩き潰され、指揮を執った人間は、見せしめに街の広場で公開処刑として首を落とされた。
圧倒的な恐怖支配。全ての希望は絶たれたかに思われた。
だが、ある頃から、ひとつの噂が流れ始める。
いわく、亡くなったグランディア女王の遺児が、旧グランディア王国の忠臣達の手に守られて、育てられているのだと。
はじめは誰もが、絶望の中に生じた妄想として、諦めの溜息をついていた。しかし、帝国が、既に滅びた大陸北東の王国ムスペルヘイム領に、密かに多くの兵を送り込んで、何かを捜索している、その情報がまことしやかに流れ始めると、人々の抱く思いも変化を見せた。
『争い無き世界を望む優女王』の御子ならば、自分達を救ってくれるかもしれない。帝国を打ち倒し、元の穏やかな大陸を取り戻してくれるかもしれない。
女王を魔女、悪女と
聖王暦二九八年三月。
将来の英雄は、いまだ自分の出生と課せられた運命を知らぬまま、ムスペルヘイムの辺境村トルヴェールで、年頃の若者の暮らしを営んでいた。
春の始まりのトルヴェールから臨むアルネリオの山脈は、まだ根深い雪の冠を戴いている。
快晴でも肌寒さが残る空の下、少年少女のかけ声が、白樺の林の中を突き抜けた。
「クレテス、そっちだ!」
前だけを紫に染めた亜麻色の髪の少女が、群青の瞳を細めて叫ぶ。時折飛ぶ矢に追い立てられ、冬眠から早く目覚めた熊は、唸り声をあげ、張り出した枝をぼきぼき折りながら林を駆ける。
その頭上から、人影が降ってきた。目の覚めるような金髪を無造作にはねさせた少年が、深海を思わせる蒼の瞳で熊を見すえて、手にした剣を振り下ろした。刃は熊の肩を斬り裂き、獣の咆哮が響き渡る。
ぽたぽたと。血を流しながら、それでも熊は何とか命永らえようと木々の合間を駆けてゆく。
「――エステル!」
少年が声を張り上げた。
「はいっ」
凛とした応えが返る。それと同時、白の多い林の中に、銀が翻った。
声に違わぬ少女だった。歳の頃は十六、七。大陸では非常に珍しい、水色がかった銀髪を、高い位置でまとめている。普通にしていたら愛らしいだろう顔を緊張に引き締め、翠の両眼で向かってくる熊をしっかりと睨みつけて、一声と共に片手剣を突き出した。
肉を断つ音は、断末魔の叫びにかき消される。細腕からは想像もつかぬ重い一撃で急所を突かれた熊は、少女が剣を引き抜くと、一歩、二歩とよろめいたが、遂に力尽き、どうと地面に倒れ伏した。
「っしゃ!」亜麻色の髪の少女が、弓につがえていた矢を箙に戻しながら、快哉をあげて駆けてくる。「これで今夜は熊鍋だ」
「リタは二言目には食い物の話だよな」クレテスと呼ばれた少年が、剣を鞘に収めた後、肩をすくめながら熊の死体のもとへ歩み寄った。
「皆、怪我は無い?」
そこから少し離れた木の陰より、杖を握り締めたまま、ひょこりと顔を出す少女がいた。顔立ちはまだ幼さを残し、赤毛をふたつの三つ編みに結わいているのが、より年少感をかもし出す。
「私達は大丈夫です。ありがとう、ロッテ」
エステルと呼ばれた少女は、恐る恐る近づいてくる友人に笑顔を見せた。ロッテだけは、この場にいる者達の中で唯一、戦う力を持たない。トルヴェールで育った幼馴染達の間でも、彼女だけが魔力に恵まれた。しかし本人はそれを人を傷つける事に用いるのを良しとせず、回復魔法を修得して、皆の傷を癒す事で役に立つ道を選んだ。
「それにしても」
まだ赤黒い血を流す熊を見下ろしながら、エステルは翠の瞳を憂いに曇らせる。
「冬眠の時期は終わりではないのに、こうして出てくる獣がいるなんて」
「それだけ、帝国兵があっちこっちをうろついて、場を荒らしてるって事だろ」
クレテスが、つりがちな目を更につり上げて、忌々しそうに舌打ちした。
現在シャングリア大陸を支配しているグランディア帝国の兵は、占領下の旧ムスペルヘイム王国内の各地に散らばっている。「占領国の治安維持の為」などという名目は方便に過ぎず、兵士達は村々を襲い、略奪、放火、強姦、殺戮といった、非道の限りを尽くしてやまない。それがここ数年、ムスペルヘイム領内で北の果てに位置するトルヴェール近くでも、姿を見受けるようになった。
『決して村から出ないように』
トルヴェールの大人達は、そうやって少年少女を諭す。ことエステルに対しては、絶対に帝国兵に顔を見られるな、と、彼女の育ての親である叔父アルフレッドを筆頭に、強く言い含めてきた。
自分が帝国兵に見つかると、どんな悪い結果をもたらすのか。エステルは知らない。大人達はただただ、見つかるな、と言い、しかし、『将来必要になる』と、子供達に武器を握らせ戦い方を教え込んだ。
同じトルヴェールで育った仲間でも、クレテスの兄ケヒトや、リタの従姉ラケら他数人の年上組は、あるいは大人について村の外へ出かけ、あるいは何か役目を負って村を出ていった。エステルと、歳の近いクレテス達だけが、武器を必要とする理由も知らされぬまま、時に剣を打ち合って稽古をし、時にこうして村の近くに出没する獣を狩って、腕が鈍らぬようにしているのである。
「とにかく、これを持って帰ろうよ。ジル婆さんあたりに任せれば、美味い鍋にしてくれるだろ」
沈みかけた空気を払拭するかのように、リタが明るい声をあげて、熊の頭を蹴った時。
「ああ、お前達! ここにいたのか!」
切羽詰まった声が四人の耳朶を叩いたので、揃って振り向けば、顔面蒼白になった村の男性が、時折よろめきながら駆けてくる姿が見えた。その左肩をおさえた手指の間から、赤いものが流れ落ちているのを見て、エステル達の表情もこわばる。
「早く逃げるんだ、帝国兵が……」
そこまで発したところで、男性は硬直して目をむき、その場に崩れ落ちる。背後から現れた者の姿を見て、エステル達は咄嗟にそれぞれの武器を手に身構えた。
三百年前に大陸を救った英雄であり、グランディア王国の祖である聖王ヨシュアが振るったという聖槍ロンギヌスに大蛇が絡みつく紋章が刻まれた銀の鎧。兜の下に隠れて顔は見えないが、体格から男とわかる。それが、四人。
「銀の髪、お前がエステルか」
先頭の一人が、村人を斬り捨てて赤に染まった抜き身の剣の切っ先をこちらに向けて宣う。髪色だけで名を言い当てられるとは。大人達が『顔を見られるな』と常々言ってきた意味の片鱗を思い知り、エステルの背中を、狩りで火照ったわけではない汗が伝った。
応えなかった事が答えと理解したのだろう。「エステルは生かして捕らえろ、他は殺せ!」先頭の男が後続に怒鳴って、四人の兵が動いた。
自分が狙われている。それでも、エステルは冷静だった。
「ロッテは隙を見て彼を助けてください」
戦う術を持たない友に、倒れ伏している男性を視線で示し、そのままクレテスとリタに目配せする。友人達はそれだけで彼女の意図を察し、各々頷くと、地を蹴って散開した。
標的がばらばらになった事で、帝国兵達は一瞬戸惑ったが、まがりなりにも訓練された軍人。すぐさま各個撃破を狙って少年少女を追いかける。しかし、子供達も負けてはいなかった。
「ほらほら、追いついてみせろよ!」
リタは弓と箙を放り出し、白樺の木々の合間を跳ぶように駆ける。がしゃがしゃと鎧ずれの音が迫るのを聞き、彼女はにやりと口元を持ち上げると、たあん、と軽く跳躍。木の幹を蹴って突然方向転換し、兵の振るった剣が空振るのを笑ってやりすごしたかと思うと、跳ぶ勢いを殺さぬまま鋭い蹴りを敵の鳩尾に食らわせた。そして、呻いてうずくまる兵の背後に回って腕と肘でがっちりと首を抑え込み、骨の折れる音を立てる。彼女が真に得意にしている、格闘術を微塵も隠さない戦い方で、一人を仕留めた。
クレテスは二人の兵に追われていた。四人の中で唯一男である彼が、一番厄介な相手と思われたのであろう。評価してもらえた事は光栄だが、あまり嬉しくはない。それでも、数の不利など気にせずとばかりに少年は両手剣を構え直し、敵を待ち受ける。振り下ろされた剣を得物の腹で受け流し、続く一撃を身を引いてかわすと、そのまま足払い。足元をすくわれ、鎧の重さに引かれてたたらを踏む兵の喉笛を斬り裂く。ひゅおっと情けない呼吸音を最期にして、敵があおむけにのけぞる。そのまま、仲間がやられて怯むもう一人に向けて大きく踏み込み、鎧の隙間に刃を滑り込ませる。敵は、断末魔の悲鳴すらあげる事無く絶命した。
「ええい、どいつもこいつも役に立たない!」
同胞が子供相手におくれを取った事に、残る一人が唾をまき散らして毒づいた。
「こうなったら、エステルだけでも!」
半ば自棄になって、敵が剣を振りかざし走り込んでくる。しかしエステルは動揺する事無く、その動きを翠の瞳で観察していた。
『自分より相手の方が膂力に勝ると思う時は、下手に競り合いに持ち込まない事』
剣術の師匠でもある叔父アルフレッドの言葉が脳裏を横切る。
『攻撃が大振りの敵には、必ず隙があります。そこを狙うのです』
長剣を正眼に構えて、冷静に敵の動きを観察する。
(見つけた)
叔父どころか、友人達を相手にするよりも遙かにわかりやすい間隙を縫って、剣を突き出す。刃は吸い込まれるように敵の急所を貫く。肉を裂く重たい感触が、手に伝わった。
「こ、こんな、馬鹿な……」
剣を引き抜けば、信じられない、といった声色を血の塊と共に吐き、兵は前のめりに倒れて動かなくなった。帝国兵を相手取るのは初めてながら、ものの数分で、エステル達は敵を全滅に追い込んだのである。
「何だ、帝国兵っつっても、大した事無かったな」
手についた汚れをはたき落としながらリタが歩み寄ってくる。クレテスは倒れ伏した兵の兜を蹴って、反応が無い事を確かめている。
「大丈夫?」
ロッテの震える声に振り向けば、彼女が白樺の幹の陰からこわごわ顔を出していた。かつて、己の不手際で友人を一人失った彼女は、人の死に非常に敏感だ。今も、また仲間を失うかもしれない恐怖と必死に戦っていたのだろう。
「私達は大丈夫。それより」
「平気」
エステルの問いかけの途中で、意図を察したロッテはしっかりとうなずく。その背後から、帝国兵に斬られた男性が、まだふらつきながらも姿を現した。服に赤い血がにじんでいるが、新しく流れ出す様子は無い。ロッテの回復魔法がしっかりと効いたのだろう。
「まだまだ子供だと思っていたお前達に助けられるとはな」
男性は苦笑し、そしてすぐに表情を引き締める。
「だが、これで終わりじゃあないんだ。村に帝国兵がやってきた。エステルを探している」
その言葉に、リタとロッテがエステルを振り返り、クレテスも駆けてくる。
「村は皆で何とかする。お前達は、俺達がやり過ごすまで身を隠すんだ」
エステルはすぐには応えなかった。顎に手を当てて考え込み、出した答えは、
「いいえ」
と首を横に振る事であった。
「彼らの狙いは私なのですね。ならば、私が見つかるまで、彼らは諦める事が無いでしょう。帝国兵の残虐さは噂に聞いています。このままでは村を滅ぼしかねません。それなら」
翠の瞳に、凛とした決意が宿る。
「こちらから討って出て、指揮官の首を取ります」
男性が、ロッテが目をみはり、リタが口笛を吹いて、クレテスが「だよな」と歯を見せた。
「だ、だが」男性が困惑した様子で問いかける。「勝算はあるのか? 相手はここに来た連中の倍以上いるんだぞ。お前にもしもの事があったら、今村を離れているアルフレッドさんに、申し訳が立たない」
しかし、エステルの決意は変わらなかった。
「叔父様がいらしても、きっと、『戦え』とおっしゃると思います」
トルヴェール村の人々は、物心つく前から世話になった、大切な恩人だ。そんな彼らが、自分の名のもとに踏みにじられ、命を奪われるのを見過ごせる性格など、エステルは生憎持ち合わせていない。
「それに、策ならありますから」
そう自信ありげに告げて、彼女は、倒れ伏す帝国兵を見渡した。
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